白い時間のなかで
菜月は、パソコンの画面に向かって、契約書を作っていた。
手は動かしていたけれど、心はどこか遠くにあった。
上司の細野が、誰かを怒鳴っている声が背後で聞こえる。
耳を塞ぎたかった。
でも、できなかった。 毎日そうだった。
ふと、机の端で携帯が震えた。
母からだった。
嫌な予感がした。
そっと席を立ち、人気のない給湯室で電話を取った。
「菜月……じいちゃんが、危ないって」
母の声は、涙をこらえて震えていた。
一瞬、世界が真っ白になった。
音が消えた。
時間が止まったみたいだった。
力が抜けて、その場に座り込んでしまいそうだった。
菜月は震える指で通話を切ると、私はふらふらと席へ戻った。
細野の声がまた、耳に刺さる。
「何、休憩してんだよ。早く戻れよ、ったく」
何か言い返す気力は、なかった。
葉月はかすれた声で言った。
「すみません……祖父が……倒れまして、早退させていただきます」
それ以上、何も説明しなかった。
細野は、あからさまに面倒そうな顔をして、手をひらひらと振った。
「へいへい。早く行けよ。で、明日はちゃんと出てこいよ」
菜月は、「はい」とだけ返事をして、カバンをつかんだ。
誰にも見られたくなくて、顔を伏せたまま会社を飛び出した。
外に出ると、春の風が吹き抜けた。
まだ冷たい空気が、頬に刺さる。
会社を出てタクシーをつかまえた。
心臓がぎゅうっと締めつけられる。
飛んでいきたい。
――間に合うだろうか。
――じいちゃんに、間に合うだろうか。
タクシーを飛び降り、病院の自動ドアを駆け抜けた。
エレベーターを待つ間ももどかしく、非常階段を駆け上がる。
息を切らしながら、病室のドアを押し開けた。
じいちゃんは、ベッドに横たわっていた。
目は閉じられたまま、ぴくりとも動かない。
口には酸素マスク、腕には点滴のチューブが絡まっている。
心電図のモニターが、淡々と波形を刻んでいた。
生きている――
けれど、目の前のじいちゃんは、まるで眠っているみたいだった。
「じいちゃん……!」
思わず駆け寄り、手を握った。
冷たくはなかった。
でも、あの大きな手は、力なく、ただそこにあるだけだった。
「菜月、来たよ……! じいちゃん、聞こえる?」
必死に呼びかける。
けれど、じいちゃんの瞼は、ぴくりとも動かなかった。
病室には、機械の電子音だけが、静かに響いていた。
もっと早く来ればよかった。
もっとたくさん話しておけばよかった。
そんな後悔が、胸いっぱいに押し寄せてきた。
菜月は、じいちゃんの手をぎゅっと握った。
この温もりだけは、まだ、ここにある。
じいちゃんの手を握りしめたまま、ただ立ち尽くしていた。
肩に、そっと誰かの手が触れた。
振り返ると、母だった。
「菜月……」
母は、泣きはらした目で、それでも穏やかに微笑んだ。
「じいちゃん、頑張ってたんだよ」
母の声は、かすかに震えていた。
菜月は黙ったまま、耳を傾けた。
半年前、じいちゃんは膵臓がんと診断された。
すでに末期だった。
見つかったときには、手の施しようがなかった。
手術もできず、できることは限られていた。
それでも、じいちゃんはあきらめなかった。
2、3ヶ月、抗がん剤治療を続けた。
副作用に苦しみながらも、弱音は吐かなかったと、母は言った。
けれどある日、じいちゃんはぽつりとつぶやいた。
「もう……いいかな」
その声は、あきらめというより、すべてを受け入れたような穏やかさがあった。
家に連れて帰ろうかとも考えた。
でも、じいちゃんの体では、自宅で看病するのは難しかった。
だから、病院で過ごすことになった。
母が、毎日通って、じいちゃんのそばにいた。
その話を、知っているようで、知らなかった。
自分のことで精一杯で、目を向けようとしなかった。
どれだけ、母が、じいちゃんが、頑張っていたか――
今さら、胸に突き刺さる。
菜月は母の肩に、そっと身を寄せた。
そしてもう一度、じいちゃんの手を握った。
まだ、温もりがある。
じいちゃんは、ここにいる。
誰かを失うとき、世界は音も色も失ってしまう。
けれど、その白い時間のなかにも、確かにあたたかなものは残っていた。
菜月が握ったじいちゃんの手のぬくもり