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「和樹、元気ない?」
学校に通わなくなり、家でボーっとしていると、よく透子が横に来て話しかけてきた。透子は小1になった。通い始めて間もない小学校での時間は短く、透子も家に居ることが多かったのだ。
「・・・」
大体、俺は無視するか、黙って話を聞いていた。つまり殆ど反応しなかった。
透子は、学校であった事や雅彦の事、よく分からない事や、絶対嘘だろというような事、ある事ない事様々な事を止め処なく話し続けた。
それらの話を、俺はただひたすら聞き流し続けていた。
「元気になるようにおまじないしてあげるよ」
その時はそう言って、俺の腕に自分の短い腕を絡めて来た。小さな子供に独特の高い体温を感じつつ、何かと思って待っていてみると、透子は俺の頬に軽くキスをしてきた。
年中から始まった恋人ごっこ、いや婚約者ごっこはまだ継続していて、事ある毎に透子は俺の頬にチュッチュとキスをしてきた。
俺は、戸惑う気持ちを抱きつつも、とりあえず『小さい姉さん』だと思ってそれを許していた。
「元気出た?」
低い位置からそう聞いて首を傾げる透子は可愛く、文句無く自慢の姪だった。けれども、頬にキスをされたくらいで急に元気になる訳もなく、小さく息を吐いて俺は眉をひそめてしまった。
学校に行かなくなってから、2週間程経っただろうか。俺の保護者である姉さんと幸也さんは、俺の為に転校を考えてくれていて、転校先の学校を何校かピックアップしていた。ちょっと離れた所の私立がいくつかと、訳あって学校に通えない子供の為の特別支援学校等だった。
中学は卒業しなければならない、という事は理解出来ていた。そのまま今の中学にいる事も出来るのだが、それだと恐らくまた同じような事が起こる気がする。転校すれば、そんなことは無いと分かっていても『負けた』或いは『逃げた』という印象を否めない。
同じ事を繰り返すのも、負けるのも逃げるのも嫌だった。2人の保護者が俺の為に気を割いて動いてくれているのも分かっていた。あまり時間を掛けるのも悪い。どうしたものか、と悩み続けて、ただ時間だけが過ぎて行く。堂々巡りの思考が頭の中を占め続ける。
表には出さないようにしていたが、俺は内心焦りと苛立ちとを抱え込んでいて、ピリピリしていたのだと思う。そんな不安定な気持ちの時に、すぐ横で能天気にごっこ遊びをしている透子が鬱陶しくもあり、羨ましくもあった。それでその時は、少し焦らせてやろうという意地悪な感情が芽生えてしまったのだ。
俺は、透子の小さな顎に指を掛け、上を向かせるとその唇に自分の唇を重ねた。
いつも何の反応もしない俺が、急に動いて自分の方を向いたので少し驚いたのだろう。透子は傾げた首を戻して俺の顔をポカンと見つめ直した所だった。そこに俺からキスをして来たものだから更に驚いたに違いない。唇が触れ合った途端に、透子の肩が震えるのが分かった。
俺自身は、何度かキスをした事があった。小五くらいから、同じクラスの女子達に個別に、人気のない所に呼び出されて、して欲しいとせがまれたのだ。
彼女達の反応は皆大体同じで、どんなに大胆に誘う子も、控え目にお願いする子も、唇を合わせるとまず肩を震わせた。それが喜びなのか驚きなのかは分からない。その後、体から力が抜けて、身を委ねてくる。
何度か中に舌を入れた事もあった。その場合は更に力が抜けて、ひどい時には自力で立って居られない子もいた。
だから、唇を離した後は、体を支えたまま相手の目をしっかりと見て、そのまま手を離しても大丈夫かどうか確認しなければならない。大概、閉じた目を再び開き、視線を合わせると、相手の瞳はフルフルと細かく揺れ動く。お互いの呼吸の音だけがやたらと大きく聞こえる中で、その揺れる瞳を見るのが、俺は嫌いではなかった。
透子の唇は、体に比例して小さく、俺の唇の半分程の大きさに感じた。それでも肩の震えと、柔らかい感触はしっかりとあって、小さいながらも確かなキスだった。
その時は流石に舌は入れずに、そっと透子の唇を解放した。ゆっくり目を開けると、透子は目を大きく見開いたまま固まっていた。
こいつ、ずっと目開けてこのまま固まってたのか。
そう思ったら腹の底から笑いが上がって来て、ちょっと吹き出してしまった。
吹き出した俺を見ると、透子の顔はみるみる紅く染まった。悔しそうに一度キュッと目を瞑ると、俺の腕をするりと抜け出して、一心不乱に駆け出した。リビングからキッチンへと向かう途中でそこに居た人に驚き一瞬止まって、そして大きく避けてキッチンに逃げ込んだ。
俺は、透子を目で追ってそこに居た人を視界に収める。と、半笑いだった顔が引き攣り、冷や汗が吹き出してくるのを感じた。
そこには、幸也さんが立っていた。
俺はガタンと音を立てて立ち上がり、両方の手の平を前に出してバリケードを作って「待ってくれ」という意思表示をした。
「違うんだ幸也さん、これは、透子の方から・・・」
「分かっているよ、最初から見てたからね」
幸也さんは、そう言いながら自分でも片手の手の平を前に出して「君の方こそ待ちたまえ」とでも言うかのようにアピールした。そのまま俺の方にゆっくり近付いてくる。
最初って、どこからだ・・・。
俺はそう思いながら唾を飲み込んだ。殴られるかも知れないと身構える。
「透子が僕より君に懐いているのは良く知っているし、いつもベタベタチュッチュと透子の方からしているのも知っているよ。でもね、だからと言って」
そこまで言った時、幸也さんは俺の目の前に居た。前に出した俺の手に幸也さんの胸がぶつかる。スーツの上からでもしっかりと鍛えられているのが分かった。
まずい、幸也さんの間合いの内だ。
そう思った瞬間、目にも止まらぬスピードで幸也さんの腕が俺の首を締めた。そして、反対側の手で俺の頬をつねり上げる。そこは、透子がチュッチュしてきた所だった。
「だからと言って、責任の取れないことはするな!」
耳元で怒鳴られた。首を締める腕の力は強く、頬をつねる手の力も劣らず強い。外そうとしてもびくともせず、俺はされるがままで、涙目でハイと答えて必死に誤った。
その後、俺は都内の特別支援学校へと転校する事に決めた。基本的には学校には行かず、オンラインで授業を受けて、なにかイベント事がある時に行きたければ行けば良い、という気軽な感じが良いと思ったのだ。
同じ学年の生徒は俺の他に3人いて、パソコンのディスプレイに先生とその3人の顔が映し出された。要は自分以外の4人が映し出される訳だ。その状態で授業を受ける。
3人の内訳は男子2人に女子1人。女子は俺と同じで学校に馴染めずにここに来たようだったが、男子2人は違っていた。2人とも長期入院をしていて、学校に通いたくても通えない子供だった。
その2人の男子のうちの1人と、俺は仲良くなった。特定の誰かと仲良くなるのは初めての事だった。
俺の転入初日の最初の授業の時、そいつの言動はかなりおかしかった。ずーっと大きな声で下ネタを言っていたのだ。だけど先生も特に強く注意をする事も無く、8割方スルーして、どうしてもうるさい時だけ静かにさせていた。
「何お前、酒でも飲んでるの?」
俺は、聞いてて面白かったのでそのまま見ていようかとも思ったのだが、あまりにも騒がしいのと、先生が段々可哀想に見えてきてしまったので(先生は若くて可愛い女の人だった)何とか黙らせようと思い、そう聞いてみた。
「今日は検査だったのよね、麻酔の後はいつもこうなっちゃうの。あまり気にしないでね」
先生はそう言った。後から詳しい説明を聞いた所、人にもよるらしいのだが、麻酔の効果が完全に切れるまでの半覚醒状態の時には、酔っ払った様な状態になるらしい。
確かにそいつは翌日普通だった。面白かったからLINE交換して授業以外の時も話してみたのだが、麻酔の後は下品全開で、そうじゃない時は下ネタは一切無く普通だった。そのギャップは激しかったが、どちらの時も非常にオープンな性格で俺とは気が合った。
俺は(暇だったから)毎日休む事なく出て真面目に勉強した。他の3人は来たり来なかったり。病院組2人は居てもグッタリしていたり、急に吐いたり、点滴の機会がピーっと鳴ったり、まぁほとんど居なかった。
女子も面倒なのか、或いは忙しいのか、あまり顔を出すことは無かった。見た感じ大人しく引っ込み思案で、人見知りの激しそうな感じだったから、画面越しとはいえ他人と顔を合わせるのが辛かったのかも知れない。
普通に勉強をする、ただそれだけの事が難しい奴も居るのだな、と俺は少し同情を覚えた。
そのうちに、毎月第一水曜日に行われるというイベントの日になり、俺は2人が入院している病院に出向いた。『最初の一回は一緒に行く』と言って姉さんも有休を取って着いて来た。(病院組の2人は調子が悪いらしく居らず、もう1人の女子は来なかった)
毎回、様々な団体からのボランティアがやって来て、その団体に固有の行事を指導、開催しているという話だった。小1から中3までの入院している子供達と、外部からの俺のような生徒とその保護者が対象で、その時はそれ以外の未就学の赤ん坊やらチビ達とその親も含め、かなりの人数がひとつの部屋に集まっていた。
その日は美術の特別授業で、画家の山城さんと言う人が来て、水彩画の指導をしてくれる日だった。点滴やら呼吸器に囲まれて身動きの取りにくい子供達の周りには、ボランティアの人が集まって補助をする。
部屋の真ん中にテーブルを置いて、その上に花の入った花瓶を置く。その周り360度にそれぞれが散らばって、好きな所から花を描いた。
俺はそれまで、学校の図工の時間くらいでしか絵を描いた事がなかったが、絵を描く事は嫌いじゃ無かった。元々人と話すのがあまり好きでは無かった俺は、誰に構うこともなく目の前の紙に線を描き、色を付け、手を動かせば動かすだけ絵が出来上がって行くその過程に苦痛を感じなかった。
花瓶の中の花は結構な量で、中には百合、ガーベラ、カーネーション、霞草、グラジオラスに緑の葉はアイビーか。ごちゃごちゃとしたその束は、始めたばかりの花屋の新人が作ったか、あるいは素人がただまとめただけなのだろうか。お世辞にも美しいとは思えない。
横では姉さんも、もらった紙に描いていた。
「こんなの、何年振りかしら」
懐かしみながら楽しそうに机、花瓶、そして花束をザックリと描いている。
皆んなが『花束』を描く中、俺はどうしてもその下手くそな『花束』を描く気にはなれず、その『花束』の中でひときわ目を引く大きなグラジオラスだけを描く事にした。上から下へと徐々に大きくなる花弁は薄い紫色で、1番上のまだ蕾のままの花弁が、これから美しく咲き誇るであろう透子と重なって見えた。
蕾が透子なら、その下の小さ目の綺麗な花弁が姉さんで、その下の大きいのが幸也さんだな。
想像しながら描いていると、背後を通りかかった画家の山城さんが立ち止まって見ていた。
「それは、大切な誰かなのかな?」
山城さんは、俺の絵をしばらく眺めてから、そう話し掛けてきた。
俺は少し驚いた。側から見たら、単に『花』を描いているだけにしか見えないだろうに、『大切な誰か』と言い当てられたからだ。
山城さんの声に反応して、姉さんが俺の描きかけの絵を見た。
「透子と、私とユキ?」
花弁をひとつずつ指差しながら、全てを言い当てる。
俺は更に驚いた。
「なんでバレたの?」
手を休めて2人の顔を順番に見る。
「んー、何でだろうね」
姉さんはそう言って俺の絵を見続けた。
「とても丁寧に、大切に描いているから。君、良いね。ずっと見ていたくなるよ」
山城さんもそのまま俺の絵を見続けた。
そんな姉さんと山城さんの様子に気付いた他の生徒やチビ達も、俺の背後に回り込んで絵を見た。続いて親達も見に来る。それぞれが、自分の絵を描きながら、筆休めに俺の絵を見に来て、何でだか分からないが、俺はその絵を描いている間中、ずっと誰かに鑑賞され続けた。
ヒソヒソと静かに耳打ちする声が聞こえる中で、俺は描き辛いなと思いながらもマイペースに絵の具で色を付け、全員の中で1番最初に描き終えた。描き終わると、拍手が巻き起こった。
描き終わった絵は、院内でそのまま乾かし、ひと月程外来の展示コーナーに飾った後に返還するという事だった。
けれども俺の絵はそのまま帰ってくる事は無く、額に入れられて、総合案内のすぐ横の1番人目に付く所に飾られる事になる。
そして、山城さんに気に入られた俺は、その後山城さんに絵を教えてもらう事になる。彼のアトリエで基礎から画法を教わり、美術の道へと進む事になるのだった。
「ユキがさ」
イベントの帰り、運転する車の中で、助手席に座る俺に向かって姉さんが言った。
「和樹が自分の事を名前で呼ぶんだって言ってるの」
『幸也さん』、確かに俺は幸也さんの事を名前で『さん』付けで呼んでいる。それは俺が物心着いた頃からの呼び方で、姉さんと幸也さんが結婚をする前も後も変わっていない。
「『僕の事、まだ家族として思ってくれてないのかな』って。私はそんな事ないと思ってたんだけどさ。今日の和樹の絵を見てハッキリとした」
信号が赤になり、車がゆっくりと停止する。姉さんは助手席の俺を見た。
「ユキの事、『家族の名前』で呼んであげてくれない?」
そう言って首を傾げる姉さんは、優しい柔らかい表情をしていた。透子の笑顔とは違う、また別の綺麗な笑顔。
姉さんは変わった。あの日の笑顔とは違う笑顔を浮かべるようになった。いや、これからも変わって行くのだろう。歳を重ねて、年月を重ねて。人は日々、変わっていくのだ。
幸也さんも、透子も変わって行く。そして俺も。
以降、俺は幸也さんの事を『義兄さん』と呼ぶ事になった。