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「あーもう、ダメだわ。イライラする」
環は一日中ずっとこんな調子だった。その愚痴の矛先は私だったり、雅彦だったり、はたまた隣の席の子だったり。今現在は、雅彦が犠牲になっている。
雅彦に昨日借りたノートのお礼を伝えて、それから他の教科のノートもお願いしたいと思っていたのだが、今日一日その機会は訪れないまま放課後を迎えてしまった。
仕方が無いから先に帰って、家でLINEでお礼を伝えて、ついでに他の教科のノートも改めてお願いしようかな。
そう思って鞄を持って席から立ち上がった時、教室の前の扉から顔を出して、廊下側1番前の生徒と話している人が目に入った。
「あ・・・」
前は、環と雅彦が2人で小声で何かを話していた。
その事を思い出した。
2人に声を掛けようとした所を、礼央先輩に背後から羽交締めにされて廊下に連れ出されたのだ。そして、そこでデートに誘われて、LINE交換をした。
そして今、小声では無いけれども環と雅彦の2人はこちらに背を向けて話しており、私は1人。
教室の前の扉から覗いている人と、廊下側1番前の生徒が話しながらこちらを向いた。廊下側1番前の生徒が私を指差す。教室の前の扉から覗いている人が私を見た。目が合う。
心臓が跳ねた。
礼央先輩・・・。
先輩は、私を見て小さく手を振った。
胸がキュッとなる。体の温度が上がる。
先輩が来てくれた。どうしてかは分からない。でも、私に向かって手を振ってくれている。
・・・嬉しい・・・。
弾む胸に若干浮き足立ちながら、先輩に向かって歩み寄ろうと足を一歩踏み出した時だった。黒板と教卓の間を突風の如く走り抜ける影が目に入る。
カツッスー、カツッスーという独特の音を立てながら、猛スピードで教室の前の扉に向かって行くのは蒼君で、進む勢いそのままに先輩に体ごとぶつかって2人で廊下へと出て行く。
朝の状況をそのまま繰り返すような情景に、私は呆気に取られた。取られながらも我に返って、先輩と蒼君を追いかけて廊下に駆け付ける。
駆け付けながら、私は確信していた。
蒼君は、礼央先輩と私が会うのを邪魔している、と。
何で?
そう思いながら、でもその『邪魔をする』という行為が、環への恋心よりも優先させるべき事由なのだという事も、確信に近い形で受け取っていた。
「お前、朝の。何だよ!」
廊下に出ると、先輩が大きな声でそう言っていた。
「そっちこそ、3年生ですよね?1年の教室に何の用ですか?」
蒼君が答える。2人共喧嘩腰だ。
「俺はただ、あの子に話があって来たんだよ」
「あの子って誰ですか?何かあるなら俺が伝えておきますよ」
「は?何でお前に頼まなきゃなんないんだよ。訳分かんない事言ってないで、とりあえず退け。お前関係無いから」
「退きませんよ。先輩こそ帰って下さい」
押し問答が続いている。私はその2人の後ろから声を掛けた。
「どうしたの蒼君。何で喧嘩してるの?」
蒼君と目が合う。気不味そうに視線を外らす蒼君。機嫌が悪そうに唇を尖らせてあらぬ方向を見る蒼君は、まるで悪戯を怒られた小さな男の子の様だった。
「丁度良かった。君に話があって。ちょっと帰る前に時間を貰えるかな?」
先輩が、私の方に一歩踏み出して肩に手を置きながらそう言った。触れられた部分が痺れたような感覚になる。
「はい、構いませんけど・・・」
震えそうになる声を必死に堪えながらそう答える。構わないどころか、是非とも!と言いたいのを我慢して、平静を装ってそう答えた声は、上擦って枯れかけてしまった。
私の答えを聞くや否や、先輩は私の肩に置いた手を少し下げて腕に回して自分の方に引き寄せる。私は先輩に抱き抱えられる様な形になってしまう。
わっ・・・。
軽く驚きながら、頬が熱を持つのを感じた。
多分、私赤くなってる・・・。恥ずかしい・・・。
「ありがとう」
先輩は私に向かって微笑みながらそう言った。そして、蒼君に向き直って蒼君の肩を空いている方の手で軽く押した。
「・・・」
よろける蒼君を無言で睨み付ける先輩。ちょっと怖い。でも、私はその顔に見覚えがあった。
先輩と付き合う前の遊園地デートの時に、占い館で見せた表情と今の顔が重なる。
記憶が蘇る。セピアの想い出に鮮やかな色が混ざり込んで今の風景になる。
蒼君は、チッと舌打ちをして、先輩を一度睨み返した。けれどもそのまま無言で離れて行った。
その後ろ姿を見ながら、私の胸の中は複雑な感情に染まって行った。
蒼君・・・。何でこんな事するんだろう・・・。
「ったく何なんだアイツは。君の彼氏・・・とかでは無いよね?」
「ち、違います。彼氏じゃないです」
慌ててそう答えて首をブンブンと振った。
「そう、良かった」
先輩はそう言って、安心したように息を吐いた。
そして、私を抱き抱える腕に少し力を込めてギュッとした。先輩との距離がさらに縮まる。
「わ、あ、あの・・・」
更に顔が熱くなって行く。嬉しいやら恥ずかしいやらで、私の心臓は爆発しそうに早鐘を打ち始める。
先輩が、顔を近づけて来て耳元で
「ゴメン、ギュッてしたら、嫌だった?」
と囁く。ひたすら甘い声で。
え、待って。先輩ってこんな人だったっけ?
混乱しながらも、私の心臓は爆発寸前で、ただただドキドキする胸を両手で押さえるしか出来なかった。
嫌じゃ無い。むしろとっても嬉しい。でも、そんな事言ったら私変な人だ。
どう答えようかと困っていると、先輩は手を離して私の正面に立ってニコッと笑った。
正面から見た先輩の笑顔は、やっぱりとても可愛らしく見えた。クシャッと目元がシワになり、口角が上がって優しい感じになる。
前も思ったように、先輩の顔は表情の動きが大きくて、感情豊かな印象を受ける。見ているだけで気持ちがストレートに伝わってくる、素敵な表情。
それまでに出会った事のないタイプの人。いや、この先も、出会う事の無いタイプの人だ。ただ、先輩ただ1人だけ。1人だけの、特別な人・・・。
心臓のドキドキが止まらない。ドキドキ、ドキドキという心臓の音に気を取られながらも、先輩に見惚れている自分に気が付いた。
私、変わらないなぁ・・・。
「そ、それで、何ですか?お話って」
ちょっと慌てて上擦った声でそう言う私。先輩は少し屈んで、私を見上げるようにして言った
「あのね、土日暇かな?もしどっちか空いてたら一緒に出掛けたいなーって。駄目?」
同じシーンを繰り返している・・・。既視感、と言って良いのだろうか。
先輩が語尾を上げるのと同時に首を傾げる。あざとい仕草。でも、男性の先輩がやっている事だから、可愛いと言うよりは面白い。
前も思った事と、同じ事を思う自分。
「・・・お誘いですか?」
同じ返答を繰り返す。
「うん。デートしよ?」
先輩も、全く同じ言葉を同じトーンで繰り返す。
両日とも空いてる。暇だけど、どうしたものか、と悩む自分・・・。
「・・・2人で、ですか?」
そう聞く私に、先輩は『勿論、デートだから2人』と答える・・・。
「勿論、デートだから2人」
・・・知っている答え・・・。
先輩にデートに誘われて嬉しいと思う自分と、同じ事を繰り返している事への恐怖と不安を抱いてる自分が混在していた。
心臓がドキドキしたままで感情が混乱して、手の平に汗が滲んで来た。
赤い顔を隠すように俯いて黙っていると、先輩はズボンの後ろポケットを探り、スマホを取り出すと操作しながら言う。
「あっと、取り敢えずLINE交換しよ?ね?」
「え、はい」
弾みでそう答えて、鞄の中から私もスマホを取り出した。
「俺宮本、宮本礼央。3年。君は?」
先輩に言われて気付く。まだ名乗ってなかったのだ。
「・・・二宮、透子です・・・」
答えながら、私は宮本先輩とLINE交換をした。
その時、教室の前の入口から「何だよ押すなよ」という声が聞こえて来た。
見ると、背の高い男子生徒が教室内に向かって困惑の表情を浮かべながら廊下に押し出されている。押し出されているのは雅彦で、チラッと見えた松葉杖の先からして押し出しているのは蒼君だろう。
先輩もそれに気付いたのか、面倒くさそうな表情を浮かべて小さく息を吐いた。
「じゃ、後でLINEするね!透子ちゃん」
言って私に向かって笑顔を見せて、宮本先輩は手を振って行ってしまった。
見送る私の横に雅彦が立った。雅彦は私と同じ方向を見詰める。私が手を振る先の、先輩の背中を見詰める。
「・・・誰?」
雅彦がそう聞いた。
「3年生。今朝、私がバイクにぶつかりそうになった所を助けてくれた人」
私がそう答える。
「え、危ないな」
雅彦が私を見て、驚いた声で言った。
「うん。ボーっとしてた」
私は先輩の背中を見たままで答えた。
雅彦が視線だけ外して、何か小声で呟いた。
「・・・それで、口説かれたか・・・」
「え?何か言った?」
「ん?いや別に。そうだ透子、ノートどうだった?他のも使う?」
誤魔化すように少し早口に言う雅彦。気にはなったけど、追求しても誤魔化し続ける事は分かっていたので、私はそのまま流した。流して、朝からずっと言いたかった事を言う。こんな時だけど、ようやく言える機会が来た。
「そうだ。私ずっとお礼を言いたくて。雅彦ありがとうね、ノート貸してくれて。凄く助かったの。他の教科のも借りれたら借りたいと思ってたんだ」
「ああ、良いよ。荷物まだ中だ。持ってけよ」
雅彦は言いながら、教室の中を指差してそちらに向かう。
「ありがとう、ホント助かる」
私は応えながら、雅彦の大きな背中に続いた。
続きながら、私の心の中はごちゃごちゃだった。
先輩とLINE交換が出来て嬉しいのと、再び関係を持てるようになって安心しているのと、同じ事を繰り返し行う事への不安と恐怖を、今後も味わう事になるのかという先への苦労と。
蒼君の奇行と・・・。
特大の溜め息を吐いた。
感情が忙しい。
「何その溜め息・・・」
雅彦が呆れ顔で聞いてくる。
「な、何でもないよ」
その呆れ顔が何だか私を下に見ているような気になって、そんな風にちょっと強く言い返してしまった。
受け取ったノートに頭を下げて、鞄の中にしまう私を見ながら、雅彦が少し笑うのを感じた。
「ま、別に良いけど。さ、環にまた捕まる前に早く帰ろう」
雅彦がそう小声で言いながら、教室の後ろの方に視線を流した。そこでは環と、環に直に何かを言われている蒼君の姿があった。
「ぅわ・・・」
環は愚痴りたい本人を目の前にして、かなり熱量が上がって来ている様子だ。
私と雅彦は、2人に(環に)見つからないようにそのままそっと教室を後にした。