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特別支援学校に転入してから半年が経った。PCのディスプレイには、2人の人間が映っている。先生と、もう1人は下ネタを言わない方の男子生徒だ。
俺と仲の良い方の男子生徒は、ここ1週間は姿を見せていない。授業に出ないどころか、LINEも全く反応が無かった。あまり具合が良くないのかも知れない。
残り1人の女子に至っては、ひと月程見ていない。ほぼ話す事も無かったが、居ないとなると少し気に掛かってしまう。
「トーマは、移植してから無菌病棟に移ったんだ」
ディスプレイの向こうで男子生徒が言った。トーマと言うのが下ネタ男子の名前だった。
「移植の日に病棟中の看護師に見送られて行ってしまってからは、僕も会っていない。隣のベッドが空いて静かになってしまったよ」
そう言ったその男子生徒も、その3日後に退院して、入院前まで通っていた中学校に再び戻った。
生徒は俺1人になった。
「俺1人に、教科毎に1人ずつ先生が付くなんて、贅沢ですね」
「1人でも、しっかり指導しますよ」
先生はそう言って、複雑そうな表情をした。
思えばそれまでの授業の際、どの先生もそんな複雑そうな表情をしていた。何故そんな表情だったのか、それからしばらくして俺は知る事になる。
トーマの葬式の案内状が、家に届いたのだ。
喪服姿の姉さんと、前の中学の制服を着た俺が告別式の会場の門をくぐった時、特別支援学校の先生達が丁度入れ違いで帰るところだった。特に言葉も無く、簡単な会釈と、仲の良い先生達に肩や頭を軽く叩かれてそのまま別れた。
焼香の時にトーマの写真を見上げた。ディスプレイの中で見た姿より少し幼く、歯を見せて笑った顔のトーマがそこに居た。
焼香を終えて横に行くと、喪主であるトーマの父親と、その横に時折り授業のディスプレイに映り込んでいたトーマの母親が並んで立っていた。
「来てくれてありがとう」
父親の方からそう声を掛けられた。
2人共トーマと似ていた。俺は、もう一度写真を振り返って「良い写真ですね」と言った。
あの笑顔を俺は何度も見た。あのまま口が動き出して、そこから大声で下ネタを吐き出してきそうに見える。それを聞き流して授業を進める先生の顔が頭に浮かぶ程だ。
俺の中では、まだトーマは死んでいないみたいだ。
すぐこの前だ。「じゃあな」「またな」と声を掛け合って、別れてそのままだ。「じゃあな」「またな」の後には、続きがあるものだろうが。次の予定なんか決めなくても、すぐに交流の持てる関係だっただろう?こんなに急に、永遠のお別れが来るなんて、誰からも聞いていないぞ。いい加減にしろアホが。
そう、誰かに悪態を吐きたくても、誰にも言うことが出来ない。このまま告別式は滞り無く進み、定刻通りに全てが終わってしまう。俺の、初めて出来た『友達』が、この世から居なくなってしまう。
何もかも受け入れられないままで、気が付いたら俺は自分の部屋に居た。電源の入っていないディスプレイの前で、ただ座っていた。無心のままでスケッチブックを取り出す。脳裏に浮かぶトーマの遺影。少し幼いトーマの顔の時を進める。しっかりと生え揃った髪の毛、痩せ過ぎていない首筋、浮腫のない面立ち。発病前のその時から、そのまま時を過ごせていたら・・・。日に焼けて浅黒い肌、健康的な中学1年生を、半年とちょっと過ごしたトーマが目の前に浮かび上がって行く。
気付くと、窓から朝日が差し込んでいた。6Bの濃い芯で描いたモノクロのトーマ。現実には有り得ないその姿を、そのまま封筒に入れて、俺はトーマの家に送った。
俺なりの別れの挨拶だった。
何日かして、トーマの両親がうちに来た。姉さんに呼ばれてリビングに降りていくと、2人は座っていたソファから立ち上がって俺の元に歩み寄り、手を握って「ありがとう」と言って涙を流した。
俺の贈った絵は、描く事によって俺自身の心を慰めてくれたが、トーマの両親の心にも響いたようだった。
そんな事があってからひと月も経たないうちに、再び家に葬式の案内状が届いた。それは、姿を見せなくなっていた女子生徒の葬式の案内状だった。
正直驚いたし、理解が追いつかなくもあった。彼女は重い病では無かったはずだ。
では何故?
理由は少し考えてから直ぐに浮かんだ。
自死ではないのか?と。
会場は、最寄りの駅から乗り換え無く3駅の所にあった。姉さんに何度も仕事を休ませるのも悪く思い、場所も近い事から俺は1人で参列した。
大きな会場を借りるのではなく、女子生徒の自宅で行われていた葬儀は小規模で、とてもひっそりと内輪だけで済まされようとしていた。今回は特別支援学校の先生達と顔を合わせる事も無かった。
ついこの前だ。同じように黒い人の列に並び、前の人に習って焼香をしたのは。ゆっくりと進む列、見えてくる白い花に囲まれた笑顔の写真。見上げた写真は、やはりディスプレイの中の彼女よりも少し幼く見える。
・・・同じじゃないか。この前と・・・。
こんなにも簡単に、永遠の別れはやって来るものだったのだろうか。
「もしかして、三島君ですか?」
焼香を済ませ手を合わせて、写真を見上げている時に声を掛けられた。
「ミキの母です」
ミキ、そう。そんな名前だった。ろくに名前さえ呼んだ事が無かった。
「突然ゴメンなさい。今日は来てくれてありがとう。良かったら、少し話せますか?」
別室に通されて、ミキの母親から一冊のノートを受け取った。
「ミキの日記です。三島君の事が書かれているページを、読んでもらえたらと思って・・・」
ミキの母親は、俺の横に立ってノートを開いた。ペラペラと何枚かめくり、止まったところは、俺が転入した日付が書かれたページだった。
『今日、転入生が来た。私と同じ、入院患者では無い子。同じ様に前の学校で何かあったのかな?名前は三島君。三島和樹君だ。でも私と違って、何でもハッキリ言える子だ。見た目も変じゃない。と言うか凄くカッコいい。こんなカッコいい男の子が学校に通えなくなるなんて、何があったんだろう。もし、仲良くなれたら、お互い何があったのか話せるといいな』
『今日も冬馬君はうるさかった。でも、三島君が笑っていたから、いつもより嫌じゃなかった。三島君が笑ってるのを見ると、何だか楽しい気分になる。先生も楽しそうだ。明日も授業を受けられそう』
『今日は、三島君と私と先生の3人だけだった。先生が忘れ物をした時、三島君と2人きりになった。ドキドキした。少しだけ三島君と話せた。どうしよう、嬉しい』
・・・。
3日分読んで、俺は顔を上げてミキの母親の顔を見た。
ミキの母親は、ノートの文字を愛おしそうに見ながらページをめくった。
『三島君は、言葉がキツイ。ちょっと怖い。でも真面目だ。もしかしたら、いじめた側なのかな?とも思ったけど、違う気がする。いじめた子を助けて、巻き込まれたのかな?だったらカッコいいな。もし私と同じ中学校だったら、私の事も助けてくれたのかな?』
『今日は授業で、先生に好きな物を聞かれた。冬馬君は『女』と答えた。相変わらず最低だ。松野君は『肉』だった。今は好きな物を食べる事が出来ないみたいだから、早く良くなって食べられたらいいと思う。私がもし好きな物を食べられない日が来たら、と考えていたら、先生に私の好きな物は?と聞かれて、咄嗟に『虫』と答えてしまった。昨日『天道虫』という歌を聞いて、少し虫について検索したところだったから、うっかりそう言ってしまった。冬馬君と松野君は嫌そうな顔をした。「マジかよ」と引かれた。また、やってしまった。急に聞かれると、私は変な事を口にしてしまう。また、ここでも皆んなに嫌われてしまうのかも知れない。顔を上げられなくなった。でもその時、三島君が「虫って綺麗だよね。無駄がないし」と言った。私の答えをフォローしてくれた。すごく嬉しくて、顔を上げて三島君を見た。画面の三島君も私を見てくれた。蔑むでも無く、嫌がるでも無く、普通の顔で。初めて目が合った。今日は記念日だ。三島君の好きな物は『姪』だった。時々、三島君の画面に小さな女の子が映って来る事があったから、多分その子だろう。その子にとって三島君は、優しい叔父さんに違いない。姪御さんが羨ましい』