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突然、ピピっという電子音が聞こえた。何かと思って目を開けると、そこに待ち望んだ人が居た。
胸の辺りがザワザワとした。風邪の熱とは違う熱っぽいものが上がって行くのを感じる。今までの、一人きりという寂しさが消えていく。
「・・・あ・・・透子だ」
そう言った途端に、俺は盛大に咳き込んでしまった。咳き込みはしたものの、待ち望んだ人の名前を呼ぶだけで更に胸が熱くなる。
「熱も咳も酷いね。薬飲んだ?」
透子がそう聞いてくる。誰かが自分を気に掛けてくれるという事が、実はとても嬉しいものだという事を、俺は今初めて知った。
薬を飲んだのは、いつだっただろうか・・・。
考えても思い出せず、俺はとりあえず咳き込みながら頷いた。薬を飲んだか飲まないか、そんな事はどうでもいい。透子がそれを気にしてくれている。その事実だけで十分だ。
透子は、俺が頷いたのを確認すると、体温計を元に戻してから頭の下の氷枕に手を伸ばした。氷枕の温度を確認する。枕をいつから使って居るのかも思い出せない。でも、透子が気遣ってくれる。
・・・幸せだ・・・。
「枕変えようか」
そう言って、透子は立ちあがろうとした。
あ、透子が行ってしまう・・・。
俺は、透子の手首を掴んで引き留めた。
冷たい手だった。触れていて気持ちが良い。
「行かないで」
俺がそう言うと、透子は振り返って俺を見る。困ったようなその顔が、堪らなく愛しい。
「でも、枕もうあったかいよ?暑そうだし、冷たいのに変えようよ」
透子は言いながら俺の体を指差す。見てみると、スウェットの上が脇まで上がって来ていて、腹どころか胸まで露出していた。
脱いだ記憶は無いのだが・・・。
そう言えば、ウトウトとしている間に誰かにスウェットを捲られて、そして風を感じた気がする。団扇で優しく扇がれるような柔らかい風だった・・・。寝ている間に透子がしてくれたのだろうか・・・。
「あれ・・・透子が脱がしたの?」
「そんな訳無いでしょ!」
何故か大きな声で怒られてしまった。
自分で脱いだ記憶が無い以上、他の誰かがやったという事な訳なのだろう。そしてここに俺以外の人間は透子しか居ないのだから、やっぱり透子が脱がしたのではないのだろうか・・・。
・・・照れてるのか。
「・・・えっち」
裸を見られてどうという事は無かったが、やってないと言われてしまった状態で「ありがとう」と言うのも何だか変だな、と思い、俺はなんとなくそう呟いた。
言い方が悪かったようで、透子に腹を引っ叩かれてしまった。「イテッ」と思わず声が漏れて、掴んでいた透子の手を離してしまう。
手が離れた途端に、透子は素早くはだけたトレーナーを元に戻し、ついでに掛け布団も首まで被せてきた。そのまま俺の頭の下から暖かくなってしまった氷枕をシュッと音を立てて引き抜き、足音も荒く部屋から出て行ってしまった。キッチンで新しい物と交換してくれるのだろう。
怒っているような、照れ隠しのような、どちらとも取れるその様子すらも可愛く愛おしく思えてしまうのは、熱のせいなのだろうか・・・。
ふと横に視線を戯らすと、ベッドのすぐ傍に置かれた透子の鞄が目に入った。マグネットのボタンで留めるだけの鞄の口は開いていて、整然と詰め込まれた中身が覗いていた。財布、ポーチにハンドタオル。布製のポケットティッシュカバーは、小さい頃に姉さんが俺とお揃いで作ってくれたものだ。そして、内ポケットには鍵と携帯が見えた。
俺は何の躊躇も無く携帯に手を伸ばした。画面を軽くタップするとパスコードを入力して、LINEのアイコンをタップする。トーク画面が開き、その中の1番上を選択した。
友達の環という女子とのやり取りだった。『じゃあね』という言葉と手を振るスタンプで終わっている吹き出しを、遡って読んでいく。授業内容の質問から先生の愚痴、新しく買った服の話題から新しいコスメブランドの商品の事、ドラマのシーンについての感想などをスタンプを交えて話していた。恋愛の話は全く無く、男の話題と言えば、稀に雅彦の寝癖やら目付きの悪さやらを軽くディスっている程度。
そんなやり取りを見て、俺は大きな安堵を感じた。
一度だけ浮気をして以来、透子の周りには男の影は無い。やはりしっかりと反省していて、今後はもう同じ過ちは犯さないように本人も注意深く行動をしているに違いない。
遡った内容が、以前にチェックした部分に達した所で透子が戻って来た。
熱のせいでボンヤリとした頭に、新しい氷枕の冷気を感じる。透子の手が俺の頭を持ち上げて氷枕を差し込んでくれた。
と、そのままの姿勢で透子が固まった。
息を飲む音が聞こえる。
「・・・」
刹那、透子が無言で俺からスマホを奪い取った。そのまま俺の顔を見る、いや、強く睨む気配を感じて俺も透子の顔を見た。
「・・・」
お互いに無言のままで見つめ合う。透子の表情は、俺を睨んだまま、驚きと少しの怒りに満ち溢れているようにみえた。
「・・・勝手に、見ないで・・・」
空気を多く含んだ、それでいて小さい、蚊の鳴くような声で、透子は俺にそう言った。
ああ、見られたくなかったのだな。
俺はただそう思った。
「和樹見て見て!スマホ買ってもらったよ!」
そう言って俺に1番に新しい携帯を見せてくれた事を思い出す。使い方の分からない機能を教えてあげて、色んな設定もしてあげた。初めてのLINEの相手は姉さんで、俺と姉さんと透子と3人で頭をくっ付けて送り合った。
「和樹分かんないー」「ねえねえ見て見て!」
そんな風に毎日俺に自分から携帯を見せて来ていたのに、今ではもう、見られる事を嫌がるようになっていたのか。
それは成長なのだろう。寂しい気持ちもするが、いつまでも子供のままではないのだから仕方のない事だ。
「どうして勝手に見るの?やめてよ、他人に見られたら、嫌な気分になるじゃない・・・」
透子の表情は泣きそうになっていた。
他人・・・、そして嫌な気分、か・・・。
透子、俺は『他人』なのか?俺にとって透子は『大切な家族』で、幼い頃からの『婚約者』同士で、何者にも変えられないただ1人の『愛しい人』なのに。透子は、全て『自分』と『他人』とで区別するのか?『自分』以外はみんな等しく『他人』なのか?
ねぇ透子、そこに『俺』という別枠を作ってくれよ。『他人』なんて肩書きで、全部一括りにしないでくれ。
「透子・・・」
俺は透子の名を呼んで、腕を掴んだ。柔らかい腕、強く掴んだら壊れてしまいそうだ。それでいて冷たく、吸い付いて来るようなキメの細かい肌質を感じる。
ずっと、触れていたい・・・。
透子を見詰めながら、俺はそう思った。
携帯を見る事が許されないのなら、俺はどうしたら良いのだ。どうやって透子を知れば良いのか・・・。
信じていないわけではない。でも『もしかしたら?』という不安が常に付き纏う。そのままにしておけば、その不安は膨らみ続けて大きくなり、俺を飲み込んでしまうだろう。そんな事は、嫌だ。
ならば・・・。
「・・・高校卒業したら、ここで一緒に暮らそう・・・」
泣きそうな表情のままの透子に向かって、俺はそう言った。
離れているから不安なのだ。見えないから、分からないから、良くない事を想像してしまう。ならば一緒にいれば良い。共に起き、共に寝て、共に食事をすれば良いのだ。
ここで2人の、いや2人きりの時間を過ごす。それは素晴らしい事だ。
俺は、その時の事を想像して、体が浮き上がるような感覚を味わった。
しかしながら、そう思うのは俺の方だけだったようだ。
「何、言ってるの・・・?」
透子は、困惑した様な表情でそう呟いた。
俺の発した言葉の意味を掴みかねる、いや、信じられないとでもいうような表情だ。返す言葉が見つからない、だから口籠もってしまった。そんな風に静かになる。
その時、開けられていたベッド脇の小窓の外から、バサバサと鳥の羽ばたく音が響いた。黒い影がそこに現れる。
見ると、あのカラスだった。
「あ・・・また来てくれたの・・・?」
俺は、カラスを見てそう言った。
「こいつ、最近よくうちに来るんだ。最初は気味悪いと思ったけどさ、特に何もしないし、よく見たら綺麗な目してるんだよ」
カラスは、さっきまで居なかった透子に気を使うかのように、部屋の中には入らずに窓の縁に止まっている。そんなカラスの様子に、俺は『このカラスは普通のカラスよりも頭が良いのかも知れない』と思い始めていた。
カラスの目が、俺に何かを訴える様にキラリと光った。
俺は、その光を俺への励ましと受け取った。カラスも、俺が透子と共にこの家で暮らし、心安らかな日々を送る事を応援してくれている、と感じた。
俺はカラスに向かって少し微笑み、そして透子に向き直った。
「俺、心配なんだよ。透子が側に居ない時、誰と何してるのか、気になって仕方が無いんだ・・・」
そう、俺は透子が見えないと胸がざわついて仕方がない。心の焦りが消えない。不安が大きくなって、収拾がつかなくなってしまう。
また、あの時のような事が起こるのではないかという不安が。
「だからって、人のスマホ見ないでよ」
透子の声が尖り始める。空気を含んでカスカスとしていた声に、しっかりとした芯が加わる。
「透子、ずっと側にいてよ・・・」
そうだ。ずっと側に居て欲しい。そうすれば、俺は携帯を見たりなんかしない。だって、そんな必要は無いのだから。
俺は、言いながら反対側の手も伸ばし、両方の手の平で透子の腕を包むようにした。俺の手の温度で透子の腕が熱くなっていく。
「まず、謝って。勝手にスマホ見た事を」
透子が、上擦った声でそう言った。追い詰められた小動物の様に少し震えた声だ。
もう少しだ・・・。
俺はそう思った。もう少しで、透子がずっと側にいてくれる。
「謝ったら、一緒に暮らしてくれる?」
そんな事で良いのならば、俺はいくらでも謝るよ。透子、ずっと側に居て。ずっと、俺の目の届く所に居て、そして笑っていて欲しい。
縋るように透子を見上げながら、俺はそう聞いた。
しかし・・・。
「何でそうなるの?私、和樹と2人では暮らさない」
透子の口から出て来たのは、明確な拒絶の言葉だった。凛として迷いの無い、強い調子の声。聞き間違いや、勘違いなんて言わせない、そんな意思を強く感じる言葉。
・・・どうして・・。
「何で、そんな事言うの・・・?」
もう少しだった筈なのに。何が透子にそんな事を言わせているの?
自然と手に力が入る。それに伴って俺の手が熱くなる。あまり力を込めてしまっては、透子が痛がる。分かっているのに止められない、上手くコントロール出来ない。俺は必死に、その力が透子の腕に伝わらないように、自分の両手だけに収まるように堪えた。肩から腕全体が震える。
腹立たしい・・・。
透子の顔色が、みるみる青ざめて行くのが分かった。透子は、俺に怯えていた。でも、決して逃げ出さない。目を逸らさずに、俺の目を見続けた。
その時、カラスの声が響いた。割と大きな声で『カァ』と鳴く。
瞬間、俺の中の怒りがスッと冷めた。
第三者の存在を感じた所為なのか、自分の事を何故か客観的な目で見る事が出来たのだ。
肩から、腕から力が抜ける。再び、透子の腕の柔らかさを感じられた。
「・・・謝って・・・」
透子は俺に、小さな声でもう一度謝罪を求めた。
「・・・ゴメン・・・」
気付いたら、俺も小声で謝っていた。
謝って、そして透子の腕から手を離した。重力に従って腕は下に降りる。
透子は、解放された腕で携帯を鞄の中に戻し、一階から持って来たであろう冷たい経口補水液のゼリー飲料を俺の顔に当ててきた。
そして「もう2度と、勝手に見ないで」と、同じく小声で要求して来た。
「・・・うん、分かった」
俺は、素直にそう言ってゼリー飲料を受け取った。口を開けて一口飲む。舌の上を通って腹に流れ落ちるのを感じながら蓋を閉めた。
「・・・不味い・・・」
ゼリー飲料の味も、この状況も・・・。
そのまま仰向けに天井を見上げていると、聞きたくない言葉が耳に入り込んできた。
「和樹、私は和樹の恋人では無いんだよ」
・・・え・・・?
カラスが、もう一度『カァ』と鳴いた。