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『生き辛い世界』とは、一体どう言う事なのだろう。
私は、考えさせられてしまった。
今現在、私を取り巻くこの世界、それは、私にとってとても優しい世界。家族が居て、友達が居て、恩師や後輩、色々な人達に囲まれて、守られ慈しまれている世界。
勿論、苦労や苦難、嫌な事もある。沢山ある。理不尽さに『何故私が?』と疑問に思う事だらけだ。
それでも『生き辛い』とは違う、ような気がする・・・。
いやいや、そんな事よりも、だ。
私は、首を左右に振りながらイケメンさんに聞いた。
「あの、その前に、こちらから質問しても良いですか?貴方は、どちら様なのでしょう?」
私のその言葉に、彼は動きを止めた。真っ直ぐに見ていた私から視線を外し、屈んでいた背筋を伸ばしてゆっくり辺りを見回す。なんか、誤魔化してる感じ?
「・・・気になります?」
再び私の顔に視線が戻ると、逆に質問された。私は頷く。
「気になります。と言うか、それを知らないままでは何の話も始まらないのではないでしょうか?」
「・・・」
腕を組んで顎に手を当て、彼は考え込んでしまった。
「アスフール・・・と、お呼び下さい」
考え考え、言葉を選ぶ様にそう言った。
「アスフール、ですか?」
「はい、アスフールです。省略してアスでも宜しいかと」
「アス、さん?お名前ですか?」
「ええ、名前です」
笑顔で何度も頷くイケメンさん、改めアスさん。
「では、アスさん。アスさんは、どういう方なんですか?何故、私に不思議な、薬?をくれるんですか?」
「それは・・・透子さんのお役に立ちたいから・・・です」
困った様な笑顔でそう答える。
「何で、私の役に立ちたいと思うんですか?」
どうしても質問攻めになってしまう。アスさんは困っている様に見えるが、聞かないわけにも行かない。なにせ劇的に熱が下がったり、怪我が治ったりしてしまったのだ。気にならない訳がない。今までは、小瓶を貰うと何故かボーッとしてしまって、まともに考える事が出来なかったものの、今は意識がはっきりとしている。聞くなら今しか・・・。
「教えて下さい。何でっ・・・」
全身に力が入ってしまう。両手を握り締めて、詰め寄るようにそう言った所で、アスさんは、自分の右手の人差し指を私の唇に当てて、私の口を塞いだ。
「透子さん、そんなに矢継早に聞かないで下さい。困ってしまいます。私はただ、透子さんのお役に立ちたい、それだけなんです」
なだめる様な静かなアスさんの声に、いつの間にか力の入っていた私の体が解れていく。
「なので、透子さんがお辛いのであれば、楽にして差し上げたい。必要であれば、私共の世界へお連れしたい」
唇に当てていた指を外し、代わりに手を広げて頬を包み込む。アスさんの顔が近付く。暗くなり始めた住宅街の小さな街灯が付き、斜めに影を落とした。アスさんの色素の薄い柔らかい髪と、同色の長いまつ毛に囲まれた瞳の色は、黒ではなく薄い茶色で、今までは泣き黒子に気を取られて気付かなかった、アスさんの本当の色を見た気がした。
アスさんは、優しい声でゆっくりと話す。そのスピードが、私と一緒にいる時間を特別なモノにしてくれる。
「透子さんは、日々多くの事に悩み、心を砕き、体にも傷を負われています。こんなに柔らかい、小さな体で。すぐにも壊れてしまいそうで、私は心配なのです。だから・・・」
瞬間、アスさんの全身に力が入るのを感じた。ハッと息を呑み、一つの方向を見る。
「カラス・・・透子さん、また改めて伺います。どうかご無事で」
少し早口でそう言うと、私の額に口付けて、手を離して一歩下がった。おでこが熱くなる。
「アスさん・・・?」
何でキス?どうしたの?
おでこを押さえてそう聞こうとした時、私はアスさんが見た方向、後ろから声を掛けられた。
「透子?透子じゃないか。どうした?そんな所で」
振り返ると、お父さんがいた。お父さんと、その背後に誰か男の人がいる。
あれ?今日は誰もお客さんを連れて来ないはずなのに。
「お父さん、お帰りなさい。ちょっと知り合いと話してたの」
私は、そう言いながらアスさんの方に向き直った。だけど・・・。
私は驚いた。今そこに立っていた筈のアスさんの姿が消えていたのだ。
「あれ?」
「誰も居ないじゃないか」
お父さんはそう言って笑った。
「透子、紹介しよう。こちら、ミヤマさん。さっきお父さん置引きにあってね、このミヤマさんが犯人を捕まえてくれたんだよ。ミヤマさん、こちら私の娘で透子と言います」
お父さんの横からミヤマさんと呼ばれた男の人が顔を出す。
「初めまして、ミヤマと申します」
真っ黒なスーツに鋭い眼光。グラデーションのかかったレンズの眼鏡を掛けた、ちょっと怖い感じの人だ。スマートな長身で20代後半位だろうか。ハッキリ言ってカッコいい。ただ、髪の色が気になった。
染めたような、ホントに真っ黒な髪。
「せっかくだから夕食を一緒しようと思ってね。家に招待させて貰ったんだよ。ささ、ミヤマさん。家はすぐそこです。どうぞこちらへ」
お父さんが片手で家の方を示す。
「ご招待、ありがとうございます」
軽く頭を下げて、ミヤマさんはお父さんに続いた。
「透子も早く来なさい」
お父さんが私を呼んだ。
「はい・・・」
アスさん、どこに行っちゃったんだろう・・・。
私は、後ろ髪を引かれる思いで返事をし、その後に続いた。