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和樹の家に着いた事をLINEで伝えると、起きるのが辛いから入って来てと返事が来た。和樹の家の合鍵は、我が家の玄関にいつも置いてある。持ってきたその合鍵でドアを開けて、私は通い慣れた和樹の家に入った。
入ったその一瞬だけ、背中の左側に違和感を感じたけれども、一瞬だけだったので、そのまま気にせずに、そしてすぐ忘れてしまった。
「和樹、来たよ」
手洗いうがいをして、寝室を覗く。掛け布団から半分以上体を出した状態で和樹が寝ている。着ているスウェットも、裾は左右膝上まで上がっていて、トレーナーは胸まではだけてしまっている。一体いつ鍛えているのかは分からないが、引き締まった腹筋と胸筋が丸見えだった。
暑いのかな・・・?
とりあえず私は側まで行ってしゃがみ、和樹のおでこに手を当ててみる。確かに熱い。すぐ横のサイドテーブルに体温計が置いてあるのを見付けると、丁度はだけているトレーナーのお腹の方から脇の下に突っ込んだ。
脇毛があるけど、男の人って脇で体温測れるのかな・・・。
そんな疑問が浮かんだものの、そのまま測ってみると、38.2℃もある。もしかしたら、本当はもっと高いのかも知れないけれども、高熱な事には変わりなさそうだ。
「あ、透子だ」
体温計のピピっという音で気付いて、和樹が目を開ける。私の名前を呼んだ途端に咳き込んでしまう。
「熱も咳も酷いね。薬飲んだ?」
そう聞くと、和樹は咽せながらも頷いた。
体温計を元に戻してから和樹の頭の下の氷枕に触ってみる。いつから使っているのかは分からないが、和樹の体温と同じく熱く感じられた。このままじゃ意味が無い。
「枕変えようか」
言って立ちあがろうとすると、和樹の手が私の手首を掴んだ。
熱い手だ。
「行かないで」
和樹は、熱っぽい潤んだ目で私を見てきた。
「でも、枕もうあったかいよ?暑そうだし、冷たいのに変えようよ」
私は、掴まれていない方の手で和樹のお腹を指差した。そこで和樹は、自分が半裸状態な事に気付いたようだ。
「あれ・・・透子が脱がしたの?」
「そんな訳無いでしょ!」
否定する声が大きくなってしまった。
「・・・えっち」
小声でそう言う和樹にちょっとイラっとした私は、和樹のその露わになったお腹を引っ叩いた。「イテッ」と言って和樹が手を離した隙にはだけたトレーナーをしっかりと着せて、掛け布団を勢い良く掛け直して、枕を引っこ抜いてキッチンへと向かった。
冷凍庫の中には、恐らくお母さんが買って入れたであろう大量の冷凍食品と、カレーやらミートソースなどの作り置きがジップロックに入れられて綺麗に収納されていた。その奥に、氷枕が5個縦にしまわれている。
・・・多いな。お母さん用意しすぎ・・・。
冷えた氷枕を取り出して、代わりに使って柔らかくなった氷枕を、一度除菌ウェットティッシュで拭いてからしまった。
ついでに冷蔵庫も開けてみる。中に経口補水液のゼリー飲料があったので、一つ待って戻る。
和樹は、大人しく掛け布団を被ったままで、スマホを見ていた。枕が無くなった分頭が低くなっていて、少し体制が辛そうだけども、そのまま何の変わりもないかのように振る舞っている。その様子が、先程私に枕を引っこ抜かれた事への小さな反抗心の表れのように感じてしまうのは、決して気の所為では無いだろう。
フェイスタオルで巻いて冷たさを緩和した氷枕を和樹の頭に近付ける。和樹の反応が無いので、そっと和樹の頭の下に手を入れて少し持ち上げた。そして氷枕を和樹の頭の下に入れ込んだ時、スマホの画面がチラッと見える。それは、よく見慣れた私のスマホの画面で、環とのLINEのページで、日常的なやり取りと可愛いスタンプの投げ合いで、特に見られてどうこうというものでも無いのだが、だからと言って自分以外の誰かが勝手に見ても、私の心が平穏なままでいられるかと言ったら、決してそうでは無い訳で・・・。
「・・・」
私は、無言でスマホを奪い取った。そのまま和樹の顔を見る。和樹も私の顔を見た。
「・・・」
和樹も何も言わない。何の感情も見えない表情で、ただ半開きの口元から漏れる荒い呼吸から、発熱の苦しみだけが見て取れた。
「・・・勝手に、見ないで・・・」
蚊の鳴くような声で、私は和樹にそう言った。
明日、私は和樹の家に来て、その時に先輩から届いたLINEを勝手に見られるのだ。そして、興奮した和樹に手を掴まれて、文字通りに高く吊し上げられた。
その事を思い出す。その時の感情の乱れと、怖さが甦って、そして今現在の怒りと困惑とが混ざり合う。
「どうして勝手に見るの?やめてよ、他人に見られたら、嫌な気分になるじゃない・・・」
前は言えなかった言葉を吐き出す。
前は、庭に面した窓を、恐らくアスさんがコツコツと叩いて音を鳴らし、それに気を取られた和樹が私を掴んだ手を離し、我を取り戻した。
・・・そして私は、それをそのまま、流した・・・。
和樹の熱が上がって具合が悪くなって、だからその所為だという事にして。
具合が悪いから、薬を飲んで眠ったら元通り。大丈夫、この位なら私は我慢出来る・・・。そう思って、そのままにした。
多分、それは間違っていた。だから・・・結局2年前と同じ事を繰り返す事になったのだ。
このままにしたら、ずっと同じだ。同じ事を繰り返してしまう。
「透子・・・」
和樹が私の名前を呼んだ。そして、手を伸ばして私の腕を掴む。強くでは無い。やんわりとぶら下がるように。甘えるように。
その手は熱くて、効かない解熱剤が憎らしく思えてしまう。熱があるから、咳が出るからというだけで、和樹に対して庇護欲が湧いて来る。
風邪の所為で弱っているという事だけで、許してしまいそうになる自分がいた。また今度でいいと、先送りにしそうになる。でも、それではダメなんだ。今言わないと・・・。
「・・・高校卒業したら、ここで一緒に暮らそう・・・」
熱に浮かされたまま、和樹はそう言った。
「何、言ってるの・・・?」
私がそう言った時、開けられていたベッド脇の小窓の外から、バサバサと鳥の羽ばたく音が響いた。黒い影がそこに現れる。
大きなカラスだった。
私は驚いて目を見開いた。
何で、何でここにカラスが・・・。
「あ・・・また来てくれたの・・・?」
和樹が私からカラスに視線を移してそう言った。
「こいつ、最近よくうちに来るんだ。最初は気味悪いと思ったけどさ、特に何もしないし、よく見たら綺麗な目してるんだよ」
和樹がそう説明する横で、カラスは首を傾げたり、翼を繕ったりしている。とても寛いだ様子で、開け放たれた窓から部屋の中へは全く入って来ようとはしなかった。
ミヤマさん・・・なのだろうか。それとも、もう1人の女性の方だろうか・・・。
「俺、心配なんだよ。透子が側に居ない時、誰と何してるのか、気になって仕方が無いんだ・・・」
私に視線を戻して、和樹はそう言った。
「だからって、人のスマホ見ないでよ」
誤りもしない。悪い事をしたとは思ってないんだ。
「透子、ずっと側にいてよ・・・」
言いながら反対側の手も伸ばしてくる。両方の手の平で腕を包むようにしてきた。和樹の熱い手の平で、私の腕も熱くなって行く。
「まず、謝って。勝手にスマホ見た事を」
自覚して、私の嫌がる事をしているって事を。
「謝ったら、一緒に暮らしてくれる?」
「何でそうなるの?私、和樹と2人では暮らさない」
全然聞いてくれない。和樹と私は、見ている方向がズレているみたいだ。和樹にとっっては、私のスマホを見る事は、当たり前の事なのだろうか。だとしたら、まずそこから、考えを改めてもらいたい。
「何で、そんな事言うの・・・?」
その言葉と共に、和樹の手の力が強くなった。何かが逆鱗に触れてしまったのか、和樹の手の温度も上がる。熱い。
怖い・・・。
変わった声色に恐怖を覚える。
でも、逃げちゃダメだ・・・。ここで引いたら、この先もっと怖い事になる。私はそれを知っている。
その時、カラスの声が響いた。割と大きな声で『カァ』と鳴く。そのお陰か、ヒートアップし掛けていた和樹の手の力が少し弱くなった。弱くなったお陰で、私の心に余裕が生まれて、少し勇気が出る。
「・・・謝って・・・」
私は和樹にもう一度謝罪を求めた。
「・・・ゴメン・・・」
小声の私の願いに、和樹も同じくらいの小声で答えてくれた。
和樹の両手が、私の腕から外れた。私は、スマホを鞄の中に戻して、そして冷蔵庫から持ってきた、冷えた経口補水液のゼリー飲料を和樹の顔に当てた。
「もう2度と、勝手に見ないで」
「・・・うん、分かった」
和樹の了承の答えに、私は息を吐いて安堵した。
和樹は、ゼリー飲料の口を開けてひと口飲む。そして、蓋を閉めると「不味い」と小声で呟いた。その目は天井を見詰めていて、私の方には向かない。
「和樹、私は和樹の恋人では無いんだよ」
ちゃんと話そうと思った。今だけじゃなくて、何回も繰り返し伝えて行かなくてはならないと思った。
カラスが、もう一度『カァ』と鳴いた。