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その時、スマホから着信音が流れた。手に持ったそのまま和樹が出る。
やだ、勝手に・・・。
「もしもし・・・、姉さん?うん、来てるよ。・・・うん」
お母さん?
相手はお母さんのようだ。視線はそのままに和樹がスマホを私に渡して来る。
「透子?今日お父さん誰も連れて来ないみたいよ?良かったね」
スマホの向こうで、お母さんが言った。こちらとあちらの温度差が大きい。脳が2つに別れたみたいに、私は同時に2つの事に対応を迫られているような気分になる。
「そうなんだ、良かった」
電話口では平静を、目の前では緊張を。自然と電話口の方が疎かになる。
「和樹生きてた?何だか声に元気が無いけど、昨日大量に作り置きしてったから、何か温めて食べさせといてね」
「・・・分かった」
「透子も元気無いわね、喧嘩でもしたの?体調、治り切ってなさそうだったら長居しないでね。早目に帰って来なさいよ」
「うん、すぐ帰るよ」
お母さんの声は大きく、静かなこの部屋の中では、スピーカーにしていなくても内容が和樹にも届いていたのだろう。会話の切り上げのタイミングで、和樹は私の手からスマホを取り上げて通話を終了させた。和樹の反対側の手は、まだ私の腕を掴んでいる。
「・・・何か食べる?私温めるけど・・・」
震えそうな声でそう言う私。
「・・・ううん、今いい」
変わらないままの声色で和樹はそう言った。
と突然、掴まれた手を引っ張られた。和樹の胸に飛び込む形になる。和樹はそのまま立ち上がると、私の腕を高く持ち上げた。私は爪先立ちさせられる形になる。手首が捻られて痛い。
「ねぇ、和樹痛いよ・・・」
和樹と目線が合う。体が縦に引っ張られて悲鳴を上げる。
「会わないよね?この宮本って奴と」
「和樹・・・」
その時、窓の外からコツコツという音が聞こえて来た。最初は気にならない程度に。段々と大きくなり、窓に傷が付くのではないか?と言う程になった。
「・・・んだよ」
和樹は苛立ちを顕に呟いて、私の腕を離して床に落とし、窓に駆け寄る。カーテンを開けると、バタバタと音を立てて何かが飛び立つ影が見えた。
・・・小鳥・・・?
私は、体から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。それを見て、和樹はハッとして歩み寄って来る。かがんで私の手を取り、赤くなった手首を摩ってくれた。
「・・・ごめん」
申し訳無さそうに、俯いて謝った。
「うん、大丈夫」
私は、消えそうな小声でそう答えた。
「・・・怖がらせた」
和樹も、私に負けない位小さな声で言った。
「・・・大丈夫だよ。和樹、薬飲もう?」
私がそう言うと、素直に頷いた。私は、和樹に解熱剤とお水を渡して、和樹がしっかり飲むのを確認した。
「お茶も飲む?食べてないから、胃が荒れないように水分取った方が良いよ?」
私がそう言うと、和樹は頷いてお茶を一口飲んだ。
それから、和樹の手を引いて寝室に連れて行き、ベッドに横にならせた。
「熱、下がったよ。俺」
掛け布団を掛けると、和樹は私にそう言った。さっき迄とは打って変わって弱い声。
「きっと、今のでまた少し上がったよ。治り掛けの時は良く休まないと。振り返したら大変だよ」
私の言葉に、聞き分け良く頷いて、和樹は目を閉じた。
私は、リビングに戻ると使った食器を片付けた。最後に寝室に顔を出して「帰るね」と言う。
「今日金曜か。義兄さん帰って来るの?」
和樹は、仰向けで天井を見ながら、片腕を顔に乗せて聞いて来た。
「うん、お父さんだけみたい。今日は気楽だよ。和樹も元気だったら一緒したかったね。熱まだあるから明日は無理そうだけど、日曜日モデルしに来る?」
「・・・うん。待ってる」
「じゃ、日曜日にね」
「・・・透子」
「ん?」
「・・・何でもない」
それきり会話は途切れ、私は和樹の家を後にした。
和樹は、時々こうなる。興奮して自分を抑えられなくなる。それは子供の頃からで、幼い頃から私はそんな和樹をずっと見てきた。お母さんに無理やり押さえつけられる和樹の姿は、日常茶飯事、よくある風景として私の記憶に刻まれている。感情の起伏が激しく、気持ちを抑えられない。でも、その不安定さが、和樹の絵を素晴らしい物にしている、と、周囲の人達は皆口を揃えて言う。
事実、和樹の絵は多くのコンテストで色々な賞を貰っていて、在学中ながらも少なくはないファンがいるのだそうだ。
私も、そんな和樹の絵が嫌いでは無いし、親族として誇らしくもある。協力出来る事は協力したい。
それに、そもそも私を心配しての事である。過保護が過ぎるのだ。私がもうちょっと成長してしっかりすれば、私に対してのこういう事は治るのではないか?と期待している。
赤くなった手首を見る。少し熱を持っていた。
大丈夫、これくらい。ちょっと痛いだけだもん。
和樹の家から私の家迄は、歩いて10分程のご近所だ。すぐに家の側に着く。我が家に近付くに連れて、犬の鳴き声が聞こえて来た。恐らく、私の家のお向かいの(雅彦の家の右隣だ)大沢さん家のマリモちゃん。セントバーナードだ。
散歩前か、散歩帰りに、よくドアノブに伸び縮みするリードを掛けられているのを見るので、今もそうなのだろう。
家の前まで来て、私は驚いた。
我が家の方向に向かって激しく吠えるマリモちゃん。その前には、1人の男の人の姿があった。
背の高い、茶系のお洒落なスーツ、お揃いの帽子のその姿は、あのイケメンさんに違いない。
イケメンさんは、マリモちゃんの迫力に動けなくなっている様に見えた。
私は側まで行って声を掛けてみた。
「あの、どうかしましたか?」
私の声に振り返るイケメンさん。その体は小刻みに震えていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「・・・」
怯えて何も喋れなくなっているみたいだ。相当犬が苦手らしい。
「歩けますか?ちょっとマリモちゃんから離れましょう」
私は、彼の手をゆっくり引いてみた。震えながらもついて来るイケメンさん。
「そこの角まで頑張ってみましょう!」
私は、ゆっくりではあるが、なんとかイケメンさんを連れて、マリモちゃんが吠えない所まで移動してきた。
「もう大丈夫ですよー」
そう言ってイケメンさんに向き合うように立つ。
「はぁ、有難う御座いました。助かりました。どうもあの手の肉食動物は苦手でして」
震える声でイケメンさんはそう言った。深呼吸をしても、まだ体は震えている。
肉食動物って表現はマリモちゃんに対してどうなんだろう・・・。
そう思った時、イケメンさんは急に大事な事を思い出したように体がピンとして、震えの止まった声で言ってきた。
「あの、透子さん。今日は貴女にお話ししたい事があって参りました。路上で申し訳ありませんが、少し宜しいでしょうか?」
繋いでいた手を握り直される。ぎゅっと握られて、手首が痛む。
「ああ、そうでしたね」
イケメンさんは、私の手首を優しく握った。ヒヤリと冷たくて気持ちが良い。
フッと痛みが消えた。え?と思って手首を見ると、腫れが引き、治っている。
驚いてイケメンさんの顔を見ると、笑顔を見せてくれる。だけれども顔色がさっきよりもワントーン悪くなっている。彼の髪の毛が一房ハラリと落ちた。地面に落ちると、それは鳥の羽に姿を変える。小鳥の、茶色い小さな羽に・・・。
「・・・」
私は、何も言えなくなっていた。目の前の出来事について行けない。
「透子さん。この世界は、貴女にとって『生き辛い』ものではありませんか?もしそうならば、私は貴女を『私共の世界』へとお連れ致します」