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何も無い。感じるのは地面の感触だけ。自分の姿さえも見えない。
すぐ側に何かがあるかも知れない。それは、触れるだけで痛いものかも知れない。熱いかも知れない。湿り気と粘りがあって、触れた所にまとわり付くかも知れない。それはとても不快かも知れない。
もしかしたら、という恐怖感で、私は微動だに出来ず、ただただじっとしていた。
ふと、風を感じた。匂いも、温度の違いも何も無い微風。続けて微かな音が聞こえた。大きな鳥がゆっくりと羽ばたき、すぐ側の地面に舞い降りた気配がする。
「・・・ああ・・・」
大きな鳥が舞い降りたと思われるそこから、声が聞こえてきた。人の声。人の、男性の声だった。
私は、その声を知っている、と思った。聞き覚えのある声。低くて少し怖い、昔聞いた事のある、あの声だ・・・。
「・・・7年弱、ですか・・・」
その声は続けた。そして、その声が聞こえる方とは180度反対側からも風を感じた。同じように大きな鳥の静かな羽ばたきと、降り立つ気配を感じる。
自分以外の存在が同じ空間に居るという事実が、私の中の『もしかしたら』という恐怖感を薄めた。何も見えないながらも、私は声の聞こえてくる方向に顔と体を向ける。
「透子さん、お礼を言いますよ。7年弱、安らかに過ごすことができました。ありがとうございます」
聞き覚えのある声がそう言うと、それに同調するように背後から静かなカラスの鳴き声が聞こえた。鳴き声から、不思議と感謝の感情が伝わってくる。
「ミヤマさん、ですか?」
私はそう聞いた。緊張で喉が乾いていた。私の声は掠れていて、喋ると喉に痛みを感じる。
そう、その声は昔聞いた、あの人のものと同じだった。
ミヤマさん。私のお父さんが家に招待をして以降、毎夜私の部屋に訪れて、不安な気持ちを植え付けては去って行った人。・・・いや、人ではなくて、カラス・・・。
少し間を開けて、周囲が明るくなる。光源が何処にあるかは分からない。ボンヤリと、自分の体と、そして正面にミヤマさんの姿が浮かび上がった。
真っ黒なスーツ。グラデーションのかかったレンズの眼鏡を掛けた、ちょっと怖い感じの人。スマートな長身で、やっぱり20代後半位に見える。あれから6年以上経っているのに、その姿は全く変わっていなかった。
パサリ、と羽ばたく音と、弱い風が背後から届いた。視線だけ動かして見ると、一羽のカラスがこちらを見ている。ミヤマさんの奥さんだろうか。
あの頃、奥さんのカラスは、もっとこう、敵意丸出しとでも言うような強い目で私を見ていた記憶がある。でも今のカラスの目からは、強さは全く感じない。何処かで見た事のあるような哀しそうな目をしていた。
どこで見たんだったか・・・。
ミヤマさんを改めて見る。そうだ。あの頃はミヤマさんも、もっと鋭い眼光で怖かった。けれども今は、奥さんのカラスと同じで哀しそうな目をしている。
姿形は変わっていなくても、雰囲気はかなり変わっていた。もう、怖いとは思わなかった。
「やはり残していましたか。アレは、どうにもこうにも、しぶとい」
自嘲的に笑いながら、ミヤマさんは横を向く。ゆっくりと何歩か歩くと、反対を向いてまた何歩か歩く。それをずっと繰り返した。
ミヤマさんが言う『アレ』とは、恐らくアスさんの事。あの日、ミヤマさんが落としたナイフで、和樹に背中を刺されて死んでしまった人。いや、人ではなく、スズメ・・・。
「飲み干したんですね。透子さん」
そう聞かれた。背後からは、返事を催促するように、優しく「カァ」と聞こえる。
これは、尋問なのだろうか・・・。
そう思って、私は身構えるように気持ちを引き締めた。
飲み干したか聞かれているのは、あの日にアスさんから受け取って、ずっと部屋の中に仕舞い込んでいた小瓶の中の液体の事なのだろう。
「教えてあげる・・・」
突然、女性の声が耳元で聞こえた。ビクッとなる私の両腕を、誰かが背後から優しく支えた。細っそりとした白い腕は柔らかく、美しく整えられたネイルは艶やかに光っている。触れた部分から感じる体温は、冷たい。
私と同じくらいの身長のとても綺麗な女性だった。ミヤマさんと同じような真っ黒の、女性用のノースリーブのスーツを着て、やはりグラデーションのかかったレンズの眼鏡を掛けている。20代後半くらいで、不自然に黒く染めたような髪は、強いウェーブで丸みを帯びたシルエットをしており、肩に掛かる程の長さに揃えられていた。三白眼の白目の部分には、星のように赤い点が飛び、その数はミヤマさんのものよりも遥かに数が多く見える。
「いいでしょう?だって、何も知らないんだもの。このまま放り出したら可哀想だわ」
そう言いながら、女性は私を背後から抱き締めてきた。冷たい体温で、私は冷やされていく。
「だから、貴女の口からも教えて。スズメに何をされたのかを」
しばらく、ミヤマさんと女性は見つめ合った。そして、ミヤマさんが溜め息を吐きながら私を見た。
「彼女が、全てを終わりにしてくれるといいのですが、ね・・・」
私は、何か『してはいけない事』をしてしまったのだろうか。ただ、やり直したいと思って、小瓶の中身を飲んだだけ、それだけなのに・・・。
「最初は、風邪を感染されて、それが治ったの」
口が、勝手に動いた。私は驚いて両手で口元を押さえる。
「次は、足に怪我をして、また治ったの」
また勝手に口が動く。
そう。熱は高く、怪我は酷い内出血だった。無意識のうちに、治った足を見つめる。
「アスさんから貰った、小さな小瓶の中に入った液体を飲んだら・・・治ったの・・・」
自分の意思とは別の力が、私に何があったのかを喋らせる。不思議な、奇跡のような出来事だった事を。
「それが、どういう事だか、分かる?」
女性が、私の耳元でそう囁く。
どういう事・・・。
3人の間に沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、女性の声だった。
「昔々あるところに、それは美しい娘がおりました・・・」
女性がそう言うと、私の目の前が明るく光り始めた。ミヤマさんがその光に近付き、右手を掲げて、人差し指で光の中を指す。すると、光の中に女の子の人形が現れた。毛糸で出来た金髪のお下げに、ピンク色のワンピースを着た可愛いお人形。
「1人の神様がその娘と恋に落ちて、2人の間には沢山の子供が産まれました」
女性の声に合わせて、ミヤマさんが手を動かす。光の中には、神様と思われる男の子の人形と、その子供達が現れる。子供の数は、1、2、3、4、5人。
「幸せに暮らしていた娘達。けれども、その娘の美しさに恋焦がれた神様がもう1人・・・」
もう一体、ピカピカに光る男の子の人形が現れた。
「もう1人の神様は、娘と恋をした神様になりすまして、娘を寝取りました・・・」
光る人形から光が消えると、先に出て来た男の子の人形とそっくりになって、女の子の人形と重なった。
「流石に娘は気付きました。でも・・・」
女の子の人形と重なったままの男の子の人形に光が戻る。なりすました姿から元に戻った光る男の子の人形。でも、そのまま2つの人形は離れない。
「娘は、2人目の神様を愛しました。そして、1人目の神様は2人目の神様に嫉妬し、戦いを挑みました」
光る男の子の人形と、普通の男の子の人形がぶつかり合う。
「1人目の神様は敗れ、勝った2人目の神様に自分の力を全て渡しました」
普通の男の子の人形が倒れた。倒れた人形のお腹から光のボールが飛び出す。飛び出した光のボールが、光る男の子の人形に向かって行く。
「と、そこに運悪く通り掛かったスズメが一匹・・・」
ミヤマさんがスーッと指で、上から斜めに一本線を描く。小さなスズメの人形が端から現れて、光のボールをすり抜けて反対側に消えて行った。
スズメ・・・。
「スズメは、1人目の神様の力の一部を、望まぬままに手に入れて、逃げてしまいました」
スズメって、アスさんの事・・・?
「焦った2人目の神様は、たまたますぐ側にいた鳥に命じます」
光る男の子の人形の前に、二羽のカラスの人形が現れる。
「『逃げたスズメを捕まえて力を取り戻しなさい。または、その力ごと、スズメを殺してしまいなさい。それが終わるその時まで、お前達は永遠にスズメを追い続けるのです』」
そこで、目の前から光と、その中にあった人形達がフッと消えて、何もなくなる。
「1人目の神様の力は『時の力』。時間の流れを自由に操る」
ミヤマさんがそう言いながら、私の鎖骨の真ん中を軽く指で押す。その指は、女性の腕と同じく冷たかった。
「熱に侵された臓器を、熱に侵される前に戻したり」
しゃがんで今度は私の脚に触れる。ヒヤリと冷たい感覚が襲う。
「傷付いた細胞を、傷付く前に戻す事も出来る」
立ち上がって屈み、顔を私に近付けた。
「アレは、恋した相手の為にだけ力を使う。恋した相手が幸せに暮らせるように、万人から愛されるように、その相手の、1番美しく、愛される時間を持ってきてそこで止める」
恋した相手・・・。
私を抱き締める女性の腕の力が強くなった。覆い被さるように、女性の顔がすぐ横に来る。今度は女性が口を開いた。
「だから、いつも争いが起こる。恋した相手を取り合って、周囲の人間がぶつかり合う。毎回そうなのよ」
女性は片方の腕を解いて、その手で私の頭を撫でた。
スズメ、アスさんが恋した相手の為に力を、使った・・・。その相手は、私・・・?
心の中に動揺が走った。
2羽のカラスに追われて、傷付いたスズメを助けた。手当をして、食べ物をあげて、冷たい体を暖めた・・・。
ミヤマさんが両手で私の頬を包み込んで、少し上を向かせた。目と目を合わせ、言い聞かせるようにゆっくりと喋る。
「透子さんの場合は、アレが手を付ける前から色々あったようですがね。でも、アレが来てから輪をかけてひどくなったと思いませんか?」
そうなのだろうか・・・。では、私の今のこの苦しみは、アスさんの所為なのだろうか・・・。
「だから、もう終わりにしたいんですよ。これは、透子さんの為でもあります。協力してくれませんか?」
そう言うミヤマさんの目は、やはり哀しそうに見えた。