第17話 禁足地の闇と神喰らいの影、そして水晶様の過去の傷痕
綾織様に導かれ、私たちはついに神域の最深部――「禁足地」と呼ばれる場所へと足を踏み入れた。
一歩踏み込んだ瞬間、背筋がゾクッと粟立つのを感じた。そこは、今まで見てきた神域のどんな場所とも違う、異様な空気に満ちていた。陽の光はほとんど届かず、植物という植物は黒く枯れ果て、まるで生命そのものが拒絶されているかのよう。そして何より、肌を刺すように濃密な邪気が、じっとりとまとわりついてくるのだ。
(な、何ここ……。空気が重いっていうか、もう、息をするのすら苦しいくらい……。水晶様の手、いつもよりずっと冷たい気がする……大丈夫かな、水晶様……)
私は無意識のうちに、隣を歩く水晶様の袖をぎゅっと掴んでいた。綾織様も、普段の軽やかな笑顔を消し、鋭い視線で周囲を警戒している。
「……これは、想像以上に酷いわね。これほどの濃密な邪気……並の神であれば、ここに近づくだけでごっそり力を吸い取られてしまうわよ」
綾織様の声が、緊張で強張っている。
禁足地の奥へ進むにつれて、水晶様の様子が明らかにおかしくなってきた。呼吸は浅く速くなり、その美しい顔からは血の気が引いて、まるで陶器のように真っ白になっている。
「水晶様…? 顔色が、すごく悪いですけど…」
「……平気だ。問題ない」
平気なわけ、絶対ないでしょ! 声、震えてますよ!?
とある、ひときわ邪気が濃い、古びた石造りの祭壇のような場所の前を通りかかった時だった。水晶様が、突然「うっ…!」と苦しげな声を漏らし、その場に膝をつきそうになったのだ。
「水晶様っ!?」
「……大丈夫だ、と言っているだろう……」
彼は額に脂汗を浮かべ、何か見えないものと戦うように、ギリッと奥歯を噛みしめている。その瞳は、焦点が合っていないように虚ろで、何か恐ろしい過去の光景を見ているかのようだった。
「……あの時も……こうだった……。俺と、巌が……ここで……ああっ!」
(水晶様が、こんなに取り乱すなんて…! よっぽど辛い記憶が、この場所にあるの…? 一体、ここで何があったのよ!? 巌固様と、二人で…?)
私の心臓が、不安と恐怖でバクバクと鳴り響く。
その時だった。
『……ククク……来たか、水龍……。そして、新たな贄どもよ……』
(え……!?)
声が、聞こえた。いや、声じゃない。直接、頭の中に響いてくるような、ねっとりとした、底なしの悪意に満ちた思念。
『フフフ……久しぶりだなぁ、この感覚は……。実に、美味そうな魂の匂いだ……。特に、そこの小娘……お前の魂は、極上の味がしそうだ……』
(ひぃぃぃぃぃぃぃ! な、何この声!? 体が…体が、動かない…! 金縛りにあったみたいに、指一本だって…!)
姿は見えない。けれど、禁足地のさらに奥、淀んだ神力の源泉の、さらに深淵から、とてつもなく巨大で、邪悪で、飢え乾いた「何か」の気配が、圧倒的なプレッシャーとなって私たちを押し潰そうとしてくる!
「水晶様っ! 綾織様っ!」
水晶様は、その邪悪なプレッシャーと過去のトラウマの板挟みで、苦悶の表情を浮かべている。綾織様も、必死に神気で抵抗しようとしているけれど、顔色は真っ青だ。
(ダメだ…!このままじゃ、みんなやられちゃう…!)
恐怖で全身が震える。でも、それ以上に、水晶様をこんなに苦しめている「何か」に対する怒りが、私の胸の奥からこみ上げてきた。
「水晶様を…! みんなを苦しめるのは、あなたなのね…! ぜっっったいに、許さないんだからっ!」
私は、自分でも信じられないくらいの勇気を振り絞って、水晶様の前に立ちはだかるように一歩踏み出し、懐からあの古びた笛を取り出した。
(怖い…! すごく怖い! 手足がガクガク震えてる! でも、私がしっかりしなきゃ! 今度こそ、私が水晶様を、みんなを守るんだ!)
震える唇に笛を当て、祈りを込めて、私は息を吹き込んだ。
最初はか細く、頼りない音色だったかもしれない。けれど、その清らかな音色は、禁足地の重く淀んだ空気をわずかに震わせ、濃密な邪気を、ほんの少しだけれど、確かに押し返したのだ!
『……ほう。面白い小娘だ。その程度の力で、この我に逆らうというのか? その清浄な力……実に、実に美味そうだ…フハハハハ!』
「神喰らいの影」とでも呼ぶべきその存在は、嘲るように高笑いした。
まずい! 私の力が、逆に奴の食欲をそそっちゃった!?
「水様! 萩乃さん! 今は無理よ、一旦退くの! このままでは、私たち全員、あいつの餌食になってしまうわ!」
綾織様が、悲痛な叫び声を上げる。
水晶様も、私の笛の音にわずかに我を取り戻したのか、苦しげな表情のまま、私に向かって叫んだ。
「…萩乃! 綾織の言う通りだ! ここは危険すぎる…一度、退くぞ!」
水晶様が最後の力を振り絞って神力を解放し、一時的に「神喰らいの影」のプレッシャーを弾き返す。その隙に、私たちはもつれる足を必死に動かし、なんとか禁足地の入り口まで逃げ延びることができた。
「はぁ…はぁ…ぜぇ…っ…」
安全な場所まで戻ると、私たちは三人とも、その場にへたり込んでしまった。水晶様はまだ顔色が悪く、肩で大きく息をしている。
「水晶様、だ、大丈夫ですか…? お水…は、ここにはないか…」
「……ああ。お前のおかげで、少しだけ…正気を保てた。…ありがとう、萩乃」
掠れた声で、それでもはっきりと水晶様がお礼を言ってくれた。
(水晶様が…お礼を…! よかった、ほんの少しでも、役に立てたんだ…!)
「あの影…おそらく、並大抵の相手ではないわね」綾織様が、息を整えながら厳しい表情で言った。「あれこそが、神力の源泉を汚し、神々から力を奪っている元凶…『神喰らいの影』とでも呼ぶべき存在よ! しかも、水様の過去の出来事と、深く関わっているみたいだし…これは、一筋縄ではいかないわね…」
三人の間に、重い沈黙が落ちる。
「神喰らいの影」の圧倒的な力。水晶様の深い心の傷。そして、私にできることの限界…。
(でも、諦めない…!絶対に負けないんだから…!水晶様と一緒に、巌固様も、神域も、全部助けてみせるんだから!)
私は、ぎゅっと拳を握りしめ、改めて心に誓うのだった。
(次回、作戦会議! 打倒「神喰らいの影」! そして、ついに語られる水晶様の過去とは!?)