第13話 平穏な日々と、神域からの風の便り
あの、村の存亡をかけた涙の雨乞いから、早一年。
水見里は、すっかり元の、いや、以前にも増して豊かな実りの里としての姿を取り戻していた。ひび割れていた田んぼには青々とした稲が風にそよぎ、畑には色とりどりの野菜が太陽の光をいっぱいに浴びて育っている。村の中心にある「命の泉」からは、一年中こんこんと清らかな水が湧き出し、子供たちの元気な笑い声が絶えることはない。
そして私、萩乃はというと――。
「水晶様ー! 朝ごはん、できましたよーっ!」
「……ああ」
水龍神様であり、私の愛する旦那様である水晶様との、甘いんだか締まってるんだかよく分からない新婚(?)生活を、ここ水龍社のささやかな住まいで満喫していた。
今日の朝ごはんは、焼き魚にだし巻き卵、それからお味噌汁。焼き魚がちょっとだけ焦げちゃったのは、まあ、ご愛嬌ということで。
「水晶様、このお魚、美味しいですか?」
食卓についた水晶様は、相変わらずの無表情で、黙々と焼き魚に箸をつけている。
「……ああ、美味い」
「!」
(で、出たー! 水晶様のレアな「美味い」いただきましたーっ! これで今日も一日頑張れる!)
私の内心のガッツポーズを知ってか知らずか、水晶様は淡々と食事を続けている。もう! もうちょっとこう、感情表現を豊かにしてくれてもいいんですよ!? 「萩乃、君の作るものは何でも最高だよ」とか、そういう少女漫画的なセリフを期待しちゃう私が馬鹿なんですけどね! でもまあ、そんなクールで朴念仁なところも、結局は大好きなんだけど。
「姉ちゃーん、水晶の兄ちゃん、おはよう!」
「はぎ姉、おはよー!」
元気よく挨拶しながら入ってきたのは、すっかり大きくなった弟の響斗と、おませさんになってきた妹の小萩。二人とも、水晶様にすっかり懐いている。
こんな穏やかで幸せな毎日が、ずっと続けばいいな。
私が洗濯物を竿にかけながら、そんなことをぼんやり考えていた時だった。ふと、水見里を囲む山々とは少し違う方角、遠くに見える険しい峰々から、どんよりと重く、淀んだような空気が流れてくるのを感じた。なんだろう、胸騒ぎがする。いつもなら賑やかな鳥の声も、そちらの方向からは聞こえてこない。
「……」
縁側で静かにお茶を飲んでいた水晶様も、同じものを感じ取ったのだろう。すっと眉をひそめ、険しい表情で遠くの山を見つめている。
「水晶様…? あの山、何か…」
「…あの山は、巌固の領域だ」
吐き出すような、低い声だった。
「巌固様…? ああ、確か水晶様が若い頃に、色々やんちゃを一緒にしたっていう、お友達の山の神様でしたっけ?」
以前、水晶様がぽつりと漏らした昔話を思い出す。その時の水晶様の顔は、どこか懐かしそうで、少しだけ苦いような、複雑な表情をしていた。
私の言葉に、水晶様は答えず、ただ黙って遠くの山を見据えている。その横顔に、今まで見たことのないような深い憂いの色が浮かんでいる気がして、私の胸もきゅっと痛んだ。
その時だった。
社殿の庭先に、ふわりと柔らかな風が舞い込み、次の瞬間、まばゆいばかりの光と共に、それはそれは美しい女性が、まるで羽根のように軽やかに舞い降りたのだ!
(ひゃあああ!? な、何今の! 天女!? 天女様降臨ですか!?)
その女性は、風を編んだような薄絹の衣をまとい、長い髪を軽やかに風になびかせている。常に微笑みをたたえた優美な顔立ちは、まさに「女神」という言葉がぴったりだ。年の頃は…神様だからよく分からないけど、見た目は私より少しお姉さんくらいだろうか。
「あらあら、水様ったら、こんなに可愛らしい奥様をもらっていたなんて!まあ、ちっとも教えてくれないんですもの、お姉様はちょっぴり寂しかったわよ?」
女神様は、鈴を転がすような声で言うと、人懐っこい笑顔で私に向かって優雅にお辞儀をした。
「初めまして、萩乃さん。わたくしは風を司る神、綾織と申しますわ。どうぞよろしくね?」
(み、水様!? すいしょうさまのこと!? しかもお姉様って…この女神様、むちゃくちゃ美人さんだし、な、なんか水晶様とめちゃくちゃ親しげなんですけどー!? これはもしや、恋のライバル登場の予感!?)
私の頭の中で、いきなり警戒レベルがレッドゾーンに突入した。
「あ、綾織様…! は、初めまして! 萩乃です! こちらこそ、よろしくお願いいたし…って、それより水晶様! この麗しき女神様とは、どういうご関係でいらっしゃるんでしょうかぁ!?」
私がジト目で水晶様を問い詰めようとすると、綾織様は「うふふ」と楽しそうに笑って、でもすぐに神妙な顔つきになった。
「冗談はさておき、水様。実は、巌固様がね、大変なのよ。あの方がお守りになっている山は、原因不明の力で大荒れ。山の幸は枯れ果て、麓の村にも影響が出始めているの。そして、肝心の巌固様ご本人も、ちょっと…手がつけられないくらい荒ぶってしまわれていて…。水様なら、古くからのご友人であるあなたなら、彼を説得できるんじゃないかしらと思って、わたくしが使いに来たの」
「巌固が…?」
水晶様の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。その声には、隠しようもない動揺と、そして深い苦悩の色が滲んでいた。
「一体何があったというのだ…。あの巌が、そこまで荒れるとは…」
「詳しいことは、わたくしたちもまだ掴めていないの。でも、どうやら神域全体の神力も、少しずつではあるけれど、弱まっているみたいで…。なんだか、とても穏やかじゃないのよ」
綾織様の言葉に、水晶様はしばらくの間、何かを深く考えるように押し黙っていた。その横顔は、まるで石像のように硬く、私が今まで見たことのないほど、苦しげに見えた。
そして、長い沈黙の後、水晶様は決意を固めたように、きっぱりとした声で言った。
「……分かった。私が行こう、巌固の元へ」
「水晶様!」
私は思わず声を上げた。そして、気づけば言葉が口をついて出ていた。
「私も、一緒に行きます!」
「萩乃? だが、神域は人間にとって危険な場所も多い。それに、これは神々の問題だ。お前は水見里に…」
「いいえ!」
私は水晶様の言葉を遮って、きっぱりと言い切った。
「私は水晶様の妻です! それに、水見里の巫女として、何かできることがあるかもしれません! それに何より…水晶様が一人で悩んだり、苦しんだりする姿を、黙って見てるのはもう嫌なんです!」
(そ、それに! あんな超絶美人な女神様と、水晶様を二人きりにするわけにはいかないじゃないのよー! …って、いやいやいや! もちろん、そういう下世話な下心だけじゃないですよ、はい! 本当ですってば!)
私の必死の形相に、綾織様が「うふふふ」と、またしても楽しそうに微笑んでいる。この女神様、絶対面白がってる!
水晶様は、私の真っ直ぐな瞳をじっと見つめ返すと、小さく、本当に小さくため息をついた。そして、次の瞬間、その唇に、ふわりと柔らかい、私にだけ分かるくらいの、ほんのりとした微笑みが浮かんだ。
「……分かった。一緒に行こう、萩乃。だが、決して無茶はするな。私のそばを離れるなよ」
「はいっ!」
私は、満面の笑みで力強く頷いた。
こうして、私と愛する神様旦那様・水晶様、そしてちょっぴりミステリアスな美人女神・綾織様の、神域へのちょっぴり危険で、もしかしたら波乱万丈な旅が、今、始まろうとしていたのだった。
(次回、いざ神域へ! 待ち受けるのは頑固一徹な山の神!? そして、水晶様の意外な黒歴史が明らかに…なっちゃうの!?)