いなくてもいい場所
火葬場からそのまま会社へ直行した葉月は、制服に着替え、細野に報告に向かった。
「おせーんだよ!何時だと思ってんだ、バカか?」
いきなり怒鳴りつけられた。
「す、すみません……」
反射的に頭を下げたが、なぜ自分が謝っているのか、葉月自身にもわからなかった。
「線香くっせぇな。おまけに人に迷惑かけて、どんだけクズなんだよ」
鼻を押さえ、あからさまに葉月を汚いものでも見るような目でにらみつける。
「あーあ、誰かさんが勝手にサボったせいで、俺、めちゃくちゃ大変だったわ〜。なあ、どんな気分?人に迷惑かけといて、のうのうと来た気分は?」
ねちねちと、容赦なく葉月をなじる細野。
葉月は、唇をぎゅっとかみしめた。何も言えなかった。言うことができなかった。
「さっさとチラシ印刷して、全部折っとけ。今日中な。できなかったら、当然残業だからな?サボったツケは自分で払えよ」
書類の束をデスクに叩きつけ、細野は鼻で笑った。
葉月は何も言わず、力なくプリンターへと向かった。
胸の奥がじくじくと痛んでいるのに、それを誰にも見せることはできなかった。
プリンターから吐き出されるチラシを、無心で受け取り、折り始めた。
一枚、また一枚。
角をそろえて、半分に折る。ただそれだけの単純な作業。
なのに、指先がかすかに震えた。
思うように折れず、ずれた角を見て、葉月は小さく舌打ちをした。
「……私が悪いんだ」
誰に聞かせるでもない声が、かすかに漏れる。
もっと早く戻ればよかった。
もっと気を利かせればよかった。
もっと、もっと――。
頭の中に、自分を責める言葉だけが積み上がっていく。
ふと、何枚目なのか、何をしているのかすらわからなくなる瞬間があった。
手は勝手にチラシを折り続けているのに、意識だけがぼんやり遠くなる。
「……私が、悪いんだ」
もう一度、小さくつぶやいた。
理由もわからないまま、そう言うしかなかった。
チラシを折る音だけが、カサカサと空気を擦っていた。
その音が、遠く、どこか別の世界から聞こえてくるように感じた。
葉月の心は、静かに、誰にも気づかれないまま、ひび割れていった。
どれだけ時間が経ったのか、わからなかった。
気づけば、机の上に積み上がったチラシの束。
葉月は、最後の一枚を無意識に折り、そっと手を止めた。
立ち上がり、細野のもとへ報告に向かう。
「終わりました……」
細野は面倒くさそうに葉月を一瞥し、言い放った。
「行ってこい!」
葉月は、きょとんと細野を見返した。
外はもう薄暗い。時計を見れば、針は18時をまわっていた。
「……今から?」
小さく、ほとんど自分に問いかけるように声を出した。
細野は苛立ったように机を叩いた。
「何黙ってんだよ!早くいけよ!」
びくっと肩を震わせ、葉月は小さく返事をした。
「……はい」
何も考えないように、葉月はうなずいた。
寒気がするほど静かな心で、チラシの束を両手に抱え、会社の玄関へ向かう。
玄関のドアを押し開けた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
でも、何も感じなかった。
寒さも、怖さも、怒りも、もう、何も――。
冷たい風に吹かれながら、葉月は郵便受けにチラシを投函していった。
一軒、また一軒。
無心で、ただ、機械のように。
手の中の束が、少しずつ軽くなっていく。
それだけを頼りに、指先を動かしていた。
誰の家なのかもわからなかった。
どんな顔をした人がそこに住んでいるのかも、どうでもよかった。
ただ、配り終えなければいけない。それだけだった。
ようやく500枚すべてを投函し終えたとき、葉月は顔を上げた。
あたりはすっかり夜に飲み込まれていた。
街灯の下、自分の影だけが細く伸びている。
ふらふらと会社へ戻る。
扉を開けると、事務所の中は真っ暗だった。
誰もいない。
パソコンも、書類も、無造作に置かれたまま、冷えた空気に沈んでいる。
「……」
ただ、静寂だけがあった。
葉月は立ち尽くしたまま、動けなかった。
配りきったチラシを誰かに報告することもできず、褒められることもなく、
何かを失ったような空虚さだけが胸に広がっていった。
――私、いなくても、いいんじゃないかな。
そんな言葉が、ふっと心の底から湧き上がった。
でも、それを否定する力も、もう、残っていなかった。
静かな事務所で、葉月はただ、ぼんやりと立ち尽くしていた。
責められる言葉も、冷たい視線も、受け止めるうちに、何も感じなくなっていく。
誰にも気づかれないまま、心は静かにひび割れ、音もなく崩れていく。
誰かに求められることも、誰かに待たれることもない場所で、葉月はひとり、立ち尽くしていた。