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アスフール  作者: まゐ
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「ただいま」


 鍵を開けて、誰も居ない家の中に向かって帰宅の挨拶をした。お母さんはまだ帰ってきていないみたいだ。


 寂しい・・・。


 シンとした屋内。帰るのが途中から1人になってしまった事も相まって、寂しさが増す。


 私は、洗面所で手を洗い、うがいをしてから2階の自分の部屋へと上がった。


 鞄を床に置いて、制服のブレザーを脱ぎ、襟元のリボンを外してハンガーに掛ける。ルームウェアを取り出した所で急に着替えるのが面倒になり、そのままベッドに飛び込んだ。


 ああ面倒くさい。


 面倒くささと共に、頭の中を占めるのはさっきの雅彦との事。


 習慣って、恐ろしい・・・。


 雅彦との付き合いの期間は、6年を超える。初めて腕を組んだのは、付き合い始めて最初のデートの時だった。


 アスさんを和樹が刺して、先輩が留学してしまったショックから抜けきれず、何を見ても、何をしても、何も感じなかったあの頃。雅彦は私を海に誘ってくれた。


 水着を着るにはまだ早い時期だったので、私達は砂浜に座って波を眺めた。ただただ、寄せては帰る波を見ているだけだったのだけれども、一度として同じ形にはならない波打ち際の砂の動きや、時折りやって来る蟹や、それを狙う海鳥や小さな子供の夢中な姿を見ているだけで、私の心は癒された。


 昼過ぎから夕方までずっと座っていて、雅彦のお腹の音が鳴った事をキッカケに、そのゆっくりな時間は打ち切りとなったのだが、先に立ち上がった雅彦が私の手を取り立たせてくれて、そのまま自分の腕に私を掴まらせてくれたのだ。


「お腹空いちゃったの?」


 そう聞く私に「うん」と答え、「大きな音だったね」と言ったのにも「うん」と雅彦は答えた。


 特に、何のイベントも、何の事件も無かったけれども、強いて言えば、それは初めて私が雅彦の腕に掴まって歩いた記念日。足を取られて歩きにくい砂浜も、雅彦に掴まっているだけで安定してスムーズに歩く事が出来た。


 それを、雅彦がどう思っているのかは分からない。でも私にとっては、そこそこ大切な意味を持った出来事だった。


 だというのに・・・。


 以降、雅彦の腕に掴まって歩くという事は、当たり前の行為になっていった。雅彦が私の手を引っ張って掴まらせる事もあれば、私からの時も。自然と、日常的にしていた事なのだ。


 私には当たり前の事でも、今の雅彦には『初めて』な訳で、その大切な『初めて』があんな不意打ちみたいな感じになってしまった事が、私を落ち込ませて、なんとなく苛立たせていた。


 雅彦の赤くなった耳。無表情な雅彦から見て取れる、数少ない感情の乱れのひとつ。


 ・・・悪い事しちゃったのかな・・・。


 そう思って、うつ伏せの状態で首を持ち上げた時、耳元で突然「チチッ」という音がした。目を閉じて、そのまま寝てやろうかと思っていた私の怠惰な気持ちを吹き飛ばす。


「え、何?」


 私は驚いて、体を起こしてベッドから飛び退いた。床に尻餅を着いた私の上に、小さな鳥の羽ばたくバサバサという音と共に掛け布団が降ってくる。最近は暑くなってきたので、夏掛けの薄い羽毛布団だ。


「えっえっ、わぁ!」


 無意識に頭を庇った。その腕の上にフワリと掛け布団が掛かる。掛かった掛け布団の上から、優しく圧力が掛かった。外にいる誰かが、掛け布団の中に入っている人が、どんな体勢でいるのかを確認しているみたいに。


 私の腕を確かめ、頭と顔を確かめて、そしてフワリと包み込まれる感じがする。一種ギュッとされたかと思うと、背中側から掛け布団が捲られて、私は外の世界に出た。


「みーつけた」


 目の前に、アスさんのドアップがあった。楽しそうにクスクスと笑っている。長いまつ毛とブラウンの瞳、目尻の小さな泣きぼくろ。そして深く刻まれた笑い皺。


「!」


 な、な、な、何で、何でアスさんが私の部屋に!?


 いつもと同じ茶系のお洒落なスーツ姿だけど、ジャケットは脱いでいつの間にか私の勉強机の上に簡単に畳んで置かれている。揃いの帽子もその上に。帰宅時には気付かなかった。


 ジャケットの下のベストはとてもスタイリッシュで、よく見ると全面に細かな刺繍が施されている。その下のシャツも、繊細で上質な糸で丁寧に作られているのが素人目でも分かった。柔らかな素材で、その下にあるアスさんの体のラインが見て取れる。


 この腕に昨日運ばれて・・・って私何を考えてるの。そうじゃなくて。


 戸惑う私の前で、アスさんは満面の笑みを浮かべている。


「ここは天国です。部屋中透子さんの匂いでいっぱいで、布団も暖かくて、助けて頂いた日を思い出していたらついウトウトとしてしまいました。危うく潰されてしまうところでしたよ」


 楽しそうに説明してくれるアスさん。私の匂いとか、ちょっと怖い事を言っているけれど、問題はそこじゃ無い。


「な、何でアスさんが、私の部屋にいるんですか?」


 しかも、布団の上から一瞬ギュッとされた。


 アスさんは楽しそうな笑顔のままで、一度目を丸く見開き、瞬いて目を細めて更に優しい笑顔になって言った。


「昨日、家に入るのを許されましたので」


 私は昨日の事を思い出す。


『中までお運びしてもよろしいですか?』


 熱が上がって立ち上がれなくなってしまった私に、そう聞いてきたアスさん。私は頷いて返事をしたのだけれども、もしかしたらあの事だろうか・・・。


 そう言えば、前はミヤマさんも勝手に部屋に入ってきた。お父さんの荷物の置き引きを奥さんと偽装して、家に招待されたその日から毎晩、だ。


 それは、この人達の勝手な『ルール』なのかも知れない。


「あの時は高熱の所為で立ち上がるのも困難で、だから中まで運んで下さいと言っただけです。毎日、好きな時に部屋に入っても良いって言った覚えはないんですが・・・」


 私がそう言うと、アスさんは少し眉毛を下げて、悲しそうな表情になる。


 分かってくれたのだろうか。


「ですが、()()姿()()()()許されたならば、もうその場所へは、自由に入れるのです」


 アスさんは、ずっと持っていた掛け布団から手を離して、私の両腕をやんわりと掴んで、言い聞かせるようにそう言った。その手はやっぱりヒンヤリと冷たい。


 なんか、話が通じてない気がする。前のミヤマさんみたいに、今度はアスさんが毎晩部屋に現れるような気がしてならない。ミヤマさんと違ってアスさんの事は怖くは無いが、だからと言って毎晩急に部屋に現れたら、私の心臓が持たない。


 どうしたものかと考えていると、アスさんは「お嫌ですか?」と聞いてきた。


 嫌です!


 私は力一杯頷いた。


 すると、アスさんは何か閃いたように言った。


「ではこうしましょう。部屋に入るのは、透子さんが部屋に居る時だけ、と限定します」


 ちょっとズレてる・・・。


「私が居る時でも、勝手に入って来ちゃダメですよ」


 私はそう言い返した。


「では、私はこの部屋に入ってはいけない、ということですか?」


 アスさんの眉毛が更に下がる。私は、それが叱られた犬のようで、段々と可哀想になってきてしまった。本当は、異性と部屋の中で2人きりになるのは嫌だったのだけれども、少し譲歩してしまう。


「入る前に、ノックして下さい。それで、私が入っても良いかどうかを伝えますので、良いと言ったら入って大丈夫ですよ」


 ドアを指差しながらそう言った。当たり前の事だと思うのだけれども、どうもこの人達は、普通の人と常識がズレている気がする。


「こっちでも、いいですか?」


 アスさんは、私がドアを指した手を自分の手で優しく掴んで、そのまま窓の方を指すように方向を変える。


「窓からですか・・・?」


「はい。こちらの木の入り口ですと、一度下の入り口を通らなければなりませんので」


 ・・・。


 段々と考えるのが面倒になってきてしまった。なので、頷いてしまった。


「でも、絶対に勝手に入らないで下さいね」


 項垂れた私とは対照的に、再び浮上するアスさん。


 そんな彼を見て、私はアスさんに言わなければいけない事を思い出した。


「あの、アスさん。えと、上手く伝わるか分かりませんが、私以外の人から見た私の外見を変えてますよね?それを、元に戻して貰えませんか?」


 それを聞いて、アスさんはパチパチと瞬きを繰り返す。


「どうしてですか?と言うか良く気が付きましたね。自身では見ても変わらないはずなのに」


「・・・勝手な事しないで下さいよ!普通、自分の知らない所で他人に自分の見た目を変えられたら、嫌な気分になります!」


「えっと、ですが、普通綺麗に見られれば、嬉しい物なのでは・・・、今まで皆さん大変喜ばれていましたが・・・」


 皆さんって、誰よ。


「他の人は知らないけど、私は嫌です。元に戻して下さい!戻してくれないのなら、私の部屋への立ち入りを禁止します!」


「!」


 アスさんは驚きの表情を浮かべて一瞬固まり、そして頷いた。


 と、その時。私の鞄の中で携帯が鳴った。


「出てもいいですか?」


 一応確認する。


 頷くアスさんを横目に、私は携帯を取り出して画面を見る。和樹からだった。


『透子久しぶり、どう、熱下がった?』


 ああ、前と同じ台詞だ。


 前は久しぶりと言う程時間が開いてないと思ったのだけれども、今聞く和樹の声は、本当に久しぶりだった。


 少し若い和樹の声は、高い熱の所為で苦しそうに聞こえる。確かこの時以来、和樹は高熱を出した事は無い。もう少し待てば下がる熱だとは分かっていても、痛々しくて胸が苦しくなってしまう。


 前は、風邪を感染された事に対してひどく苛立っていたというのに・・・。


 自分の心情の変化が不思議だった。


「心配してくれてありがとう。私はもう熱下がったよ。和樹はまだまだ高そうだね。大丈夫?」


『心配してくれるの?嬉しいなぁ』


 帰ってくる声は吐息混じり。電話口では伝わって来ないはずの、その呼吸の熱さを感じてしまう。


『ねぇ、熱下がったなら、来てよ。透子の顔が見たい』


 そうだった。私はこの時和樹に来て欲しいと言われるのだった。前の時は、脚を怪我していて行けなかった。でも今は、怪我も無く元気。行けない私に代わって様子を見に行ってくれたお母さんもいない。


「うん、行くよ。何か欲しい物ある?持って行くよ」


 私は、何の迷いも無くそう答えた。向こう側で和樹が笑ったのが分かった。


『何も要らないよ。透子が来てくれれば』


 その時だった。和樹の声に重なって、何かの音が聞こえてきた。バサバサと、衣擦れのような、シーツに擦れて風が起るような音だ。


 私の耳にその音が届いた途端に、私の部屋の温度が少し下がった気がした。背筋がゾクっとする。


 え、っと思って顔を上げると、部屋の中からアスさんの姿が消えていた。閉まっていた筈の窓が細く開いて、そこから風が吹き込んでいる。


 アスさん・・・?


『透子、どうかした?』


「・・・ううん、何でもない。すぐ行くから、待っててね」


『ん』


 電話を切ると、私は窓を閉めて和樹の家へと向かった。


 アスさん、どこに行っちゃったんだろう・・・。

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