冷たい床に、消えた声
近くの居酒屋、二階の小さな座敷。
靴を脱ぎ、掘りごたつ式のテーブルを囲んで、会社の人たちが酒を酌み交わしている。
春のキャンペーン打ち上げ。
全員で十二人。
ざわざわとした空気の中、菜月は、掘りごたつの端っこに小さく座っていた。
自分の居場所は、ここなのか。
そんな思いが、ふと頭をよぎる。
成績優秀者が順に名前を呼ばれ、社長から金一封を手渡されるたび、
拍手が起こる。
笑顔が並ぶ。
けれど、どこか自分だけが、空気の層の外にいる気がした。
宴も中盤を過ぎ、酒が進むにつれて、細野の声が大きくなっていく。
菜月の斜め向かいに座る細野が、急にこちらに身を乗り出した。
「おい、菜月。お前、初めてのエッチはいつだよ?」
唐突な言葉に、菜月は息を飲んだ。
隣の若い事務員の女性が、気まずそうに視線を逸らす。
ベテランの女性営業は、顔をしかめるでもなく、ただ黙ってビールを口に運んだ。
「そ、そんな……言えません……」
菜月はうつむき、小さな声で答えた。
細野はゲラゲラと笑いながら、テーブルを叩いた。
「言えないだと? お前ごときが恥ずかしがるなよ!」
「お前でもエッチできるのか、みんな知りたいんだよな、なっ?」
そう言って、隣に座る若い男性営業に話を振る。
若い営業は困ったように笑い、
「そ、そうですね……」
と気まずそうに相槌を打った。
「ほらな!」
細野は声を張り上げる。
「だから言えよ、もったいぶるなって!」
テーブルの上、飲みかけのジョッキや皿の間で、菜月はただ手を膝に置いたまま、
じっと耐えるしかなかった。
笑い声、煙草の匂い、アルコールのにおい。
すべてが、遠くに感じた。
自分の居場所なんて、どこにもなかった。
「すみません、ちょっと……お手洗いに」
誰も止めなかった。
誰も気に留めなかった。
⸻
入り組んだ店内を抜けて、トイレの前まで来た。
重いドアを開けて、個室に入る。
深呼吸をしても、胸が苦しかった。
(帰りたい……)
個室から出ると、ちょうど、細野がふらふらとやってきた。
「あっ」
一瞬、目が合った。
出口の狭い通路で、鉢合わせた。
細野は、ニヤリと笑った。
「おい……逃げたって無駄だぞ」
言葉が終わらないうちに、細野の手が伸びた。
壁に押し付けられる。
一瞬、悲鳴を上げようとしたが、店内の騒がしさに、きっと誰にも聞こえないと思った。
顔が近づいてくる。
息が酒臭い。
「やめて……!」
声はか細く、かすれた。
次の瞬間、細野の唇が強引に押し当てられた。
口を開かされ、舌が無理やり絡められる。
気持ち悪い。
吐きそうだ。
手は、胸を乱暴に揉みしだかれる。
(嫌だ、嫌だ、やめて……)
力を入れても、体が動かない。
喉の奥から、声にならない音が漏れた。
細野は、満足そうに顔を離すと、息を荒げながら言った。
「どうだ、俺のキスの味は?よかっただろうが……」
そう言って、何事もなかったかのように、ふらふらと座敷のほうへ戻っていった。
菜月は、その場に崩れ落ちた。
涙は、出なかった。
ただ、ぼうっと、天井の蛍光灯を見上げていた。
耳の奥で、まだ遠くから、笑い声が聞こえていた。
何も感じない。
寒さも、痛みも、恥ずかしさも。
ただ、そこに、置き去りにされたみたいだった。
じいちゃん じいちゃん
誰にも助けを求めることもできず、誰にも見つけられず、ただ小さく縮こまるしかない夜が。
菜月の「消えたい」という声は、声にもならず…