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何も感じなかった。
五感を閉じた状態、とでも言うのだろうか。暗く、何も見えず、音も匂いもなく、痛みも温度も感じない。
ただ、怖かった。
和樹が、衝動的に暴力を振るう事は勿論知っている。私自身も何度も振るわれた経験がある。それでも、和樹は必ず我に帰り、そして謝るのだ。「ゴメン・・・」と。
でも今回は・・・我に帰る前に・・・。
私は死んでしまったのだろうか・・・。
『死』とは何だろう。『死』んだらどうなるのだろう。今、こうして考えている私は何なのだろう。このまま消えてしまうのだろうか。和樹に対する恐怖も、和樹に対する心配も、全て無くなってしまうのだろうか。
消えてしまうのなら、せめて和樹に優しい言葉を掛けてあげれば良かった。具合の悪い時に、酷い事を言ってしまった。和樹に謝りたい。
あの時の事を思い返せば、私は自分の言いたい事を投げ付けるように言うだけで、和樹の話を殆ど聞かずに全否定した。いつも怖がるばかりで言いたい事を言えないからと、その恐怖心を追い払うみたいに強い言葉を吐き出し続けた。
これでは、いつもの和樹と同じだ。和樹が暴力で私を押さえ付けるように、私は和樹が望まない言葉で和樹を追い詰めてしまった。
携帯を勝手に見られた事で、自分の中に怒りがあったとしても、自分を抑えることが出来なかった事が恥ずかしい。そもそも、携帯を見られていたという事を、私は知っていた筈なのに。
同じ事を繰り返して、バカみたい・・・。またこの感じだ。本当に嫌になる・・・。
何処から来る思考なのかは分からないが、そう思った時に、ふと気配を感じた。
と、同時に『自分』を感じる事が出来た。体の左側に自分の重さを感じる。無造作に転がされているのか、変に捻れた自分の体の色々な部分に床の硬さを感じる。
徐々に音が聞こえて来た。女の人の泣き声が聞こえる。泣きながら、何かを大声で叫んでいる。少し離れた場所に居るのだろうか、声は遠く、そして大きい。
「どうして」
そう言っているみたいだ。「どうしてこんな事に」「いつも邪魔をする」「早く・・・して」そんな言葉が、数々の暴言に混ざって聞こえて来ている。
「急げよ」
急に、すぐ側で声が響いた。男の人の声だ。その声の主は、和樹では無い。私はその声を知っている。
ミヤマさんだ。
その声は、全力疾走をして来た人が発するみたいに荒い呼吸の中に混ぜられたものだった。
とても、焦っている?
「早くしろよ。やらないなら俺がやる。どけ」
以前聞いたミヤマさんとは、随分と話し方が違う。もっと紳士的な喋り方だったのに。
「今やるよ!」
ミヤマさんの声に応えるように別の声が聞こえた。その声はミヤマさんよりも近く、そして、より焦っているように感じられた。
アスさんの声だ・・・。
突然、左側に感じていた床の硬さが背中に移動した。仰向けにされたみたいだ。そして、首の後ろを少し持ち上げられて、顎を突き出す形にされる。自然と口が開いた。そして、そこに何か管のようなものが差し込まれる。その管はとても長くて、スルスルと喉の奥の方まで入って行き、お腹の辺りで止まるのを感じた。
「・・・うっ・・・」
嗚咽感と共に声が漏れた。
「透子さん、戻りましょう」
アスさんがそう言った。
胸に強い圧力を感じる。背中が床に押し付けられる。リズミカルに5回。1拍置いて更に5回。
心臓が、震えた。
ぶるり、と痙攣する様に揺れると、一度大きく縮んでから大きく一度鼓動を刻んだ。
私の心臓、止まってたんだ・・・。
瞬間、お腹の辺りの管の先から何かが身体中を巡った。無くなっていた感覚が一瞬で戻る。空気の温度、床の硬さ、喉に何かを入れられた違和感と嘔吐感。全身の痺れと、頭と胸の激しい痛み。
堪らず目を開いた。
目の前に広がる白。
眩い白。世界が弾け飛んで、白意外何も見えなかった。
体全部が空気を欲しがっていた。
私は、口を可能な限り大きく開けて、めいいっぱい空気を吸い込んだ。喉の奥がヒューっと奇妙な音を立てる。
肺が悲鳴を上げて、今度は今吸い込んだばかりの空気を全部吐き出す。すると、また空気が欲しくなり、また吸い込む。
私は盛大に音を立てて、大きな呼吸を繰り返した。
幾度かそれを繰り返し、気持ちが落ち着いて来ると、そこでようやく目を開けることが出来た。
そこは、私の家の、私の部屋の中だった。
自分の部屋の中で、床の上に直接座っていた。体には夏掛けの羽毛布団が掛かっている。
これは・・・。
「透子さん!」
アスさんが私を呼んだ。
どこから声が?と思い、姿を探そうとした瞬間、ギュッと強く抱き締められた。
「わっ」
アスさんの広い胸の中にすっぽりと収められてしまう。私は、誰も居なかった筈の部屋の中に突然現れたアスさんに驚くと共に、何故急に抱き締められているのかが分からず、混乱して何も出来ずにされるがままになってしまった。
アスさんは震えていた。抱き締めながらも、小さな声で私の名を繰り返し呼び続けている。私にはその様子が、まるで小さな子供が怖い思いをして母親に縋っているように見えた。
私はアスさんの震える肩に手を伸ばした。そして、その肩をそっと撫でてみた。上から下へと、ゆっくり繰り返し撫でた。徐々にアスさんの震えが収まってくる。私を抱き締めるアスさんの力も弱まり、私は、アスさんの胸を押して少し離れて、アスさんの顔を見た。青ざめた顔のアスさんは、私の背中から手を離して、その手でそのまま私の顔を包み込んだ。相変わらず冷たい手だった。
「・・・良かった・・・間に合って・・・」
呟くアスさんの向こう側に時計が見えた。壁掛けのデジタル時計の日付と時間が目に入る。学校から帰って来た時間に戻っている。
自分の体を見ると、まだ制服を着ていた。ブレザーとリボンだけハンガーに掛けられていて、スカートとブラウスとベストだけになっている。すぐ横にルームウェアが落ちていた。少し離れた床には、学校から帰って来てそのまま置いた鞄が置かれている。
・・・戻って来たんだ・・・私・・・。
「おい」
急に、窓の外から声が掛けられた。見ると、庭木の枝の上に一羽のカラスがとまっていた。
声が聞こえると同時に、アスさんの体がビクッと震えた。俯いて床を見つめると、そのまま固まって動かなくなる。
「再会シーンの最中に悪いが、ルール違反者にはペナルティだ。消えろ」
カラスは、ミヤマさんの声でそう喋った。
私は、カラスが人の言葉で流暢に喋るという現象と、それがミヤマさんの声であるという事を受けて、という事はやっぱりミヤマさんはカラスなのだ、と、導き出された事象が頭の中で順番に整理されて行くのを、覚醒したてのあまり活発に機能しない頭の中で流れるように吸収されて行くのを感じた。
その思考がひと段落してから、ミヤマさんの言葉の内容を考える。「ルール」と「ペナルティ」。
・・・何・・・?
疑問が浮かんだ時、アスさんが顔を上げた。私の顔を、悲しそうな目で見た。
瞬間・・・。
アスさんの体が縮んだ。シューっと小さくなって拳大になり、茶色くふわっとしたフォルムになったかと思うと、そのまま消えてしまった。
「・・・えっ?!」
突然の事に私は固まってしまった。
何?何が起こっているの?全く分からないのだけど。
「暫くアレは現れない。うっかり死なない様に気を付けた方が良い」
ミヤマさんの声でカラスはそう言うと、大きく羽ばたいた。今にも飛び立とうとしている。
「ま、待って!」
私は呼び止めた。
カラスは私を見て、広げた羽をそのまま静止させる。
「何か?アレが現れないのならば、貴女に用はないのですが」
「お願いがあるの。何が起こったのか、教えてくれない?」