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春になり、透子は高校生になった。希望した学校は近隣の公立校で、そこそこ偏差値も高く、あまり頭の出来の良く無い透子には難しいかと思ったのだが、透子本人が友人の「環」と同じ所に行きたい、と、かなり無理をして頑張った。
俺も少し勉強(というか受験のコツ程度だが)を教えた。その甲斐もあってか、無事に合格する事が出来て良かった。
徒歩で通える便利さから、学校帰りにうちにモデルとして通うのも楽になり、俺と一緒に過ごす時間も増えた。実に喜ばしい事だ。
そして、入学して一月を過ぎた頃だった。
俺は朝から、何となく怠く体が重かった。季節の変わり目で体調を崩していたのかも知れない。けれども、期限のある校内のコンクールに出す為の絵を描かなくてはならなかった。
そろそろ取り掛からなければ間に合わない。なので、不安はあっのだが、透子には体調の事は隠して、来てもらっていた。
「へぇ、何か不思議だね」
デッサンを始めると、透子が不思議な話をしてきた。昨日の夕方に、カラスに追われたスズメを保護したものの、手当てをして一晩明けたら居なくなっていたと言うのだ。
正直スズメなんてどうでも良かったが、透子の声を聞きながら作業を進めるのは、微熱を帯びた体に心地良かった。
透子は皮張りのソファーの上で、ミキの中学のセーラー服姿(このセーラー服姿の透子を描くのが、俺は1番楽しかった)で、気怠く背もたれに寄りかかって庭を眺めている。リラックスした姿は自然で、今にも眠ってしまいそうな無防備な感じが凄く良い。
「パンとジュースが消えたのは奇妙な事だけどさ、スズメが完治して出て行ったと考えるならば悪い話じゃ無いんじゃない?」
透子は鳥が好きなのだろうか。携帯の待ち受けも相変わらず鳥だ。ミキは虫が好きだったな。
「まあ、そうなんだけどね」
どことなく不満そうに透子は言った。一晩だけではなく、もっと長く鳥と一緒に居たかったのかも知れない。
「それにアレだ。スズメは家で飼うには問題があるし。野鳥でしょう?」
野鳥は飼ってはいけないのだが、透子の事だから知らない可能性が高い。そのまま飼うつもりでいたのかもと思い、念の為俺はそう言っておいた。
「飼うつもりは無かったよ。ただお医者さんに観てもらって、大丈夫だったら放とうと」
俺の疑問にムキになって答える透子。
その時、それまでは動かずにじっとしていた腕がズレた。丁度描いていたラインが崩れてしまう。
「あ、動かないで」
俺の声に、透子は小声で謝りながら腕を戻した。
そんな可愛い透子の様子を見ながら、俺は少し目眩を感じた。同時に視界が霞む。せっかく透子が直した腕のラインがよく見えない。
描いているうちに調子が出て来るかと思ったのだが、どうやらそうは行かないようだ。
「ああ、ダメだ。今日は調子出ないや」
俺はそう言ってコンテを置いて、透子の側まで歩いて行った。そして、ポーズをとったままの透子に背中から抱きつく。透子は庭を見てぼんやりしていたので、何の苦もなく捕まえられた。
体が重い。
俺はそのまま体重を預けるようにした。
「ちょっとやめてよ」
突然でビックリしたのだろう。透子は少し大きな声でそう言った。振り解こうと小さく暴れたが、俺が少し力を入れただけで難無く押さえられてしまう。
「少しくらい良いじゃん。充電させて」
俺はそう言って目を閉じた。透子がジタバタとする度に甘い香りが鼻をくすぐる。良い匂いだ。
「せっかく俺の好みのセーラー服姿なんだからさ、暫くこのまま・・・」
耳元でそう言いながら、更に腕に力を込めた。透子から熱を感じないのは、俺自身が熱いせいだろうか。
暑い・・・。怠い・・・。息が上がってくる・・・。
「和樹大丈夫?熱あるでしょ」
透子は、普通じゃない俺の様子に気付いたのか、顔だけを俺に向けてそう言った。
その目は心配そうで、俺に対する思いが込められている。
「やっぱりそう思う?もう死んじゃうかも」
俺は、透子を背後からハグして押さえるだけでかなり疲れてしまった。透子を堪能するのを諦めて体から力を抜く。拘束が緩んで透子はサッと身を引いた。風が通って一瞬寒気を感じる。
透子の体が逃げてしまって支えを無くした俺の体は、重力に引き摺られるままにソファの上に倒れ込んだ。
ああ、ダメだ・・・。
「はいはい、なら薬飲んで寝ましょうね」
頭上から透子の声が降って来る。さっきの心配そうな目からは想像出来ないようなドライな声だ。
「言い方が冷たい。酷い彼女だ」
俺はうつ伏せのままでそう言った。顔を上げるのもしんどい。
「彼女じゃないし」
透子はドライな調子のままでそう言った。
わざと冷たく言い放って、俺を奮い立たそうとしているのか・・・?
「薬どこ?」
俺はそのまま角の棚を指差した。
透子が離れて行く気配がして、しばらく静かになった。と、直ぐに透子の足音が戻って来て、グラスに汲んだ水で、俺に薬を飲ませてくれた。
水は冷たく、とても美味しかった。
全て飲み干すと、体を起こすだけの元気が出た。けれども、やはり熱が高いようで目が回る。
透子は非力ながらも懸命に、俺に肩を貸してベッドまで連れて行ってくれた。おまけにサイドボードに俺のスマホを置いてくれる。
階段を登るだけで酷く消耗した。俺はベッドの上にうつ伏せに倒れ込んだまま動けなくなってしまう。先程までコンテを持って、透子を描いていたとは思えない状態だった。
「後でお母さんに来てもらうから。何かあったら連絡してね」
透子はそう言って、俺に掛け布団を掛けてくれた。ついでにいつの間に持ってきたのか、オデコに冷えピタも貼り付ける。
ああ、透子が帰ってしまう・・・。
「一緒に寝てくれないの?」
俺は、透子を何とか引き留めたくてそう言った。
・・・側にいて欲しい・・・。
「そんな事する訳ないでしょ」
しかし、俺の願いは聞き遂げられず、透子はそう言い放ってから軽く掛け布団を叩き、家に帰ってしまった。
俺は、透子が貼ってくれた冷えピタに触れた。冷たくて気持ちが良い。
一緒に暮らしていれば、ずっと一緒に居られるのに・・・。