42 和樹root bud end
カラスは相変わらず、室内に入って来ようとはしなかった。「カァ」という鳴き声が響き、余韻が残る中で、透子は続けた。
「和樹の事は大好きだけど、それは家族としてだから。恋愛感情は無いの。だから、一緒には暮らさない。私はお父さんとお母さんとあの家で暮らして、いつか和樹じゃない誰かと結婚してあの家を出て行くの」
透子の言葉が俺の耳に入り、そのまま流れて出て行った。意味が掴めない。興味の無い教示の如く。
だが、大事な事が含まれていた筈だ。聞き逃してはならない、重要な事だ。
『一緒には暮らさない』
『暮らせない』では無くて『暮らさない』と、透子はそう言ったのだ。そこには、透子自身の意志が込められている。
どうしてだ。どうして、そんな事を言うのだ。だって、透子は俺の事が『好き』なのだろう?『大好き』な『彼氏』で、大きくなったら『結婚』するのだろう?透子がそう言ったんじゃないか。最初俺は、乗り気じゃなかったんだ。だけどずっと横でそう言われ続けて、長く一緒の時間を過ごして、ずっと透子の事を見て来た。透子の嫌な所も、許せない所も沢山あった。それらから目を逸らさず、指摘し改善させて来た。逆に透子にとって俺の許せない所は、透子の希望に添うように直して来た。そうやって、お互いに、ずっと一緒に居るために関係性を築いて来たのでは無かったのか?
そのお陰でもう、俺は透子の為だけの人間だ。透子と共に過ごす為に、多くを捧げて来た。透子が『良い』と言う物を選び、身に付け、透子の好む行動をし、透子だけを見ている。いや、透子しか見えない。現に透子を描く時は喜びに満ち、声を聞けば胸が騒ぎ、触れれば身体中の血が沸き立つ思いだ。
透子もそうなのだろう?俺に描かれて幸せを感じないのか?俺に触れ、声を聞き、会話をする事で喜びを感じないのか?
俺の事を、『大好き』なのだろう?
『家族』としてって、何だ?恋人のその先に『家族』という形があるんじゃないのか?分かってるよ、法的に俺と透子が『結婚』出来ないって事は。けどそれが何だ?お互いに『好き』なら、それで良いじゃないか。一緒に居ればそれで十分だろう?
ああ、頭が痛い。急に胃がムカつく。吐きそうだ。
込み上げて来たものを無理やり飲み込んで、その後咳込む。咳と共に出て来そうになる何かをまた飲み込む。沢山の空気と共に飲み込んだせいで食道が苦しい。腹も苦しい。それでも咳は止まない。
透子が俺の背中に手を回して起き上がらせてくれた。
俺は体をくの字に曲げて咳と吐気と戦った。
「和樹・・・大丈夫・・・?」
キツく冷たい言葉の後とは思えない程、透子の声には優しさと愛情が溢れているように聞こえた。苦痛の合間に垣間見た透子の表情は、俺の事を心配して不安に満ちている。
そんな顔を、させたく無いんだ・・・。
背中をさする透子の手が、程良い強さで上下する。早くも無く遅くも無いその動きに合わせて、俺の呼吸が徐々に整って行く。
その透子の行動を見て、俺は『ああ・・・』と納得した。納得すると共に強く実感した。
俺には透子が必要なんだ、と。
透子が俺の為に手を差し伸べてくれる。心配してくれている。その事実が、強く俺を安心させてくれた。
「透子・・・」
咳と吐気が治り、呼吸がしやすくなる。不足分を取り戻すように早いペースで肺に酸素を取り込みながら、俺は透子の顔を見た。そこから不安はまだ消えていない。俺の事を心配してくれている。
俺は透子の頬に触れた。熱を帯びた俺の手には、透子の頬は冷たく感じた。それでいて柔らかく張りがあり、やはりずっと触れていたいと思ってしまう。
透子の目が俺を見る。近距離で見つめ合うと、世界が俺と透子の2人だけの物になる。この唇にキスを落としたのは何年前になるだろうか。あの時、唇を離すと透子はすぐに逃げてしまった。
昔の事を思い出しながら、頬に触れていた手を唇に移動させる。指先が触れると、唇はやはり冷たかった。
透子の肩が震えた。
俺はそのまま手を透子の頭の後ろ側に回す。サラリとした透子の髪の感触を感じながら、俺は目を細めて透子に顔を近付けた。
透子が俺の胸を押して、跳ねるように後ろへと逃げた。
「ねえ、聞いてた?私、和樹の彼女じゃ無いんだって」
透子の声が震える。自身を守る様に肩を抱いて俺から距離を取る。
頭が痛い。体が熱を帯びてフワリと浮くような感覚がする。胃のムカつきが全身に巡って、じっとしているのが苦痛だ。
フラつく体に鞭を打つようにして俺はベッドから立ち上がった。
「どうしてキスなんてしようとするの?やめてよ」
言いながら透子が下がって行く。ゆっくりと近付く俺から逃げるみたいに下がり続けて、とうとう部屋の壁にぶつかった。
透子の方へと進む俺との距離が詰まり、目の前まで迫る。透子は両腕を上げて顔を守る様にして目を瞑り、少しでも俺から離れようとするみたいに顔を横に背けた。
俺は透子の腕を掴むと更に上に上げて、頭上の壁に押し付けた。
「透子、目を開けて・・・」
頭痛と吐気は止まらない。目眩もする。目がよく見えない。
透子の顔をよく見る為に、俺は顔を近付けた。
透子が目をゆっくりと開ける。顔は逸らしたままで目だけがこちらを見る。
「透子、一緒に暮らそう・・・」
お願いだ。側に居てくれ・・・。俺から離れて行かないでくれ・・・。
「・・・嫌、だってば・・・」
透子の声が震え始める。体も小刻みに震える。
怖がらせている。それは理解出来た。理解していても、寒がっているようにしか見えなかった・・・。
寒い、のか・・・。だからこんなに、腕が冷たい・・・。体も冷たく冷えているに違いない・・・。
「・・・透子・・・」
名前を呼ぶと、透子の体の震えは激しくなった。
大丈夫、温めてあげるよ・・・。
俺は、透子の体を抱き込んだ。細く冷たい体はガクガクと震えていて、その上逃れようと暴れた。
「やめて、離して!私は和樹の彼女じゃない。結婚もしない。一緒にも暮らさない。これ以上こんな事をするなら、もう2度と会わない!」
・・・。
俺は、目を見開いて透子を見た。同時に体から力が抜けた。その場に膝から崩れ落ちる。
透子が居なくなってしまう。どうしたらいい・・・。どうすれば透子はここに居てくれるのだろう・・・。
ここじゃない場所に行ったら、こんなに可愛いのだ、他の男が放っては置かない筈だ。すぐに誰かに捕まってしまう。そしてそいつの物になってしまう。そんな事は、あってはならない。絶対にダメだ。
俺以外の誰かと一緒になっても、透子は幸せにはなれない筈だ。今まで俺だけを見て、俺の為だけに生きて来たのだから。俺から離れて嫌な思いをするのは透子自身なのに。そんなの、可哀想過ぎるだろ。ならば、いっそ・・・。
窓辺のカラスが大きな声で「カァ」と鳴いた。同時にバサバサと羽を広げて羽ばたいた。
カラスに急かされるようにして、気が付いたら俺は、透子の首を締めていた・・・。床の上に仰向けに倒れ込んだ透子の上に馬乗りになって、上からグッと力を込めていた。透子の細い首を締めながら、俺は、なるべく透子の体に傷が付かないようにと細心の注意を払っていた。なるべく痣が出来ないように。切り傷や擦り傷が出来ないように。細く冷たい首は、思ったよりも脆く、簡単に壊せそうだった。骨が折れて曲がってしまっては可哀想だ。可能な限り美しいまま、眠るように留めてあげたい・・・。
加減を間違えないように、ゆっくりと力を込めて行く。暴れていた手足が大人しくなり、最後に事切れる音が響いた。カクッと音がしたと思うと、急に静かになった。
カァ、とカラスの声が聞こえて我に帰ると、俺は床の上に正座をしていて、腕に透子を抱いていた。透子の体はさっきまでよりも更に冷たくて、そして重かった。
夢の様だった・・・。俺の腕の中に、透子が収まっている・・・。
その時、カラスの傍から、何か茶色い小さなモノが飛び込んできた。それが、俺の顔面にぶつかった。1匹のスズメだった。
スズメは、透子を抱く俺の腕に嘴を突き立てた。チクリと痛みが走る。途端に、視界がクリアになった。
カラスが大きな声で鳴いた。そしてもの凄い勢いで部屋の中に飛び込み、スズメを追い立てる。逃げるスズメ、追い掛けるカラス。逃げながらも、スズメは何度も俺の腕に嘴を突き立てて来た。痛みが走り、その都度視界がハッキリとして、意識も戻って行く・・・。
俺は、徐々に夢から覚めていく思いだった。頭痛が薄くなり、フワリと浮き立つような感覚が無くなり体が重くなって行く・・・。現実感が増す・・・。
腕の中に、透子が、居た・・・。
冷たくて、息をしていない・・・ように見える・・・。
記憶が蘇って行く・・・。透子の冷たい肌と、細くて脆い首、暴れる手足・・・。
その時、俺は思い出した。
永遠の別れは、突然やってくる、という事を・・・。
何事も無い普通の日常の中に、急にやって来るのだ。
トーマの時もそうだった。ミキの時もそうだ。
透子も、具合の悪い俺を見舞って訪ねて、そして、逝ってしまった・・・。
何の前触れも無く。
・・・いや、そうだっただろうか・・・。
スズメが強く腕に噛み付いた。痛みが俺の意識をクリアにする。俺は、透子を抱いたまま自分の手の平を見つめた。
この手で、透子の首を絞めたのではなかったか・・・?
思い付いた途端にその手が震えた。透子の細くて冷たい首の感触が甦る。身を捩り、酸素を求める度に感じる筋や気管の動き。
震えは肩に伝わり、胴体に移り、俺全部に広がった。
俺が、殺した・・・。
透子から手を放し、震えながら立ち上がった。透子の体が転がりながら床に落ちる。そして、まるで人形の様に動かないままそこに在る。
俺が、殺した・・・?
慌てて俺は透子を抱き起こした。ダラリと全く力の入っていない透子の体は重く、そして信じられない程に冷たかった。
俺の震えが透子に伝わり、2人で同調する様に震えた。
俺は叫んだ。けれども、夢の中で叫ぶが如く声にならず、代わりに涙と鼻水が流れ出た。
透子が居なくなってしまった。俺の所為だ。俺が、俺が・・・、
殺した。
衝動が走った。俺は、透子を床に横たわらせて、開いている窓に手を掛けた。そこから手を伸ばして屋根に登り、屋根の真ん中の1番高い所に登った。空は晴れ渡り、雲一つない快晴。一面の青の彼方から黒い点が迫って来ているのを横目に見ながら、坂道を駆け降りて勢いを付け、そのままそこから飛び出した。
強い風を体全体に感じた。