届かない声
葬儀社に着くと、葉月と母はすぐに打ち合わせに入った。
悲しむ間もなく、現実が迫ってきた。
葬儀の会場、日程、参列者のおおよその人数、祭壇の形式、花の数、棺桶、骨壷、料理――
ひとつずつ、淡々と、けれど重たく決めていかなければならなかった。
ふと、目にとまった「ゆあみの儀式」という文字。
葉月が尋ねると、担当者が、少し言葉を選びながら教えてくれた。
湯灌――
故人の体を清め、現世の汚れを落とし、来世への旅立ちを支えるための儀式。
同時に、遺族の「きれいにしてあげたい」という気持ちを、静かに叶えるものだと。
浴槽に体を浸し、あたたかな湯でそっと洗い流す「洗体湯灌」。
専門のスタッフが、手を合わせながら、やさしく、丁寧に行うという。
オプションではあったが、葉月も母も、迷うことなくお願いした。
せめて――
最後くらい、きれいにして、やさしく送り出してあげたかった。
目に見えない思い出のひとつひとつを、そっと、撫でるように。
「ありがとう」と、言葉にはできない気持ちを込めて。
葬儀の打ち合わせを終えたときには、すでに19時を過ぎていた。
ひと息つく間もなく、次々と決めることに追われた数時間。
ようやく、少しだけ肩の力を抜いた。
「なんか……悲しむ暇、ないね」
ぽつりと、葉月が言った。
母も、小さくうなずいた。
「なんか、ちょっとでも食べとこうか」
母が言い、近くのコンビニへ買い出しに向かった。
葉月は、一人、じいちゃんを見つめた。
静かに横たわるじいちゃん。
声をかけても、もう、返事はない。
「じいちゃん、じいちゃん……」
心の中で、何度も呼んだ。
涙は出なかった。
まだ、実感が、追いついてこなかった。
明日が通夜。
明後日が葬儀。
時間だけが、淡々と、進んでいく。
「あっ……そうだ」
葉月は、小さく声を漏らした。
会社に連絡を入れなければならない。
スマートフォンを手に取った指先が、かすかに震える。
細野の顔が、すぐに脳裏に浮かんだ。
電話をかけるだけなのに、呼吸が浅くなる。
鳴り続けるコール音が、いやに長く感じた。
「……細野です」
低く、無愛想な声。
それだけで、心臓がぎゅっと縮む。
「細野さん……祖父が亡くなりまして……明日が通夜で、明後日が葬儀となりました」
一生懸命、落ち着いた声を作った。
けれど返ってきたのは、鋭い一言だった。
「で?」
葉月の胸の中に、チクリと鋭い針が刺さる。
それでも、耐えなきゃいけない。
必死に言葉を繋ぐ。
「母についててあげたいので……明明後日まで、お休みをいただきたくて……」
一瞬の間。
そして、呆れたような笑い声。
「なにバカなこと言ってるんだよ!
葬式終わったら、出てこい!」
「え……葬儀の後は、火葬がありまして……」
「わかっとるわい!その後、出てこいっつってんだよ!」
怒鳴るような声。
その声の向こうで、葉月はすっかり小さくなっていた。
細野は、いつもこうだった。
少しでも自分に気に入らないことがあると、容赦なく怒鳴る。
どれだけ事情があっても、どれだけ必死に説明しても、意味などなかった。
「……はい、わかりました」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも情けないほど小さかった。
電話を切ったあと、葉月は、しばらく動けなかった。
悔しさも、悲しさも、怒りも、すべて飲み込んで、ただ、じっと立ち尽くしていた。
じいちゃん、ごめんね。
もっと、そばにいてあげたかった。
もっと、ちゃんと送り出してあげたかった。
でも――
社会って、こういうものなんだろうか。
大人って、こんなに、冷たく、無力なものなんだろうか。
夜の空気が、じわじわと胸に染みこんでいくようだった。
身近な人の死にすら、ゆっくり向き合えない現実があります。
大切な想いと、どうしようもない現実とのあいだで、
葉月は、ただ黙って立ち尽くすしかありませんでした。