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アスフール  作者: まゐ
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 大きなお腹に手を当てると、中から何かが俺の手を蹴ってきた。


「あ、今動いたね」


 姉さんはそう言って、俺の手の上に自分の手を添えて微笑む。その表情はとても幸せそうで、顔を見ているだけなのに暖かいと温度を感じてしまう。


 俺が6歳の時だ。


 大好きな姉さんのお腹の中に、新しい命がやって来た。姉さんは24歳、幸也さんと結婚して2年目の事だった。


 産まれるのはもうすぐ。少し前から姉さんは仕事を休んで、俺と一緒に過ごしてくれている。俺と姉さんとの時間が増えたのは、この新しい命のおかげだった。


「姉さん、産まれたらまた仕事するの?」


「しばらくはお休みして、赤ちゃんのお世話になると思うよ。半年くらいかな」


 姉さんとずっと一緒にいられるのが、俺は嬉しかった。産まれたら、姉さんと一緒に、新しい命のお世話をして、日々楽しく過ごせるのだろうと思った。だから、新しい命の事を好きになった。


 その時は。


 新しい命は、女の子だった。俺の姪。名前は『透子』になった。


 透子は、手の掛かる子だった。昼夜問わずよく泣き、あまり寝ず、抱っこをせがみ、ベッドに降ろすとすぐに泣いた。ミルクも飲まず、母乳を飲むのも下手くそで、全然大きくならなかった。


 産んで1週間で退院して来た姉さんと透子は、定期的に2人で病院に戻り、何泊かして戻ってくるという日々が続いた。家には、俺と幸也さんの2人きりの日が多くなり、食事は姉さんが居ても居なくても、外食か店屋物、コンビニの弁当ばかりになった。


 家に居る時の姉さんは、常に透子に掛かり切りで、そしていつも怒っていた。透子が産まれる前の、見ているだけで暖かかった笑顔は、影も形も無く消え失せた。笑顔だけでは無い。艶やかで美しかった髪は、パサついて所々うねり、常に後ろでひとつに括られた。柔らかく良い匂いのしていた肌は、カサカサで触れる気にもなれず、綺麗に整えられていた爪は短く切られ、手指はささくれ立って、触ると固く痛かった。


 姉さんは、変わってしまった。


 そのうちに俺は、小学校が終わったら家には帰らず学童に行き、幸也さんが迎えに来たら帰って弁当を食べ、そして翌朝小学校に行くという、味気ない日々を送る事になっていた。それでも、正直家にいる時よりも学童にいる時の方が気持ちは楽だった。同じような境遇の子供が何人かいたからかも知れない。自分と同じように、日々我慢をしている仲間が居ると思うと、重たい足が少し軽くなったような気がした。


 透子が産まれる前の、温かい姉さんの笑顔に照らさせて、近い未来に迎えるであろうと楽しみにしていた日々は、来なかった。


 俺は、透子の事が嫌いになった。


 


 半年が過ぎると、姉さんは少しずつ仕事に復帰した。それに比例して、少しずつ綺麗に戻って行った。透子も少しずつ大きくなり、歯が生えて物が食べられるようになって来ると成長は加速した。しかし、姉さんの暖かい笑顔は一向に戻らなかった。


 そんなある日の事だった。


 透子は4歳、俺は10歳になった。


「ねえ、和樹は透子のお兄ちゃんじゃないよね?」


 拙い喋り方で透子がそう聞いてきた。幼稚園の年中になり、言葉が増えて、横にいると常に喋っているようになっていた。


「うん」


 俺は、まだ透子の事を嫌っていた。どうしても、透子が姉さんから笑顔を奪ったようにしか考える事が出来なかったのだ。


 話しかけられても素っ気なく答えて、早目に離れるようにしていた。


 だからその時も、早く話を切り上げる事しか考えて無かった。半分以上聞き流して、適当に答えていた。


「じゃあ、何で一緒のお家なの?」


「透子のお母さんが、俺の姉さんだから」


 俺がいつも姉さんの事を『姉さん』と呼んでいるのに、よく分かっていなかったらしい。確かに家族の形としては、珍しい形だとは思う。苗字も俺だけ違う。


「ふーん」


 説明されても、透子はよく分かっていなそうに見えた。


「じゃあ、透子と和樹は結婚出来るの?」


 突然、そんなことを聞かれた。俺は、質問の意図を理解出来ずに固まってしまった。


「・・・え?」


「お兄ちゃんじゃなかったら、結婚出来るよね?」


「・・・知らない・・・」


 知らなかった。そんな事、10歳の俺は考えたことも無かった。


「ならさ、和樹は透子の彼氏ね!」


「・・・は?!」


 繋がらない展開で話が進んで行くのはいつもの事だった。でも今回のこれは、流石に驚いたし、何言ってんだと思った。


 お前の所為で姉さんは前みたいに笑えなくなったんだぞ。何でそんなヤツを彼女にしなきゃならないんだ、と、叔父と姪の関係以前に、自分の感情が前に立った。しかも年中だ。


 俺は透子の顔を睨んだ。


 が・・・。


 その時の透子の顔を見て、俺は動けなくなってしまった。


 あの日の姉さんの顔がそこにあったのだ。


 あの日、4年前の、透子がまだ姉さんのお腹の中に居た頃の、俺の手をお腹の中から蹴って来た透子を、一緒に支えようと笑った温かい笑顔が。


 俺はそれまで、透子の顔をあまり見ないようにしていた。無意識にだったのだろう。嫌いなヤツの顔は見たく無かったのだ。


 だから、その時実に久しぶりに透子の顔をまともに見た。その顔は、紛れもなく姉さんにそっくりで、娘なのだから当たり前なのだが、目の丸さ、鼻の形、小さな耳も姉さんの物をそのまま小さく縮めてそこに付けたかのような錯覚を起こさせた。


 透子は、あの日の姉さんの生まれ変わりだったのだ。


 何も言わずに固まってしまった俺の手を勝手に握り、低い位置から見上げるようにニコニコと笑う透子は、実に楽しそうで、幸せそうに見えた。


 その透子の笑顔を、他でもない俺が作っているという事実に、俺は酔った。


「和樹、大きくなったら透子と結婚してね」


 その日から、俺は透子の彼氏、というか婚約者になった。




 中学に入って最初のテストで、俺は学年2位になった。理由は分からない。そんなに難しいとは感じなかった。小学校まではテストで順位を付けることはなかったので気付かなかっただけで、元々勉強は出来る方だったのだろう。ほとんどの教科で2位になり、数学だけが1位だった。


 同じクラスに、学年1位のヤツがいた。全部の教科で1位を取りたかったのだろうか、数学だけ俺に負けた事にいちゃもんを付けてきた。そして、カンニングをしたのだ、と周囲に言いふらした。


 俺は、実際にカンニングをしていないし、周りが勝手に言っている事だから、気にせずに放っておいた。それが悪い方に働いたのだろう。気付いたら、俺はクラスからハブられていた。


 何だったのかは覚えていない。何かの理由でそいつと2人になった時に、俺はそいつから馬鹿にされた。内容も覚えちゃいない。記憶に残らない程にくだらない事だった。


 ただ、イラッとしたから、そいつの顔を殴った事は覚えている。


 小学校の時もよく喧嘩はしていた。殴り殴られ、呼び出され怒鳴られ、そんな事は俺にとっては当たり前の事だった。けれど、そいつにとっては、当たり前では無かったみたいだ。


 そいつはそれを先生に言いつけ、親まで呼び出して大問題に仕立て上げた。たかが1発殴っただけで、だ。


 相手の親が収まらないから、姉さんが呼び出された。そいつとその親と、俺と姉さんと、担任と教頭の6人で話し合い、結局テストの結果でデマを振り撒くのも、殴るのもどっちも悪いと言うことになり両成敗となった。


 けれども。


 そいつの親が最後に捨て台詞みたいに言った。


「親のいない子はこれだから・・・」


 どう言う意味だよ。


 うっかりポロっと漏れてしまった。そんな感じだったが、俺はカチンと来た。負け惜しみでデマを流されてハブられた事よりも、謎に馬鹿にされた事よりも、よっぽど腹が立った。


 だから俺は、そいつの親を殴った。右から顔を殴り、続けて反対からも殴り、胸倉を掴んで睨んだところで担任と教頭に引き剥がされた。そいつとそいつの親はぎゃーぎゃーと喚き、姉さんは天を仰いで俺の頬を引っ叩いた。


 その日から俺は、学校には行かなくなった。

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