竹藪
拙文ですが、楽しんで頂ければ幸いです。
エロい物に対して人は、畏敬と侮蔑、この二つの念を向ける傾向がある。
裸婦画とポルノビデオがそうであるように、元来、性欲を掻き立てるだけであるはずのものが芸術性を求めて賛美され、ひた走った表現をした方は軽んじられる。
この二つの関係は複雑で、エロの中に美しさを見出すのであれば逆もまた然りであると思うのだが、実際にはそうはならない。
自身を例にとると、夕日の落ちるその瞬間。もしくは揺れるバスの吊り革、国歌斉唱なんぞでも屹立した経験があるのでそうだともいえるが、恐らくこれはあまり参考にならない。
では、相反する二つの感情がなぜ生ずるのかと言えば、それはエロの持つ役割に理由がある。
エロとはつまりセックスであり、種の存続に基づく厳粛な行いだ。
ここにまず畏敬の念を抱くのだが、それをそのまま受け止めるとなると、繊細な現代人は気負い過ぎてセックスなど出来なくなってしまう。
だってそうだろう。そりゃあ最初の内はいいかもしれないけれど、毎回「お種を頂戴に参りました」なんて三つ指ついて言われたら、どんな相手であれ重たくてげんなりしちゃうし、起つものも起たなくなってしまう。
それがゆえ、本来はある程度快楽に踊らされるのもそう悪くは無いのだが、高尚な方々からすれば侮蔑の対象となってしまうのだ。
つまり僕が言いたいのは、エロとは人類の進化が作り出したモラトリアム的矛盾であり、ランドセルを降ろす直前の、あのサクランボの実る頃。僕たちが盛んにエロ本を探し回っていたのも、ひいては人類全体のチン○、いや進歩のためだ。
エロ本とは不思議なもので、本であるにもかかわらず、どうゆうわけか古紙や資源ゴミとしてではなく、その地域特有の場所へ廃棄されるきらいがある。
例えばそれは、都会なら団地の側溝、南国であればサトウキビ畑といったように、地域ごとに暗に定められ、誰にともなく受け継がれていく。
場所の選定条件や、明確な意思疎通を要しない継承に、文化人類学的興味は尽きないけれど、それはさておき。僕が住まう地域では、もっぱら竹藪に廃棄されるものと相場が決まっていた。
小学校の裏手にある竹林。そこが誰の土地かなんて知らないが、人の往来によってのみ維持されている林道を通るのに、許可など要らなかった。
もっと便の良い下校路は他にあるのに、そこを使うようになったのは、何を隠そう、よくエロ本が落ちて(捨てられて)いるからで、それ以外に理由はない。
もっとも、多感な時期であるのには変わりないから、表立って興味を示せる者はいなかったけれど。ただ一人、カシムを除いては。
「ダメだよそんなの見ちゃ!」
日本人離れした彫りの深さのせいでそう渾名されていたカシムだけは、振りではなく、本気で僕達を注意していた。
生真面目な彼の弁によれば、ドラゴンボールですら猥褻図書に分類されるらしく、「お堅いやつだ」と言いたくもなるけれど、それについては僕も同じ見解だ。
つい先日も、友人が所有する単行本の、ブルマが出てくるエッチなページ全てに折り目をつけて怒られたばかりだから。
「それにしても、コレ(エロ本)ってどこへ消えていくんだろう?」
ある日の帰り道、仲間の一人が疑問を口にする。
不法に捨てられている割には、まるで回収業者でもいるかように定期的に本が無くなるのが不思議だったのだろうが、順当に考えれば地権者か管理人。あるいは行政が処分していると考えるのが妥当だが、無論、それは全て僕の仕業によるものだ。
「うへーエロ本だ!」などと周囲に調子を合わせて棒で突きつつも、いつだって目は光らせておき、内容の吟味と回収の為の位置確認に余念はない。
竹藪へ通うようになってから半年も過ぎた頃、突然、「うわぁ!」という、絶叫とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「どうした、何があった!」なんて、周囲に散開していた連中が口々にそう呟きながら集結するが、本気で心配している奴なんかいやしない。
何故なら、頭の中は皆、エロ本でいっぱいなのだから。しかしこの時ばかりは、いつもと様子が違った。
第一発見者であろうAは腰を抜かして慄くばかりで、真っ先に駆け付けたBも、いつもなら興味のないフリを装いページを捲っているはずなのに、視線の先にある本を見据えたまま、強張った表情をしている。
どういうことだ?だが、そんな違和感など、無邪気な好奇心の前では意味をなさない。
仲間内で一番馬鹿なCが、無造作に本を取り上げたので、皆して中をのぞきこむ。すると今度は、その場にいた全員分の絶叫が竹林に響き渡り、僕らは脱兎の如く逃げ出した。
一体あれは何なんだ⁉
全速力で駆けつつも、一瞬にして脳裏に焼き付いた映像に、思考は全て埋め尽くされる。
床に寝そべった男。その男を跨ぐようにして立つ男と、更にその男に肩車をされる男。
そして肩車された男は、もう一人別の男を肩車し、みんな裸幸せそうに微笑み・・・見間違いでなければあれは、それぞれがそれぞれの陰茎を口に含んでいた。
今にして思えば、あれはゲイ雑誌だったのだと理解できるが、そんな世界を知るべくもない田舎の純朴な青少年たちには、いささか刺激が強すぎる。
民家の立ち並ぶ通りにまで出て振り返ると、慣れ親しんだはずの竹林は見知らぬシュヴァルツヴァルトへと変貌しており、誰からとなく「もうここを通るのはやめよう。そしてこのことは、僕達だけの秘密にしよう」そう取り決めて三々五々、家路へ着く。
以来、帰り道にその竹林を通ることは無くなったのだが、僕にはエロ本を回収するという重大な使命が残っていたので、人払いが済んだのを見計らい、すぐさま踵を返す。
さっきの本は怖かったが、所詮、本は本。こちらから近寄りさえしなければ、怯えずともよい。
それよりも気がかりなのは、日没の方だ。万が一にも同じ学校の人間、特に同級生には出くわさぬようタイミングを計っているうちに、だいぶ日は傾いてしまった。
暗すぎて作業に障るのを懸念しつつ竹林へ突っ込むと、そこには夕間暮れに揺蕩う、曖昧な世界が僕を待ち受けていた。
手際が悪いのは、能力の低さとほぼ同義だ。目星をつけていた本の状態をチェックし、これだと思う品をピックアップしたならば、すぐさま撤退行動へ移る。
もう幾度となく繰り返してきた動作だし、流れも身に染みついている。けれども、異変に気付いた僕は中腰の姿勢で固まり、その場から動けなくなってしまった。
暗がりであるし、後ろ姿しか見えないけれど、あそこにいるのは背格好からして、先ほど別れたばかりのカシムだ。だが、何故ここに?幸いにして、向こうには気づかれていないので、伏せて身を隠し、様子を窺う。
まさか僕と同じで、エロ本を回収しに来たわけでもあるまいが、エレクトした状態では「どうでもいいから早くどこかへ行けよ!」と滾るばかりで、考えは回らない。
気が急いていたせいで長く感じたが、カシムと思しき人影は、五分もしない内に立ち去った。
人に言えた義理ではないが、こんな所でなにをやっていたのか気になった僕は、彼の立っていた場所まで行って愕然とする。
そこには、僕らに未曽有の衝撃を与えたゲイ雑誌があったはずなのに、今はもう本の形に凹んだ草が生い茂っているだけで、そのものの姿はない。
どうしてあんな本を、なんて疑念を抱くと同時に、呼応した海馬があの時の光景を想起させる。
皆が青ざめ逃げ出していく刹那、一瞬だけ視界の隅に入ったカシムの顔。
充血させた目を皿のように丸くさせ、少しだけ口角を上げたその表情に、僕は見覚えがあった。
あれは、いつかだったかエロ本を読んでいる時に目が合った、ガラス窓に写った僕と同じ表情だ。
ここにあるのは仮定だけで、確証のおけるものなんか一つも無い。けれども、それで充分だ。
安易に人の領域へ足を踏み入れるのは無粋な行いだし、何より僕が求めるものは、畏敬と侮蔑、その先にあるのだから。
あの日、竹藪の中にはたしかにそれがあった。
ずっと足掻き続けています。書けば書くほど、バンバン面白い作品が書ける人は凄いなあと感心するばかりです。