我々は…
哲学っぽい事を言いながら現代批判をして色んなものを敵に回してる事を言います。合わないと思った方は回れ右でお願いします。合う方にはほんの少しだけ救いになればと思います。
この令和の現代において、超情報化社会において我々は何を目的に生きているのだろうか。
夢?願望?結婚?金?友人?仕事?老後?
それともただ死にたくないから?
人はいつかどうせ死ぬ、それならば何もしなければいいのでは?という考えは虚無主義の一部である。みな無になるならなにをしても意味がないという事だ、実にわかりやすい。
しかし、現実はそうは問屋が卸さない。働かざるもの食うべからずという、昨今の小学生でも知っている言葉がある通り、飢えないためには動くしかない。
死にたいと思っている人ほど、実際には死にたいと言葉に出すと某心理学者が言っていた。
死ぬことにもカロリーが、エネルギーが消費されるのである。本当に疲弊している人間は死ぬことすら許されない。
虚無主義に話を戻すと、神は死んだで同じみのニーチェが宗教の無意味さを解いている。曰く宗教は貧乏人が現実から目を逸らすために存在していると述べた。勿論、批判が殺到したがあながち間違いでもない。神様が見ているからいつか報われる、正直物は救われるというのは弱者の戯言であり、現代においてはクソの役にもたたない。まさしく神が死んでいる状態である。
しかし虚無主義とは無を嘆くものではない、わかりやすく言うならば明日死んでもいいように悔いのないよう行動をするという能動的な考え方である。人はいつか死ぬ、だからこそ本当にやりたい事をやる。明日死ぬかもしれない、だからこそ今日を後悔なく生きる。
なるほど確かに現代人にとってはこの上なく金言だ、実際に私も学生の頃にハイデガーの著書を読んで感銘を受けた。
しかし、今になって思うと根本的に間違っているのではないか?いずれ死ぬから動かなくちゃ…なんて言葉に騙されているのではないか?
なぜ死をなくす方へ努力をしないのだ、根本的に死が無くなれば、飢えも富も欲求も関係ない。
みな無意識の中で、死から逃げているのではないか?自分が本当に死ぬことなんて、真面目に考えたことがある人はほんの僅かなだろう。
よく考えてみてほしい、2度と起きることのない眠りとは安息ではない、空白だ。何も感じなければ恐怖もないとバカな発信者は言っているがそれは間違っている。知覚や想起ができないことは恐ろしい事なのだ、自身がこの世から無くなる、自分がいなくても世界は進む、自身が物言わぬ無機物と同等の存在なる。
消えるとは、死ぬとはそういうことだ。しかし我々はなぜか無意識にこの恐怖から目を逸らす。見ないふりをする。まるで永遠に生きていくような振る舞いをする。
それはなぜか、話を虚無主義に戻すがそれは宗教という害悪のせいだ。
ハッキリと断言してしまおう、神はいない、存在しない、聖書や経典は我々の愚かな祖先が作り上げた愚かな創作物である。
証明しろ?神がいるなら戦争や貧困で死んでいくものを放置しないだろう。それらがなされていない時点で存在しない。
死んだ後に救われる?なぜ生前から救わない?神は全知全能と記載があるにも関わらず救われないということは神なんてものはいないのだ。
読んでいる人の中には、そんなものは当たり前じゃんと思う人もいるかもしれない。だが、諸君らは本当の意味で無神論者ではない。
我々は太古の昔から、宗教という文化によって行動原則を捻じ曲げられている。どういうことか?
諸君らは墓石を蹴り飛ばしたりはしないだろう。故人の墓参りをし、仏壇を立て法事を行い、寺社の賽銭箱に金を投げつける。
これが宗教が死という概念を忘れさせている本質的かつ根本的な問題だ。諸君らを真の無神論者にせず、自分の都合の良い時には神の恩恵を錯覚させるのだ。
天国や地獄を信じて今を行動する人は未だに多いし、死後のための墓や生前葬なんて物も最近よく耳にする。
もうハッキリと宣言してしまおう、宗教とはまやかしで税金逃れの金儲けであり、我々から死の恐怖を存在しない神の説法によって解く唾棄すべきものだ。
信仰心をばかにするのか!という声が聞こえてきそうだが、日本にある寺社仏閣は大抵が死後に極楽浄土に行けますようにという根源的な願いから建てられている。はるか昔から、死の恐怖を宗教は利用しているのだ。
別に現代人に葬式や墓参りをやめろと言っているわけではない。あれは生きているものにとって儀式的な区切りという意味合いがある。隣人とどれだけ故人が思われていたかを確かめる場にもなる。だが、それを宗教によって極楽浄土やら楽園やらと安易に坊主や牧師から言われるのは、いささか故人に失礼ではないか?君も極楽、彼も極楽、あなたも極楽、随分と安っぽい教えだ、そうまでして金が欲しいのか(笑)
もう現代の人間の進化はいくらDNAを継ぎ足しても、これ以上は望めないだろう。ならば今ある現在を如何にして維持するか、死を回避するべきかに舵を切るべきではないのか?それが生物としての最終進化ではないのか?と思う。
宗教屋は黙っていないだろう、やれ魂やら霊魂やらを持ち出してきて否定するに決まっている。宗教が自由だというのならば、死に反逆するのもまた自由な考えであるというのが自然だ。
最近の研究ではいわゆる不死を実現しようとする声が多少なりとも聞こえてきた。どうか順調に進んで欲しいと思っているし、仮に実現したとしたらその後の社会形成や文化構築こそ、現代の我々の出番だと信じている。
それまでは、能動的虚無主義に従って一歩ずつ生きていこうと思う。自身のタナトフォビアに蝕まれながら。