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「透子さーん、綺麗ですよー」
フィッティングルームのカーテンを開け、私のサイズの低めのヒールのサンダルに両足を入れて、大きな鏡の前でドレスの長い裾を直してもらう。2人いるスタッフさんのうちの1人が、ベールを後ろに流しながらそう声を掛けてくれた。
「透子は何着ても似合うけど、鎖骨が綺麗だからそこは見せないとね」
付き添いの人用の椅子に座りながら環はそう言った。環は、私以上に私を知っていてくれている。どんな髪型が良いか、どんなメイクが似合うか、ドレスの形はどれが良いのか。もう、全て環にお任せだ。
「当日は、恐らくお胸とウエストのサイズが大きく変わっているかと思いますので、本日のご試着はドレスの形のみ、細かい所はまた後日、日付の迫った頃に改めましょう」
「そうね。それじゃあ後、これとこれも着てみて」
スタッフさんの言葉に頷いた環に、新しいドレスを渡されて、私は笑った。
今日は、式の軽い打合せとドレスの試着に来ていた。新郎新婦、合わせての試着の方が良いのだろうが、何しろ2人の予定が合わない。大まかな所をそれぞれバラバラに決めておいて、最後の打ち合わせで一気に合わせる予定だった。
「具合はどう?気持ち悪くない?」
私の顔色を伺いながら、環が心配して聞いてくれた。それに私は笑顔で答えた。
「うん、大丈夫。最近はあまり吐き気が来ないの」
私は妊娠していた。もう少しで5ヶ月になる所で、お腹も大きくなり始めている。式は3ヶ月後のマタニティウエディングだ。
介添さんに手伝って貰って次のドレスに着替える。着替え終わった私の姿を見ると、環は頷きながらその姿を自分のスマホで撮った。そして、撮った画像をまとめてLINEで雅彦に送る。
「さあ、新郎は何とリアクションをするか」
相変わらず雅彦はLINEが苦手だ。高校を卒業し、都内の農業大学に進学して全寮制で頑張り、この春卒業予定。あまり会えない中の連絡はほとんどがLINEなのだが、私が送っても雅彦はほぼ既読のみで返信を送って来ず、時間ができた時に通話でまとめて話してくる。
「声も聞けるし、この方がよっぽど良い」
と言って。
「あ、返信来たよ。珍しい」
環が私に歩み寄ってスマホを見せた。送られた私の写真の下に、短いメッセージが見える。
『今直ぐその場に駆け付けたい』
画面を覗き込む私の横で、環はため息混じりに肩をすくめた。
「どのドレスが良いか聞いてるのに、これじゃ答えになってないじゃないね。もういい、私が決める」
環はぷりぷりしながらLINEを閉じてそう言った。私は笑いながら言う。
「環の方が雅彦よりセンス良いし、環に決めてもらいたいからお願い」
環も笑いながら頷いて、そしてドレスを選んでくれた。
「環、今日も有難う。付き合ってくれて助かった」
打ち合わせと試着が終わると、環は車で私を家まで送ってくれた。
「気にしないで、好きでやってるから。疲れたでしょ?帰ったらゆっくり休んで」
「うん。ありがとう」
環の運転は滑らかで、ブレーキやアクセルの振動をあまり感じない。勉強もスポーツも得意だったが、車の運転まで得意。苦手な事なんて何も無いみたいに器用な素敵な女性になった。
車の中では、ドレスに合わせるメイクの話や、環の仕事の話をした。いつも通りに話は弾み、決して近い距離ではないのだが、あっという間に家まで辿り着く。
家の前に着くと、環は先に外に出て、助手席側に回ってドアを開けてくれた。そして私の荷物を待ち、反対の手で私の手を取り、車から降りるのを補助してくれる。痒い所に手の届く対応。本当に、至れり尽くせりだ。
「明日も迎えに来るね、バイバイ」
私が家のドアを開けると、環が玄関の小上がりに私の荷物を置いてくれた。そして、別れの挨拶をしながらハグして頬にキスをしていく。
高校を卒業した辺りから、環のボディタッチが増えた。
『もう我慢しないから。でもここは雅彦に譲る』
私の唇に指を置いてそう言ったのはいつだっただろう。
環は、常に私の横に居て、彼氏も彼女も作らない。
私は、勿論環の事が大好きだ。
『親友』として。
あの日、私に最初で最後の口付けをした日からずっと、環と私は『親友』であり続けている。環は『それで良い』と言い続けてくれているが、本当にそれで良いのだろうかという疑問が、常に私の頭の中に留まっている。
棘はまだ、尖り続けている。
環はとても美人だ。出会った頃から綺麗な顔立ちで目立つ容姿をしていたが、年々磨きが掛かってどんどん綺麗になっていた。明るく元気で面倒見も良い。本人は言いはしないが、相当モテるはずだ。それなのに・・・。
環の若さと時間を全て捧げられている今が、辛い。
ドアが閉まり、外から車のエンジンの音が響いた。そして、それが遠ざかっていく。
環の目が届かなくなって、私は玄関の三和土に立ったまま、全身から力を抜いた。張り付けた笑顔を剥がす。
あの日から、もうすぐ7年になる。外から見える自分を偽るのも上手になった。
郵便受けから取り出したDMや封書の束を片手に、環が運んでくれた荷物を持つ。お母さんはまだ帰宅していないらしい。私は靴を脱いで家に上がり、明かりを付け、ダイニングテーブルに郵便物を広げた。
ふと、目に付く赤と青の斜めのストライプ。
エアメール・・・?
手に取るとそれは私宛だった。裏を返すと差出人のサインがある。
reoと、書き慣れた風の筆記体で。
レオ・・・、礼央!先輩だ・・・。
私は座ることも忘れてその場で開封して、中身を確かめる。
『透子元気ですか?結婚すると聞きました。おめでとう。本当は式の日にお祝いの言葉を届けたかったけど、他の電報と一緒に読み上げられると困るから、少し早目にこういう形をとりました。
透子のウエディングドレス姿、見たかったです。出来る事なら隣に立ちたい。ゴメン、今でも俺は、透子の事が忘れられません。
逢いたいです。抱き締めたいです。俺の物にしたいです。
もしも、透子が辛いと思う事があるのなら、いつでも迎えに行きます。
脱線しました。ご結婚おめでとうございます』
1枚目にはそう書かれていて、2枚目にはcall meの文字の横に数字の羅列が書かれていた。
私は、固まって動けなくなってしまった。
『今更』という言葉と『今になっても』という言葉が、頭の中で捻れて暴れている。
どうして、どうして今になって・・・。
先輩が、先輩が私の事を好きと言っている。
手が震えた。体も震えた。その震えを必死な思いで抑えながら、鞄の中からスマホを取り出して番号を入力する。
どうして、どうして、どうして、どうして・・・。
現実の全てがどこかに行き、頭の中が先輩の事でいっぱいになる。声が聞きたかった。ずっと、ずっと不安だった。不安なままだった。あの日から。
逢いたい?勿論逢いたい。でもそれよりも今すぐに先輩の声を聞きたかった。声を聞いて、話して、この不安なままの心に安らぎを与えて欲しかった。
先輩の声を聞くだけで、どんな時でも楽しい気持ちでいっぱいになった日を思い出す。あの日に、あの時に戻れるような気持ちになる。
2枚目に書かれていた番号を入力する。気持ちが早る。発信を押そうとして、瞬間、スマホの下にある自分のお腹が目に入った。
もう少しで5ヶ月になる。膨らみ始めたお腹・・・。
指が止まった。震えも止まった。
・・・出来ない。電話、掛けられない。
『今更』だ。先輩も『今更』こんな手紙を送ってくるなんて、どうかしている。それに乗せられて電話を掛けようとしている私も『今更』だ。
もうすぐ7年になる。その月日の間に、沢山の出来事があった。
私は、スマホを置いて椅子に座り、顔を覆って泣いた。誰も居ない家が、嗚咽を躊躇わす事なく自由に泣かせてくれる。
何処で、間違えたのだろう。こんな人生・・・。
止まらない涙を両掌に感じながら、私は嗚咽を漏らし続けた。
みんな、愛してくれる。みんな、大切にしてくれる。なのにどうして、こんなに苦しいの?
何一つ思い通りにならない。好きな人が好きと言ってくれているのに、その腕に飛び込めない。抱き締めてもらえない。
「透子さん。この世界は、貴女にとって『生き辛い』物ではありませんか?もしそうならば、私は貴女を『私共の世界』へとお連れ致します」
突然、その言葉が頭の中に浮かんだ。いつだか、アスさんが私に言った言葉。
「アスさん・・・」
あの時、アスさんと一緒に行けば良かった。
この世界は、私にとって『生き辛い』物でした。
そうすれば、そうしていたならば・・・。
やり直したい・・・。
そう思った瞬間、私の目の焦点が合うような感じがした。驚きで口が半開きになる。
そうだ・・・、私、あの時・・・。
急ぎ階段を駆け上り、自分の部屋のドアを開ける。机の上にいつも置いてある、思い出の品やどうしても捨てられない小物を入れてある小箱の中身を床の上にあけて、中から探した。
アクセサリーやお土産で貰った小物類と一緒になって、床に転がった『ソレ』は見つかった。
アスさんが、私を庇ってくれた時に渡してくれた小瓶。シュワシュワとした七色の不思議な液体。
「やり直したい時に、これを」
「・・・え・・・」
私にそう伝え終わると、笑顔を浮かべて、そしてアスさんはガクッと脱力した。
あの時の小瓶だ。7年近く経っても、未だにシュワシュワと気泡が上がり続けている。色もあの時のまま、淡く発光する不思議な七色。
「アスさん、これ、飲んでも良いのでしょうか?」
誰も居ない部屋の中で、私は誰にともなくそう呟いた。
そのまま命を失ってしまったアスさん・・・。留学してしまった先輩・・・。
やり直せますか?
覚悟も何も無かった。誰も止めず、何の躊躇も抵抗もなく。
私は、小瓶の蓋を開けて、一気に飲み干した。
品質とか、賞味期限とか、そんな事も全く気にならなかった。
あの日、私の熱を下げてくれた。怪我も治してくれた。
その事実が、私に何の疑いもなくその液体を飲み干させてくれた。
そのすぐ後、ダイニングテーブルの上でスマホが着信を知らせたが、見る事は出来なかった。