さよならに間に合わなくても
菜月が病室に駆けつけてから、二時間。
じいちゃんは、その間、一度も目を開けなかった。
小さく上下する胸。細くなった腕に絡まる点滴のチューブ。
部屋の中には、機械の電子音だけが、規則正しく響いていた。
心電図の波形は、ずっと変わらずにリズムを刻んでいた。
このまま、少しでも、じいちゃんと同じ時間を過ごせたら──
菜月はそんなふうに願っていた。
けれど、不意に、波形が乱れ始めた。
揺れ、震え、不規則に跳ねる線。
胸の奥をぎゅっと掴まれるような不安。
「ナースコール押して!」
母の声が震えた。
菜月は無我夢中でボタンを押した。
駆けつけたドクターと看護師たち。
慌ただしく交わされる短い会話。
その間にも、心電図の波は、次第に小さくなり、
やがて、一本の細い直線になった。
「ご臨終です」
淡々とした、しかし容赦のない宣告。
耳で聞いているはずなのに、遠くから響いてくるようだった。
崩れ落ちそうな膝をどうにか支えながら、菜月はじいちゃんの手を取った。
しわだらけで、力強かった手。
今は、ただ静かに横たわっている。
それでも、まだ、温かかった。
じいちゃん、私も一緒に行こうか…
じいちゃんはもう何も話さない。
もう、笑いかけてもくれない。
それなのに、手の温もりだけが、確かにそこにあった。
涙が、ぽたり、ぽたりとじいちゃんの手の上に落ちた。
菜月は、声を出すこともできず、ただ手を握り続けた。
じいちゃんに、伝えきれなかった思いが、胸の奥で暴れた。
ありがとう、ごめんね、まだそばにいたかった──
言葉にならない想いが、涙と一緒に溢れ出して止まらなかった。
涙を拭う間もなく、時間は淡々と過ぎていった。
看護師が静かに近づき、
「これから清拭を行いますので、いったん部屋の外でお待ちください」
そう声をかけた。
菜月と母は、無言のまま廊下へ出た。
無機質な白い壁に背を預け、菜月はぼんやりと足元を見つめた。
胸の中に、言いようのない悔しさが渦巻いている。
「お母さん……」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「私、じいちゃんに、ありがとうって……言えてない」
母は何も言わず、そっと菜月の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
言葉はなかったけれど、その温もりが、少しだけ菜月の胸の痛みを和らげた。
やがて、部屋の扉が静かに開いた。
そこには、清拭を終え、浴衣に着替えさせてもらったじいちゃんが、穏やかな顔で横たわっていた。
眠っているかのように、安らかな顔だった。
「今から安置所へ移動しますので、部屋の荷物をまとめてください」
看護師が小さな声で伝える。
現実は、待ってくれなかった。
泣いている暇も、立ち止まる余裕も与えないまま、
すべてが、静かに、けれど確実に、次へ次へと進んでいった。
菜月は、震える手で、じいちゃんの着替えや、洗面道具をひとつずつバッグに詰め始めた。
何度も何度も、じいちゃんのほうを振り返りながら──
白い蛍光灯の下で、
じいちゃんは静かに、安置台に横たわっていた。
それでも、ずっとここにいるわけにはいかなかった。
「ここは、長い時間いられる場所ではありませんので、葬儀社に連絡して迎えに来てもらってください」
看護師が、申し訳なさそうに、けれど淡々と告げた。
母は小さくうなずき、バッグから携帯を取り出すと、廊下に出た。
誰にかけるか、もう決めていたらしく、すぐに家の近くの葬儀社に連絡を取った。
菜月は、ただじいちゃんのそばに立ち、
安置台の上のその顔を、じっと見つめていた。
少し前まで、ここに命があったのに。
目を開けることも、笑うことも、もうできない。
数分後、母が戻ってきた。
「三十分くらいで来るそうよ」
看護師にそう伝えると、今度は、退院手続きをしに受付へ向かった。
菜月はまた、じいちゃんのそばに一人きりになった。
冷たい空気が、やけに肌にまとわりつく。
時計の針の音さえ聞こえそうな静けさだった。
しばらくして、母が戻ってきた。
その手には、白い封筒。
封筒の端から、少しだけ顔をのぞかせた紙に、菜月は目を奪われた。
──死亡診断書。
じいちゃんの「死」が、文字になった瞬間だった。
それはあまりにも現実的で、あまりにも冷たくて。
菜月は、じっとその封筒を見つめたまま、動けなかった。
「菜月……親戚に、連絡してくれる?」
母が、少しだけ声を落として言った。
顔を上げた菜月に、母は小さくうなずいた。
泣いている場合じゃない。
菜月はポケットから自分の携帯を取り出した。
手がかすかに震えている。
それでも、ひとりひとり、親戚の番号を呼び出していく。
震える声を必死で押し殺しながら、
じいちゃんが亡くなったこと、これから葬儀の準備をすることを伝えた。
話しているあいだも、じいちゃんの姿が視界に入り続けた。
まだ温かさの残るじいちゃんを残して、
死を伝える言葉だけが、次々と口からこぼれていく。
どこか現実じゃないみたいだった。
じいちゃんに「ありがとう」を伝えることはできなかった。
それでも、あのとき手に触れた温もりは、
菜月の心に確かに刻まれた。
間に合わなかった言葉も、こぼれた涙も、
すべてが、じいちゃんとの別れのかたちだった。