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「今日、お父さん帰って来るから」
玄関で靴を履いていると、お母さんにそう声を掛けられた。
今日は金曜日だ。いつも家に帰れないお父さんが、帰って来る日。
前は、ミヤマさん達が一芝居打ってお父さんに恩を作って、家に招待させた。以来毎夜、私の部屋にミヤマさんが入って来る事になったのだけれども、今日はそうはならないだろう。「今は家に入る必要は無い」と、昨日他でもないミヤマさん本人が言っていたのだから。
「分かった。行って来ます」
お母さんにそう声を掛けて、私は家を出た。
晴天の日差しを浴びながら、自転車を引く雅彦を思い出す。足を怪我した私を乗せて通学しようとしていた雅彦の姿は、今は無い。
学校への道を1人で進む。今朝は雅彦とは会わないみたいだ。待ち合わせをしている訳ではないので、たまにはそんな日もある。
昨日私は怪我をしなかった。
ついでに言うと和樹の家にも行かず、うっかり殺されてしまう事も無かった。
何事も無く、平穏無事に過ごしている。
平和だ・・・。
けれども、私の頭の中は嵐が吹き荒れた後のようになっていた。酷い嵐が全てを破壊し尽くして、大地を均して過ぎ去ったみたいに。
ずっと考え続けていた。やり直す事の意味を。和樹の事を。ミヤマさんと女の人の事を。そして、アスさんの事を。
チチッという小鳥の声が聞こえてその方向を見た。小さなスズメが2羽、近所の生垣の枝から電線へと飛び移って行った。
アスさんではない普通のスズメだ。
そう言えば、6年後の世界ではスズメを殆ど見かけなかった。ニュースではスズメやメジロといった小鳥の数が激減していると報道していた記憶がある。絶滅危惧種になるかも知れないと。
もしスズメが絶滅してしまったら、アスさんは消えてしまうのだろうか。
スズメの姿を目で追い、見上げながらそんな事を考える。
朝の日差しは強く、白い壁やアスファルトの照り返しで眩しい。
目を細めた時だった。
「危ない」
背後から声が聞こえた。同時に肩を背後に引かれる。
「わっ」
私は小さく声を上げて後ろ側に倒れ込んだ。トスッと音を立てて頭が誰かの胸に衝突する。
キキーッと響く自転車のブレーキ音。私と共にバランスを崩した誰かが、タタラを踏みながら自らと私を支えるためにギュッと私の頭を抱き込む。目前を遮る誰かの腕は、うちの高校の男子の制服だ。
瞬間、目と鼻の先をバイクが横切った。
「っぶな・・・」
頭上から降ってくるその声を、私は知っていた。
ビックリして、手に持っていた鞄を落としてしまう。膝が震えた。
「大丈夫?」
その人は、自分が乗った自転車を片足で支えながら腕を緩める。私の両肩に手を乗せて、自分の胸から優しく引き離した。そして、私の顔を覗き込む。
・・・嘘・・・、何で、こんな所に・・・。
驚き過ぎて声が出ない。膝の震えが登ってくる。腕へ、肩へ。
「あ・・・」
そう言ってその人は動きを止めた。目が合った瞬間、私の髪の一房が強く引っ張られた。その人の制服の胸元のボタンに引っかかってしまったのだ。
チリッとした痛みが頭に走る。
「痛っ・・・」
「待って、動かないでね」
そう言ってその人は、慎重にボタンから私の髪を解いた。痛みが消えて頭が軽くなる。
「・・・、はい、取れた」
言いながら引っかかっていた私の髪の一房を見つめる。髪に痛みがないか確認して、そしてそのまま私を見た。
「綺麗な髪だね。良かった、切れたりしなくて」
体が震えた。顔が熱を帯びていくのを感じる。
もう、見てられない・・・。
私は、その人の視線から逃げるように下を向いた。そして、震える声で「ありがとうございます」とお礼を言った。
「怖かったんだね」
私の声と体の震えを誤解したのか、その人はそう言って自転車から降りた。スタンドを立てて自転車を止めて、しゃがんで私の鞄を拾ってくれる。
脱力して小刻みに震える私の手を掴んで、その手に鞄を待たせてくれた。
「考え事でもしてたのかな?危ないから前は見て歩こうね」
優しい声に、私は頷いた。
「うちの高校だよね?1年生かな」
その言葉にも、私は頷く事しか出来なかった。
「俺3年生。良かったら一緒に行く?学校まで」
!
む、無理ですそんな事・・・。
恥ずかしさに負けて、私は全力で首を横に振った。
「ありゃ、振られちゃったか」
残念そうに言うその声に、堪らず私は顔を上げた。ずっと逢いたいと思い続けてきたその顔を改めて見詰める。
昨日遠目で見た時と同じく、変わらないままの先輩の顔がそこにあった。
同じ位の身長で、手を繋ぐとその顔との距離はもっと近付くのだ。今は制服姿だけれど、私服はとてもオシャレで、ネイティブに英語を話すことが出来て、決して喧嘩は強く無いけれども、私の為に自分よりも大きな人に立ち向かってくれる強さのある人。
「えっと、そんなに熱っぽく見詰められると、脈があるのかな?って思っちゃうけど」
軽い口調でそう言って、照れたみたいに指先で頭を掻く。
「付き合っちゃう?」
そう言ってニッと笑う。そう、先輩は軽いのだ。けれどもだらしないとか、誰に対してもとか、そう言うのとは違う。誠実だけども、思った事はすぐに口に出す。そういう人なのだ。
付き合っていた期間は、本当に短期間。それでも、大好きだった人。離れてしまってからも、ずっと私の事を好きだったと、そう言ってくれた人・・・。
付き合う?と聞かれたら、私の答えはYESだ。揺らがない。揺らぐわけがない。
息を吸い込んだ。
と、返事をしようと口を開きかけた時だった。来た道から、カツッスーッ、カツッスーッという、あまり聞き慣れない音が聞こえてきた。
徐々に大きくなっていくその音に気を取られて、先輩から視線をズラしてそちらの方を見る。
すると、すぐ横に蒼君がいた。
「え?蒼君?」
「透子、うわ!」
得意の松葉杖で猛ダッシュして来たみたいだった。あの変な音は松葉杖と足を引きずる音で、そしてそのまま勢い余って蒼君は先輩に体当たりを喰らわせた。
押し出されるように道に飛び出す先輩の体を、慌てた私が今度は腕を引っ張って引き戻す。でも力が足りなくて、私の体も一緒に飛び出してしまった。
焦った蒼君が私の腕を引いて、その力が結構な凄い力で、私は引き戻されて蒼君の松葉杖に思い切り肩をぶつける形になった。痛みを堪えていると、直後に戻って来た先輩の体もぶつかって来て、私はサンドイッチの具のように2人に挟まれてしまう。
直後に響くクラクション。通り過ぎて行く自動車の風を全身に感じた。
背筋に冷たい物が流れて行った。
一瞬、3人で顔を合わせた。沈黙が流れる。
その沈黙を破ったのは先輩だった。
「何だお前急に出て来て。殺す気か!」
近くで怒鳴られて、私の耳も痛くなった。思わず蒼君の方に身を引いてしまう。
だから聞こえて来た。蒼君が小声でボソリと呟く声が。
「それはこっちの台詞だ・・・」
・・・?
不思議に思って見上げると、蒼君の表情からはいつもみたいなふざけた笑顔が剥がれ落ちて、青ざめて今にも冷や汗が吹き出して来そうに見えた。
「・・・蒼君・・・?」
不思議に思って、そして無性に心配になって、そう声を掛けた。
蒼君は、私の声にハッとなっていつもの表情に戻る。
「あっ、すいません。慌てて走って来て転んじゃって。マジ申し訳ない」
言って目の前で手を合わせた。頭を下げて謝って、そして2本の松葉杖を右腕でまとめて抱えて、左手で私の手を握った。
ヘッ?
戸惑う私の手を引いて、蒼君は走り出した。2本まとめた松葉杖と挫いていない片方の足を交互に出しながら。
は、早い!
後には呆気に取られた先輩が自転車と共に残されている。
私は、手を引かれて一緒に走りながら必死で振り返って、先輩に向かって頭を下げた。助けて貰った事への感謝と、蒼君が迷惑を掛けた事の謝罪を込めて。
「蒼君・・・」
切れる息を整えながら、前を走る蒼君に呼び掛ける。
「透子ゴメン、今は一緒に来て」
そのまま私は、学校までの全力疾走に付き合わされた。