15.突然の来訪者に驚く
その日は、いつも通りの長閑な朝であった。
師匠の適当極まる食生活に、レラが激怒したのはもう一週間前の話だったか。あの時のベネデットの気まずそうな顔といったら。
「ん~。やっぱり、レラの淹れる珈琲が一番なんだよなぁ」
「それは、嬉しいね」
朝食を抜きがちだったベネデットは、久方ぶりにしっかりと一日三食まともな料理を食べているので、心なしか顔色がよくなった。
食後の珈琲を幸せそうに飲むベネデットをレラは、満足そうに眺める。しかし学院に戻るのが心配だと、一抹の不安を覚えながら。
こうなったら家事代行を雇うしかないのでは? いや、この世界では使用人と呼ぶべきか。一人雇うのにいくらくらい掛かるのか、相場が分からないので気軽に提案しても良いものか。
呑気に鼻歌を歌うベネデットに、レラは困ったように眉尻を下げた。まぁ、必要に駆られたらベネデット自身が何とかするだろう。おそらくレラよりも断然詳しいだろうし、何なら伝手もあるかもしれない。
「なぁ、レラ」
「んー? なに?」
「金は足りてるか?」
「……んん? 十分だよ。急にどうしたの?」
「学院の生活は、何かと入り用だろ?」
「そうでもないよ。師匠こそ」
「子どもは、んな事気にしないの」
「えぇ……?」
まさかレラの仕送りに、報酬のお金を全振りなどしていないだろうな。レラからの疑わしげな視線をベネデットはさらっと受け流して、やっぱりもう少し仕事増やすかなぁなどと考えていた。
「有り難いけど、無理のない範囲でね」
「わーってるよ」
軽い調子で返ってきたベネデットのそれに、これは信用ならない時の返事だなと、レラは溜息を吐き出した。
もう少し釘をしっかり目に刺しておくべきかどうしようか。そんなレラの思考を掻き消すように、ドアがノックされた。
「はーい! どちらさん?」
「こちら、レラ様のご自宅でしょうか?」
「あ?」
聞き慣れない男の声がレラの名を呼んだものだから、穏やかな雰囲気から一変してベネデットが瞳を鋭く細める。それは、レラも同じだった。
「誰だ?」
「知らない声かな」
小声でさっと会話をして、目配せをし合う。レラは壁に立て掛けてあるベネデットの剣の方へ。ベネデットは、ドアの方へ。それぞれ移動した。
殺意や敵意は感じないが警戒しつつベネデットは、ドアを慎重に開ける。隙間から見えたのは、見る者が見ればお忍びですといった風体の二十代前半の男であった。
男はベネデットと目が合うと、人当たりの良さそうな笑みを浮かべる。嘘臭いこってと、ベネデットは胡乱な目を男に向けた。
「ご用件は?」
「もう少し、扉を開けては頂けませんか」
「それは難しいことをおっしゃられる」
ピリッとした空気が漂って、レラは剣の鞘を持つ手に力を込める。脳内で、ベネデットが抜きやすいように鞘ごと剣を投げるイメージを固めた。
「やめとけ。お前じゃ相手にならねぇよ」
不意に、今度はここ数ヶ月ですっかりとレラは聞き慣れてしまった声が耳朶に触れる。相も変わらず人を小馬鹿にしたような声音に、レラだけが目を丸めた。ベネデットは、怪訝そうに片眉を上げる。
「それは、どちらに言っておられるのですか?」
「お前に決まってんだろ、オノフレ」
「わたくしも腕に多少は覚えがあるのですが」
「相手は狂った夜の眷属を単独で屠れる手練れだぜ。なぁ? ベネデット」
オノフレと呼ばれた男を押し退け、ドアを閉められないように掴んだ青年を視界に入れて、ベネデットは目を瞠った。そして、信じられないと言いたげに「ジルド殿下……?」と頬を引き攣らせる。
ジルドの「開けろ」という命に、逡巡してか一瞬ベネデットは目を逸らした。しかし、直ぐに観念して深々と溜息を吐く。
「何のお構いも出来ませんよ」
ドアを開けて、ベネデットはジルド達を家の中へと招き入れた。
「俺も珈琲でいい」
「皇子殿下におかれましては、お変わりなくお過ごしのご様子で」
「お前も口が減らねぇな」
「何の事だか」
ベネデットは軽口を叩きつつも、恭しく騎士の最敬礼をする。それに倣ってレラは剣を元の場所にさっと戻すと、淑女の最敬礼をした。
「久方ぶりだな、ベネデット」
「……ご無沙汰しております、ジルド殿下」
ベネデットが近衛騎士団を辞めさせられて、もう十年は経つ。もはや騎士としての誇りだ何だは、とっくの昔に捨てたとベネデット本人は思っていた。
しかし、体は覚えているものだ。ベネデットが思っていたよりもずっと深い所まで、心の底からベネデットという男は騎士であったらしい。
嫌になるなと、ベネデットは自嘲気味に微かに口角を上げた。
「堅苦しいのはいい。楽にしろ」
「分かりました。レラ」
「うん」
ベネデットもレラもジルドの言葉に甘え、姿勢を元に戻す。レラはベネデットの隣へと並ぼうとして、そう言えば珈琲をご所望だったなと足先の向きを変えた。
珈琲好きのベネデットが揃えた便利な魔道具、前世で言う所のケルトのスイッチを入れる。コーヒーバッグ等というものは存在していないため、珈琲豆をミルに入れてゆっくりと挽いていった。
「あー……。すっかり声変わりされて」
「お前は、そんな変わらねぇな」
「そうですかね」
ジルドは、ベネデットが荒れていた時期を知らないのだろう。“変わらない”という言葉をどう受け取ったものかと、ベネデットは曖昧に笑った。
それに何を思ったのか、ジルドは「いい香りだな」と話題を変える。ジルドの視線を追ったベネデットは、レラと目が合って相好を崩した。
「帝国一ですよ」
「それは流石に、贔屓目が入りすぎてる」
「そうか~?」
「そうだよ」
レラは、照れたような笑みを浮かべる。ジルドは、見慣れないその表情に目をパチパチと瞬かせた。次いで、何処と無く不満そうな顔になる。
「立ち話も何ですから、座られては?」
レラはジルドに最近よく向けられるそれを軽く受け流すことにしていた。そのため、今日も特に触れずに着席を勧めてみる。
返事は聞かずに、レラは珈琲のドリップ作業へと移行した。一応は、オノフレという従者らしき男の分も用意する。とはいっても、来客用の椅子などないのでどうしたものか。
「殿下」
「何だ」
「こちらは、どうされますか?」
珈琲の香りに混ざって、部屋の中に薔薇の香りが漂う。不思議に思ったレラは、視線を上げた。
オノフレからジルドが薔薇の花束を受け取っているのを視界に捉えて、レラは即座に見なかったことにする。というか、何処から出したのだろう。先程まで持っていなかった気がするのだが。
「おい」
しかし、世の中はそんなに甘くはなかった。律儀にレラがお湯を入れ終わるのを待っていたらしいジルドの呼び掛けに、レラは視線を再び上げる。
迷いない足取りで真っ直ぐとレラに近寄ってきたジルドは、そのままの勢いで薔薇の花束をレラに差し出した。「ん、やる」などと、ぶっきらぼうな言葉と共に。
これはまた、何というのか。この前の“情熱的に”というレラの言葉をジルドなりに解釈した結果が、恐らくこれなのだろう。
「ありがとうございます」
レラはジルドからの心遣いを素直に受け取ることにして、薔薇の花束を腕に抱える。ゆったりと息を吸えば、薔薇の良い香りが鼻腔をくすぐった。
「とっても――」
頬を緩めたレラに、ジルドは満足そうに目を細める。
「美味しそう」
「……は?」
「薔薇ジャムにして、有り難くいただきますね」
背後にキラキラを背負いながら嬉しそうな笑みを浮かべるレラ以外の目が点になる。妙な間のあと、ベネデットとオノフレが吹き出した。
「だーっはっはっはっは!!」
「あっはっはっはっ!!」
大爆笑する二人をジルドが鋭く睨み付ける。しかし直ぐ諦めたような溜息を吐くと、何故そうなるんだと前髪を乱した。
「ひーっ! 薔薇を貰った感想としては落第点だぜ、レラ」
「そうかな? いい香りの薔薇は、美味しいジャムになるんだよ」
「食べるなよ……」
「何故ですか??」
心底不思議そうに首を傾げたレラに、ジルドは心底嫌そうな顔をする。笑い過ぎて滲んだ涙をベネデットは拭い呼吸を整えた。
「昔レラが、『今月厳しいんです』とか言いながらタンポポ食ってて。それを見た俺が速攻で冒険者ギルドに登録しに行った話します?」
「タンポポはれっきとした食用だから」
「いや~、まぁ、そうなんだがなぁ。あれは、絵面が逞しすぎた」
レラとベネデットの会話を聞いて、ジルドは信じられないといった表情を浮かべる。花を愛でるという行為は、酷く贅沢なものであったのだとジルドは初めて知ったのだった。




