心が、音もなく
朝出勤すると
「おい、この前の見込み客のとこ行くから、着いてこい」
細野の命令に、葉月は「はい」とだけ返答した。
車内では、また細野のどうでもいい話。
不倫相手との湯布院旅行、若い頃モテた自慢。
葉月は、ただ機械的にうなずき続けた。聞こえないふりをすれば怒鳴られるから。
心はもう、何も感じないふりをしていた。
ふいに、細野が運転しながら葉月の太ももに手を伸ばした。
撫で回すような手つき。
気持ち悪い。気持ち悪い。
心の中で何度も叫んだのに、声に出すことができなかった。
なぜ、やめてと言えないんだろう。
自分でもわからなかった。
その手が、胸に伸びかけたとき、
葉月はとっさに身体を捻った。
「おいおい、なんだよ。お前は女じゃないだろうが」
「触ったって減るもんじゃねえだろ!」
細野は、逆ギレして葉月を睨んだ。
助手席で縮こまりながら、葉月はただ、心の中で繰り返していた。
――私が悪いの? 私が悪いの?
わからない。ただ、全身が冷たくなっていくのを感じていた。
助手席で、葉月は震える手を握りしめた。
怒鳴られるのが怖いのか、また何かされるのが怖いのか。
それとも、そんな自分が情けないのか。
もう、自分でもわからなかった。
細野は、何事もなかったように、またくだらない話を続けていた。
不倫の武勇伝、昔モテた自慢。
聞きたくもない話。
でも、聞かないふりもできない。
葉月は、反射的に、機械のようにうなずき続けた。
もう、何も感じないふりをするしかなかった。
――いつものことだ。
バカにされ、
罵られ、
体に触られ、
女じゃないと吐き捨てられる。
心が壊れるたびに、何かがひとつずつ、消えていく。
それでも立っている自分がいる。
立って、動いて、返事をして、笑顔を作る。
そんな自分が、ますます嫌いになっていく。
これが社会人ってことなのか。
これが大人になるってことなのか。
理不尽なことも、
気持ち悪いことも、
全部、黙って受け入れて、
「これが社会だ」と思い込まなければ、生きていけないのか。
車が目的地に着いた。
細野が「着いたぞ」と吐き捨てる。
葉月は、重い体を引きずるようにして外に出た。
ふらつく足。
息を吸うのも苦しいのに、
何事もなかった顔で、歩き出さなければならなかった。
太陽の光が、痛いくらいに肌を刺した。
でも、暖かさなんて、何も感じなかった。
感じなくていい。
感じたら、立っていられない。
だから葉月は、
何も考えず、何も感じず、
影のように歩いた。
頭の中で、何度も何度も繰り返していた。
――私は、ここにいない。
――私は、ここにいない。
――私は、ただ、仕事をしているだけ。
それだけだ。
それだけでいい。
それしか、できない。
見込み客のもとに着くと、細野は上機嫌で葉月に指示を出した。
「おい、資料、出せよ。ほら、ニコニコしてろよ」
言われた通りに、葉月は笑った。
それが笑顔になっているかどうかなんて、もうわからなかった。
相手の言葉も、細野の声も、ただ遠くで反響しているみたいだった。
まるで、自分だけ別の場所に取り残されたような感覚。
立って、
うなずいて、
指示通りに動く。
それだけ。
それ以外、何もできなかった。
何も、考えられなかった。
ふと、
どこかで、思った。
じいちゃん、
そっちに行ってもいいかな。
誰かに助けを呼ぶことすらできないほど、心が壊れていく瞬間があります。
葉月は、ただ生きているふりをしながら、今日も立っているだけ。
誰にも気づかれず、誰にも守られず、それでも壊れながら、そこにいました。