38
俺は、俺じゃない男と手を繋いで楽しそうにしている透子を見て、その男が、透子にとって単なる友人の域を超えている事を知り、激しく嫉妬した。俺しか知らないと思っていた透子の手の柔らかさと、側にいると感じる甘い良い香りと、そして何よりも透子の笑顔を向けられて楽しく過ごす2人きりの世界を、俺ではない、その見ず知らずの男が手に入れているという事実が許せなかった。
俺が見ていない間に、知らない間に、透子は奪われていたのだ。
スカートを長いままにしておく程度では足りなかった。それはそうだ。スカートの長さがどうであろうと、透子が可愛い事に変わりはないのだから。とりあえず今回は相手の男はもう手を出しては来ないだろう。俺自身が痛い目に合わせたし、後の事は義兄さんにお願いしてある。恐らく早々に透子の前から消える筈だ。
問題は今後だ。
しばらくの間は心配無さそうだ。透子は深く反省している。食欲が落ちて痩せてしまったのは心配だが、姉さんが付いているから問題無いだろう。
流石に中学校に付いて行く訳には行かない。今まで通りにモデルとして家に通って貰いつつ、これまで好きにさせていた携帯での情報のやり取りをチェックしよう。それだけでもかなり俺の目の届かない学校での様子がつかめるはずだ。パスコードは既に分かっている。以前俺の前で解除しているのを見たから覚えている。
大丈夫だよ透子。変な男が近付かないように、俺が守ってあげるよ。
ドアのチャイムが鳴った。透子が来たのだ。
持っていたコンテを置いて、俺は玄関に行きドアを開けた。透子は俺を見上げて「お待たせ」と言って微笑んだ。大人びた優しい笑みだ。
あの事件以来、一時期痩せてしまっていた体重も戻ったようだ。痩けてしまった頬も、元通りにふっくらとしている。
「待ってたよ」
そう言って俺は、その頬を両手で包み込んだ。ああ、なんて柔らかいんだろう。
そして甘い香りが鼻に届く。俺は、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
透子が、俺の元に戻って来てくれて良かった。
もう、誰にも奪わせないよ。
頬から手を離し、そのまま背中に回して抱き締めようとすると、透子は俺の胸を押して、スルリと脇を抜けて家の中に上がり込んだ。
相変わらず恥ずかしがり屋だ。
俺は、少し笑って透子の後に続いて家の中に戻った。
リビングに入ると、俺は透子に紙袋を渡した。
「これ着て」
渡された紙袋を、透子は不思議そうな顔で開けて中身を取り出した。それは、透子の通う中学校の物とは別の学校のセーラー服だった。
「え?なにこれ」
面食らったように固まる透子。
「こっちの方が良くない?」
今透子が着ているセーラー服は、上下共に紺色の生地で、カラーの端に濃い緑のラインが入っている。スカーフもラインと同じ濃い緑だ。全体的に重い雰囲気があってあまり好きではなかった。
それに比べて今渡したものは、スカートは同じ紺色だが、裾の部分に白のラインが2本入っている。上は白をメインにカラーだけが紺色で、その縁にはスカートと同じように白いラインが2本。スカーフは赤だった。
「ザ、セーラー服って感じだね」
透子はそう言って苦笑いをする。
「そうだね」
俺は言いながら、透子の手から白いセーラー服を取り、広げて肩の部分に当てた。白いセーラー服は広がって、今着ている重い印象のセーラー服を隠し、白い方を着ているように見せた。
・・・ミキ・・・。
それは、ミキが通っていた中学校のセーラー服だった。
俺に恋焦がれ、苦しみながら死を選んだミキ。長い前髪で顔を隠したミキの姿が透子と重なる。
「これに着替えるの?」
言いながら透子は前髪を弄った。俺の頭の中で、ミキが前髪を払って耳に掛ける。現れた顔は透子で、その目は俺を見ている。熱っぽい、恋しい人を見る、潤んだ瞳で。
俺が頷くと、透子はセーラー服を持って2階に上がった。空いている部屋で着替えるのだろう。
その隙に俺は、透子の鞄の中から携帯を取り出した。タップしてパスコードを入力する。開く画面。待ち受けは、白い鳥のキャラクター。そのままLINEを開いて、新しくやり取りのあった部分をチェックする。殆どが友人の「環」とのやり取りだった。少しだけ雅彦との確認事項と、後は姉さんとの連絡のみ。浮気の形跡は無かった。
俺は携帯を元通りに戻して、デッサンの準備を始めた。
着替えて戻って来た透子を、あらかじめ用意してあった椅子に座らせる。長時間座っていても疲れないような、背もたれの付いたクッションの柔らかい椅子だ。角度を決めて、イーゼルごとキャンバスを移動させて、デッサンを始めた。
描き始めると少しして、学校であった事をポツリポツリと話し始める透子。俺は、相槌を打ちながらデッサンに集中した。目の前に透子がいる。目の前にミキがいる。2人の、俺に恋する女の子がいる。コンテが自然に動いた。描くものが明確で、完成を急いで手が止まらない。こんなに調子良くデッサンが進むのは、初めての事だった。
平和な日常が戻った。このまま、こんな日々が続くのだと思うと、体が浮かび上がるような幸福を感じた。
その日描き始めた絵は、過去1番の出来となり、許可してないのに山城さんが勝手にコンクールに出して特別賞を受賞する事になった。