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蒼君の走るスピードは早いままで、私の息上がりっぱなしだ。さっき松葉杖にぶつけた肩が熱い。走る度に上がって行く脈拍に合わせて、ズキッズキッと痛みが走る。
「ねえ蒼君、どうしたの?」
肩の痛みも気になるけれども、今1番の気掛かりは、蒼君のさっきの様子だ。真面目な表情で、小声で呟いた「それはこっちの台詞だ」という言葉。
顔色も声のトーンも1段階下がって、明らかに様子がおかしかった。
それに、急に手を取って走り出した蒼君に対して、私はちょっと怒りも覚えていた。せっかく礼央先輩と出会えたのに邪魔をされたという事もあるし、理由も告げずに強制的に連れて行かれている事この状況も納得行かない。何よりも、突然現れて先輩を危ない目に合わせたという事が許せなかった。
心配と怒りの混ざった私の声に反応して、蒼君が少しスピードを緩めた。そして、私を振り返って言う。
「透子、本当だったね」
全く息切れする事なく普通に話す蒼君のその言葉を聞いて、私の頭の中に疑問符が浮かんだ。
何が本当だったの?と。
ただ蒼君の顔を見詰める私に、蒼君は続ける。
「今日の透子は、昨日よりもこう、何というか・・・劣化?初めて見た時に戻ったみたいに見えるよ」
「・・・え?」
劣化という言葉に引っかかりながら疑問の表情を返す。自分の考えていた事と全く違う様子の内容に戸惑う。正直全然意味が分からなかった。
「急に、何の話?」
「ほら、昨日話したじゃん。俺が『こんなに綺麗だったっけ?』って聞いたら、透子が『たまたまだよ、すぐ元に戻るよ』って」
それを聞いて、私は昨日の事を思い出した。5限目の体育を見学した時の事だ。アスさんが私にしてくれた見た目の操作(?)の事を、『こういう事だったのか』と私が深く理解した時の、恥ずかしやら呆れた気持ちやらが再び湧き上がってくる。
投げやりに言い放った『多分、少ししたら元に戻るよ。今は、ちょっと綺麗に見えるような気がするだけだよ。気のせいみたいなものだよ』という私の言葉に、蒼君が笑ったのだった。
「照れ隠しや謙遜にしても、もうちょっと他に言いようがあるだろって思ってたんだけど、まさか本当に戻るとは」
そう言ってまた笑う蒼君。前を向き直して、再びスピードを上げる蒼君は、肩を小刻みに揺らしてとても楽しそうに見える。
・・・何か、私酷いこと言われてる?
「ちょっと・・・」
口を尖らせて、蒼君を諌める声を出した。
「ゴメンゴメン、怒らないで」
謝る蒼君。そしてすぐに続けた。
「でも、透子が自分で言ったんだよ?だからその通りだったなって思ったら、なんか可笑しくて」
前を向いて走る蒼君の背中や肩は、堪え切れない笑いが溢れ出たみたいに揺れていた。時々呼吸に笑いが混ざって聞こえて来る。走っているから息切れしているのではなく、笑いが抑えられなくて呼吸が苦しそうに見えるのが腹立たしい。走り慣れていない私は普通に息切れしているのに。運動部と帰宅部、おまけに運動不足を足して馬鹿にされている様な気分になって、益々腹が立った。
「もう、酷いよ!」
怒りの声を上げながらも、アスさんが私の要求をしっかりと聞き入れてくれていたのだなと思った。
独特な価値観で、ズレた善意を押し付けてくるような所があるけれども、言えば聞き入れてくれる。いつも優しい声で語り掛けてくれて、私の事を最優先で考えてくれている。
・・・良い人、だよね。いや、いいスズメ、かな・・・?
校門を通り抜けた所で、「ああ!」という声が聞こえた。その声は、とても元気の良いものだけれども、大きな怒りを含んでいた。
何事かと蒼君が立ち止まり、勢いを殺しきれずに少しぶつかりながら私も立ち止まった。そして、声の方を見ると、昇降口の前で仁王立ちになってこちらを指差している女生徒の姿が見える。
環だった。
「ちょっと安井!あんた何透子と手繋いでるのよ!」
環は、大声でそう言いながらこちらに向かって走ってくる。
「あ・・・」
蒼君が、声を漏らして環を見詰める。片手で口元を覆う。その蒼君の顔を見て私は驚いた。
さっき礼央先輩の前で見せた真面目な顔から、いつも通りの表情に戻ったと思えば、今度はまた更に大きな変化を見せている。
その目を、瞳の輝きを、私は知っている。
自らの意志ではコントロールの出来ない、本能的な視線。自然と目で追ってしまう。一瞬たりとも見逃すまいと、追い続けてしまうその視線の意味を。
恋。
それは、紛れもなく恋だ。
「心には逆らえないな・・・」
呟く蒼君。
蒼君の、私の手を握るその手の力が少し強くなる。その意味が、痛い程に分かってしまう。
その人を見るだけで胸が熱くなる。ずっと見ていたいと夢中で追い続ける。そして、見えなくなった途端にドッと疲れが出る。無意識のうちに、体全体に力が入ってしまっているから。
「蒼君・・・、蒼君は、環の事が・・・」
『好きなの?』と言おうとしたのか、『好きなんだね』と言おうとしたのか分からない。分からないけどどちらでも良いその言葉は、私の口からは出なかった。
「透子が劣化したから、心を誤魔化せなくなった」
そう蒼君が言ったから。
ふざけた口調で言いながら、蒼君はこちらを振り返って私を見る。その目はもう普通の目。いつも通りにふざけた感じの笑顔だった。
「・・・」
蒼君の百面相に着いて行けない。言っている事も今ひとつよく分からない。それでも、目の前にいる蒼君が、環に恋をしているという事実に、私の心は釘付けにされてしまった。
何度も『劣化』という言葉を繰り返す事にいちいち引っ掛かる。全てを私の所為にされている気がする。
心を誤魔化すって何?蒼君は、何を望んでいたの?
訝しみ首を傾げた所で、繋がれた手が離れた。
「あんたね、油断も隙も無い。勝手に透子に触らないでよ!」
離れたばかりの手を、走って来た環が掴む。そして、私を蒼君から庇うようにして間に入り込んで蒼君の胸を伸ばした腕でドンと押した。
「何の事かなぁ」
恍けて目を逸らせて笑う蒼君は、全くもっていつも通り。さっきの様子は、今の姿からは想像も及ばない。
自分を隠すのが上手い人だ。
その後も環と蒼君の言い合いは止まらず、そのまま教室まで移動して朝のHRが始まる迄止まる事なく続いた。
環の手は私から離れず、蒼君は終始楽しそうで、結局礼央先輩とのやり取りの際の気掛かりな点を聞く事が出来なかった。
振り回されて、一緒にいるといつも蒼君のペース。言いたい事も言えず、聞きたい事も聞けず、とってももどかし。
それでもそこまで不快な気分にならないのは、蒼君に全く悪意が無いからなのかな?と思う。蒼君は何かを想い、何かの為に動いている。それは簡単な事では無いけれども、だからと言って投げ出す事の出来ない、とても大切な事なのだろう。
「あーもう腹立つ。不愉快な事この上無いわ!」
横で環が怒っている。
きっとそれは、環への恋心よりも優先させなければならない事なのだ。
私は、よしよしと環の頭を撫でた。
みんなのベクトルが、それぞれの方向を向いて直進している。重なり合い離れて行ってしまうその直線を、なんとか寄り添って進むように修正出来れば良い。
そう願わずには居られなかった。