青い空の下で
火葬場に到着すると、係の人が淡々と説明を始めた。
「お骨上げまで、およそ二時間弱かかりますので、それまで控え室でお待ちください。」
親族たちは小さなグループに分かれ、それぞれ控え室へと向かっていった。
静かに交わされる会話、時折聞こえる嗚咽。
葉月は流れに乗ることができず、ふらりと建物の裏手にある中庭へと足を向けた。
そこには、小さなベンチがひとつ。
風に揺れる木々の葉擦れの音が、わずかに耳に届く。
葉月はベンチに腰を下ろした。
コンクリートの冷たさが、体にじわりと伝わる。
ぼんやりと見上げた空は、雲ひとつない、澄んだ青だった。
――こんなにいい天気なのに。
こんなにも、世界は何も変わらない顔をしているのに。
じいちゃん。
私も、そっちに行きたいよ――。
胸の奥からこみ上げる思いを、そっと心の中でつぶやいた。
でも、口に出すことはできなかった。
出したら、きっと、もう立ち上がれなくなる気がしたから。
そっと目を閉じると、まぶたの裏に、じいちゃんの笑顔が浮かんだ。
優しくて、あたたかくて、何でもない日常の中で何度も見た、あの笑顔。
涙が、頬を伝って落ちた。
拭うこともせず、葉月はそのまま、しばらく空を見上げていた。
高く、遠い青。
吸い込まれそうなほど澄んだその色を見ていると、ふいに、じいちゃんとの思い出が胸に溢れてきた。
――小学生の頃。
長い夏休みになるたびに、葉月はじいちゃんの家へ行った。
田舎の空気は、少し土の匂いがして、夜になれば虫の声がにぎやかに響いた。
元気だったじいちゃんは、毎日のように裏山へ連れて行ってくれた。
「今日はカブトムシ、捕まえに行くか」
じいちゃんの大きな手を握って、坂道を登るのが、何より楽しかった。
裏山には、カブトムシ、クワガタ、セミ、チョウチョ、カミキリムシ――
いろんな虫たちがいて、夢中になって追いかけた。
じいちゃんは、どこにどんな虫がいるか、魔法みたいによく知っていた。
ある夜。
じいちゃんと一緒に、セミの幼虫を捕まえた。
「こいつが、今夜、羽化するぞ」と、じいちゃんはにこにこしながら言った。
家に持ち帰ったセミの幼虫は、カーテンにそっと止まらせた。
「これから、セミになるところを見ような」
そう言われて、葉月はわくわくしながら、じいちゃんの隣に座った。
でも――
気づいたら、眠ってしまっていた。
朝、目が覚めると、幼虫はもう立派なセミになって、カーテンにとまっていた。
抜け殻だけが、ぽつんとカーテンに残っていた。
あのとき、じいちゃんがそっと毛布をかけてくれたこと。
朝、頭を撫でながら、「ちゃんと、セミになったぞ」と優しく言ってくれたこと。
すべて、覚えている。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
――もう、あの手に、触れることはできないんだ。
葉月は、ひとつ、静かに息を吐いた。
空の青さが、目に沁みた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられたまま、葉月はまた、別の夏を思い出した。
じいちゃんと行った、町の小さなプール。
子ども用の浅いプールと、大人用の深いプールがあって、葉月は最初、浅いほうでぱちゃぱちゃと水遊びをしていた。
でも、じいちゃんは水泳がとても得意だった。
「泳ぎ、教えちゃるぞ」
そう言って、大きな手で葉月を支えながら、バタ足を教えてくれた。
水の中でじいちゃんの手に支えられていると、なぜか少しも怖くなかった。
何度も何度も、バタ足の練習をして、
「そうそう、うまいぞ!」とじいちゃんがほめてくれるたびに、嬉しくてたまらなかった。
少し泳げるようになったとき、じいちゃんは、葉月を得意げに母に見せた。
「ほれ、うちの孫は、なかなか筋がいいぞ!」
母は笑いながら「じいちゃんに似たんやね」と言った。
あの日、プールの水はきらきら光っていた。
空も、今日と同じように、青くて、遠かった。
じいちゃん――
もう一度だけでいい。
もう一度、あの大きな手で、背中を押してほしいよ。
空を見上げた葉月の頬に、また涙がつっと流れた。
どれだけ空を見上げていたのか、わからなかった。
足元に、そっと影が落ちた。
ふと顔を上げると、そこには母が立っていた。
「葉月……こっち、戻ろうか。」
母の声は、静かで、優しかった。
葉月は何も言わず、小さくうなずいた。
ベンチから立ち上がると、体が重たかった。
胸の奥が、ぎゅうっと締めつけられる。
言葉にならない思いだけが、心の中に渦を巻いていた。
二人で並んで、建物へと歩く。
コツ、コツ、と靴音だけが響いた。
控え室の前に着くと、係の人が深く一礼して告げた。
「お骨上げのご準備が整いました。」
あの大きな手も、あのあたたかな声も、
もう、どこにもない。
それでも、
胸の奥に、じいちゃんはちゃんといる――。
火葬炉の扉が静かに開く。
中には、白くなったじいちゃんの、儚い姿だけが残されていた。
係の人の案内に従って、葉月は箸を手に取った。
震える指先を必死で押さえながら、そっと、お骨を拾う。
ひとつ、またひとつ、骨壷に納めるたびに、
じいちゃんとの思い出が胸にあふれてきた。
誕生日。
入学式。
卒業式。
何かあるたびに、じいちゃんはお祝いに来てくれた。
葉月がまだ小さかったころも、
少し背が伸び、大人びてきたあとも。
葉月が大きくなってからも、変わらずに。
じいちゃんは、うれしそうに目を細めながら、
「葉月が元気でいてくれるだけで、じいちゃんは幸せなんや」
と、優しく笑ってくれた。
胸の奥が、ぎゅっと痛んだ。
涙がぽろぽろとこぼれる。
――じいちゃん。
ありがとう。
心の中で、そっと、でも確かに、伝えた。
箸を置いた葉月の手は、かすかに震えていたけれど、
その背中は、まっすぐに伸びていた。
火葬場を出ると、外の空気は少し冷たかった。
青い空が、やけに遠く感じる。
母がそっと葉月の肩に手を添えた。
「……葉月、どうする?」
葉月は、小さく首を振った。
本当は、このままどこにも行きたくなかった。
時間だけが止まってくれたらいいのに、とさえ思った。
でも。
現実は、待っている。
どんなに泣いても、立ち止まっても、
容赦なく、追い立ててくる。
「会社に……行く。」
喉の奥から絞り出すように、そう答えた。
母は、何も言わなかった。
ただ、静かにうなずいた。
車に乗り込むと、窓の外に、いつもの景色が流れていった。
人も、街も、何も変わっていない。
自分だけが、取り残されてしまったみたいだった。
この先にある職場を思うと、
胃の奥が、重たくきしんだ。
できれば、行きたくなかった。
できれば、顔を合わせたくなかった。
できれば――
じいちゃんとの思い出は、
葉月にとって、
あたたかく、
そして、痛いほどに優しいものでした。
それでも世界は、容赦なく動き続ける。
悲しみを抱えたままでも…