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「今日、お父さん帰って来るから」
登校しようと玄関で靴を履いている時、お母さんがキッチンから少し大きめの声でそう告げて来た。
「うん、分かった。行ってきます」
私も少し大きめの声でそう答え、ドアを開けて外に出た。空は晴天。風も気持ち良く優しい。今日も良い天気だ。
うちのお父さんは、仕事で家を空けがちだ。でも大概週末には帰って来る。今日は金曜だ。本日は帰宅との事。
お父さんは良く会社の後輩やら、取引先の営業さんやらを家に連れて来る事がある。そういう時はスウェットや簡単なルームウェアでは無く、それなりの恰好でお迎えしなければならないので少し面倒なのだ。
・・・誰も来ないといいな。
そう思っていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、雅彦だった。
「透子、おはよう・・・って、何で普通に歩いてるの?」
片手を挙げて挨拶をしながら、自転車に跨った雅彦が私の足を見て変な顔をしている。理由は分かる。昨日の今日で、これは確かに異常だ。
「おはよう雅彦。何か、治ったんだよね・・・」
私は、苦笑いを浮かべながらそう言った。2人の間に、暫しの沈黙が落ちる。それを破ったのは雅彦の方だった。
「いや、意味分かんない。相当酷かったよね?だからチャリ出したんだよ。乗っけて行こうかと思って」
そう言えば、いつも徒歩なのに自転車に乗っている。
「ありがとう。せっかくだから乗っていい?」
私は、自転車を指差してそう言った。
「・・・おう」
「雅彦の自転車に乗せてもらうの久し振りだね、何年振りだろ。体が大きいから前見えないや」
雅彦の背中は本当に広い。ウエストもがっしりしてて片方の腕を回したとしても届かなそうな気がする。恥ずかしいから回さないけど。
「で、どうやって治したの?足」
自転車の前から大きな声で聞いてくる。
「気になる?」
「そりゃ、気になるに決まってる。あんなに酷かったのに、跡形もなく綺麗になってれば」
まぁ、そうだよね。私自身も信じられない。
「あのね、熱の時の話覚えてる?」
私は、頭の中に昨日の人を思い浮かべた。最初の日は玄関で私に、2回目の昨日は庭から窓を叩いて、小瓶入りの炭酸水をくれたイケメンさん。
「あの人が、また来たの」
「はぁ?!」
「それでね、また炭酸水の入った小瓶をくれて・・・」
そこまで言って、私は急に自分のした事が、かなりとんでもない事だったという事に気付いた。そして、言い訳がましく、取ってつけたように続けた。
「あ、でも前に雅彦に注意するように言われたの、忘れた訳じゃないよ。ただ、急に庭からリビングの窓叩いて来たから私びっくりしちゃって・・・」
雅彦は一度自転車を止めて、私を振り返った。
「リビングの窓叩いてって、勝手に庭に入って来たって事?」
無表情ではあるものの、信じられないものを見るような目で私を見てくる。
「えっと、そうなの、だから私ビックリして。それで・・・窓開けて、また前と同じく小瓶を貰って、それを飲んで寝たら・・・」
説明していると、自分の事ながら恥ずかしくなってくる。危ない・・・よね。私何であそこで窓開けてしまったんだろう。しかも貰ったモノ飲んでるし・・・。
「透子・・・もう少し警戒心を持たないとさ。俺は心配だよ」
ため息を吐きながら、雅彦は再び前を向いて自転車を漕ぎ始めた。
「何でだか分からないけど、どうしても飲みたくなって・・・。それに・・・、そう!また空瓶消えてたし、やっぱり夢かもって」
「治って良かったけどさ」
力説する私に、雅彦はもう一度ため息を付いて言った。
自転車が急に止まる。顔面が雅彦の背中に衝突してしまった。
「わっ」
「ああ、ゴメン。信号赤で」
前が全く見えないから、一声掛けて欲しかった。
ぶつけた鼻を摩っていると、雅彦が振り返る。
「透子さ、自分で気が付いてる?」
雅彦が真剣な顔でそう言う。
私の頭には「?」マークが、浮かんだ。
「最近・・・綺麗になったよ・・・」
雅彦の低めの声がすぐ側で響く。表情はいつも通りに無表情。でもその目はいつもよりも真剣で、私の目を真っ直ぐに見ている。
「・・・え?」
急に、何?
雅彦は、ハンドルから片手を離して、私の髪を一房掴み、自分の口元に運ぶ。
「髪も・・・」
呟いて髪を離し、今度は私の頬を包む様にする。
「肌も・・・」
片方の大きな手で、私の顔は隠される。半顔が熱くなる。雅彦の顔が近くなった。
「目も・・・」
雅彦の手は、そのまま耳をなぞって、髪を掬いながら後ろに流れて行った。そのまま、少し迷う様にして空を切り、私の頭の上に乗る。すぐ目の前の、雅彦の目が優しく光る。哀しい様な、嬉しい様な、複雑な表情。
信号が青に変わる。雅彦は前を向いて、自転車を漕ぎ始めた。
「だから、気を付けろよ」
雅彦は小声でそう言った。その後は、学校に着くまで2人ともずっと無言だった。
雅彦は涼しい顔で。私は耳まで赤くなって。
何・・・?何なの・・・?これは一体何?
キス・・・されるかと思った・・・。
「あれー?透子ちゃんの回復力って、どうなってんの?」
昼休み、環と机を2つ向かい合わせてお弁当を広げていると、宮本先輩が何処かからやって来て、その横にしゃがみ込んで言った。
「宮本先輩、今私達お昼食べているので邪魔しないで下さい」
環が目も合わせずに冷たく言い放つ。場所は教室。一年の教室に三年生が入って来たので、若干空気がピリピリしている。
「でもさー、一晩でこんなに綺麗になるなんてさー、ちょっと信じ難いよね」
宮本先輩は、言いながら少し視線を下げて、目の前にある私の太ももを撫で上げた。
「ヒャァ!」
突然の事に思わず変な声が出てしまう。一瞬ビクッとなり、体が跳ね上がった。と、すかさず環が先輩のその手を叩き落とす。そして、立ち上がって大きな声で言った。
「とんでもないハラスメントだ!出て行け!」
勢い良く廊下を指差す環。
「環、先輩だから・・・」
私は、肩に手を置いて環を宥めた。
「先輩だからと言って、こんな事は許されない!」
痛そうに払われた手を振っている宮本先輩。横から急に誰かの大きな手が伸びてきて、先輩のその手を掴んで引っ張り上げる。立ち上がらせられた宮本先輩の背後には、雅彦が立っていた。
雅彦の顔を見て、私はちょっと頬が熱を持つのを感じて俯いた。嫌でも朝の登校時を思い出してしまう。
「昨日の今日で・・・懲りない人ですね、あなたも」
雅彦は、先輩をそのまま廊下へと引っ張って行く。
「は!?俺先輩だよ!」
宮本先輩の遠吠え。
熱を帯びた私の頬に、環は複雑な表情をしながらパックのジュースを当てて来た。
「冷た!」
びっくりして私は言った。環の好きなオレンジジュース。
「冷やしてるの。・・・赤くならないで・・・」
「環・・・?」
「・・・何でもない。食べよ?」
環はジュースを口に運んで食事に戻った。
「うん・・・」
私も食べるのに戻った。
「ブロッコリーあげる」
「うん。じゃあトマトあげる」
お互い嫌いな物を交換。いつも通りにお弁当を食べた。お互いの好きな物、嫌いな物、何でも知ってる。仲良しだから。でも・・・。
どうして私の頬を冷やして来たのか、ハッキリと理解出来ない事が悔しかった。環が何かを我慢している様にしか見えない。
「環・・・」
口から環の名前が漏れた。
その、半開きの私の口に、環がスプーンを突っ込んで来る。
「難しい顔してないで、甘い物食べて笑って」
口の中にプリンの味が広がる。私の好きな甘い味。
環は、いつでも私の事を分かっていてくれる。そして私が喜ぶ事をしてくれる。
「うん」
私は答えて笑った。環の優しさと、プリンの甘さが偽りなく嬉しい。
「良い笑顔」
環も笑う。
私はいつも、甘えてばかりだな・・・。ねえ環、何で複雑な表情をしたの?何が引っ掛かったの?
甘い味で誤魔化されて、何も分からないままの自分が、情け無く思えてしまった。