23
翌日の放課後は、2人とも予定が空いていたのか、透子と先輩は仲良くデートだった。相変わらず俺は後をつける。
昨日の夜、通話で『守る』と言われはしたものの、だからと言って安心は出来ない。なにせ相手が和樹だ。すぐそばに住んでいるという事もあり、いつどこで遭遇してもおかしくないのだ。心配にならない訳がない。
そして俺は後をつけ、2人の仲の良さを目の当たりにして、傷付く。自分の性癖を疑いたくなる。
そんな俺の苦しみと心配を知らずに、楽しく順調にデートは進む。先輩は、自転車を手で押しながら透子の歩幅に合わせてゆっくりと進んだ。昨日の事故の話は聞いているのか、透子には安全な側を歩かせていた。甘い物を一緒に食べ、ショッピングを楽しみ、あっという間に空の色が変わっていった。
・・・その時はすぐに来た。
大きな通りから、住宅地へと向かう道に入りしばらく進むと、道路を挟んだ反対側の歩道から透子の名を呼びながら駆け寄る影があった。和樹だ。
やっぱり鉢合わせてしまった・・・。
俺は離れた位置から様子を伺った。
話し合う3人は、次第にヒートアップする。内容は分からないが、透子も和樹も声が大きくなっていく。
和樹が先輩に向かって怒鳴った。
怒りに満ちた和樹は、見慣れている俺でも嫌になるくらい怖い。背も高く(俺よりは低いが)無造作な癖毛の隙間から覗く目は、細く吊り上がっていて、常に怒った表情をしている。声も低い。面と向かって怒鳴られたら誰でも怯むだろう。
けれど・・・。
先輩は負けずに言い返していた。和樹の怒鳴り声に負けないデカい声で。
俺は、2年前のことを思い出した。和樹を目の前にして、怯えるばかりで何ひとつ出来ずに殴り倒された和食。
先輩は、やっぱり和食とは全然違う。この人なら、透子を幸せに出来るのかも知れない。俺より小さいし、多分喧嘩したら俺が勝つとは思うけれども。だとしても透子は先輩を選ぶだろう。
とうとう、和樹が先輩に殴り掛かった。先輩は、やり返さないで全部受けようとしている様に見えた。避けずに素直に一発食らう。
ダメだ。キレた和樹は加減を知らない。下手したら殺されてしまうかも知れない。止めなければ。
そう思い、俺は走り出した。
その時の事だった。俺の上に、何かが急降下して襲い掛かって来たのだ。
カラス・・・?
見上げた視界の端に黒い影が過った。顔に風が掛かって大きな鳥の羽音が聞こえる。瞬間、俺の顔の左側面に激しい痛みが走った。熱くなり、体が痺れ出す。首から上が熱くなって行くのに対して、体が冷たくなって行った。先の方から痺れて行く。
俺は、呻き声を上げてうずくまった。そして、そのまま動けなくなってしまった。
何でこんな時に。カラスに襲われるなんて、最悪だ。
前では、和樹が倒れた先輩に蹴りを入れていた。透子が背中にしがみついて止めている。そして、何故かそこにさっきのカラスが接近して、何かを落としていく。キラリと光る『何か』。
それを見て一瞬動きを止めた和樹は、拾いに走った。
ナイフだった。刃先の長く、持ち手のガッシリとしたサバイバルナイフのように見えた。
フラつきながら立ち上がった先輩に向かって、和樹が走る。拾い上げたナイフを構える。
・・・ダメだろ・・・。
止めたいが、俺は立ち上がる事も出来ない。
・・・その時、透子が動いた。先輩と和樹の間に滑り込む。そして、先輩を庇うように立ち塞がった。
ダメだ!やめてくれ!
透子の動きは早かった。『先輩を傷付けたくない』のはもちろんだが、『和樹に人を傷付けさせたくない』という思いもあっての事だろう。その思いに、迷いは無かった。
俺は動けない。見ているしか出来ない。
誰か・・・止めてくれ・・・。
両腕を広げて先輩の前に立ちはだかる透子。涙が溢れ続けるその目を閉じた時、透子と和樹の間に何かが飛び込んだ。上空から一直線に。
拳大の石のように見えた。透子と和樹の間に落ちると、それは一気に膨れ上がって、背の高い男の姿になる。和樹に背を向けて、透子を抱き締めて庇った。
倒れ込む3人、立ち尽くす和樹は、透子を抱き締める男の背中からナイフを抜き、何歩か下がった所で手から力が抜けてナイフを落とした。カランと音が響く中、抜けた背中からは勢い良く血が吹き出して、地面に赤い色が広がる。
時間が止まったかと思った。みんな、動かなかった。
突如出現した男が少し動いた。そして、縮んで行く。赤い血溜まりも縮んでいく。
小さくなって地面に落ちたそれを、透子が掬い上げて、胸に抱き締めた。
救急車に乗ったのは、産まれて初めての経験だった。俺と先輩は、同じ救急車で運ばれていた。
「元木君・・・居たんだ」
「はい・・・居ました」
先輩と俺は、応急処置を受けながら、それ以外の言葉は交わさなかった。
搬送先の病院では、2人共CTとレントゲン撮影を行った。幸い大きな問題はないとの事で、処置室で縫ったり消毒したり、包帯を巻いたり、一通り治療を受けると、それぞれの親が迎えに来て帰宅を許された。
「後でLINEするよ」
先輩は、それだけを俺に言って帰って行った。
帰宅後、透子と先輩と和樹と、それぞれ別々に連絡を取って、今日の事件についての確認を行った。先輩と透子の交際について和樹と揉めた所を、俺が止めようとして喧嘩になっただけで、ナイフで刺した云々は無かったことになった。
翌日俺は、学校を休んだ。透子と和樹と、透子のお母さんが俺の家に謝罪をしに来たが、先輩はともかく、俺については謝って貰うようなことでも無かった。
和樹は無表情、透子は暗い顔をしていた。和食の時は和樹は謝罪をしに来なかった。それに比べると、あの時よりはちょっとはマシだったのかも知れない。
1週間後、先輩は留学してしまった。透子の家と揉めて、解決しなかったのだろう。先輩から俺への連絡はLINEのメッセージ1行だけ。
『すまない、力及ばす』
お喋りな先輩が、だった一言しか残さないという事が、先輩の気持ちを物語っていると感じた。相当悔しかったに違いない。
「ねぇ、噂になってるけど」
環にそう言われた。先輩の突然の留学の理由が、俺と先輩とで透子を取り合って、俺が勝ったから、という事になってしまっているらしい。
俺も先輩も、それなりに怪我をしている姿を、学校内で晒していた。2人で喧嘩をしたと思われてもおかしくはない。元々、透子に虫が寄り付かないように、俺が彼氏のように振る舞っていたのも原因の一つだろう。
俺は、新たな虫が寄らないのならそれでも良いと思った。
問題は、透子だった。
2年前の様に、何らかの障害が出ているようには見えなかったが、見えないだけで、明らかに透子は深く傷付いていた。笑顔はぎこちなく、話し掛けても反応がない時もある。まだ環がそばにいる時は良いのだが、1人になると、顔から表情が消えて、何処か一点を見つめて動かないでいる事が多かった。
大きなショックを受けたのだ。すぐに元通りに戻るなんて事は不可能なのだろう。少しずつ日々を過ごして行く事で、今は見えない周囲の事が見えるようになって行き、そして、自分の中で消化して行く。前回は2年近く掛かった。焦っても仕方がないという事は、よく理解しているつもりだ。でも、何とか、してあげられないものだろうか。
ある週末、俺は透子を誘ってみた。
塞ぎ込んだままの透子に何か気晴らしでも、と考えて。
何に誘ったか?というと、畑仕事にである。
約束の時間に迎えに行くと、透子は自分の家の庭の隅でしゃがみ込んでいた。近付くと、平たい石が積み上げられていて、その石の前に5個入りのチョコパンと、自分の好きな柑橘の炭酸水を置いている。手と手を合わせ、目を瞑り祈る姿は、墓参り以外には見えない。
「透子」
呼び掛けると、透子は顔を上げた。
よく見ると、積み上げた石の一番上の石には『スズメのお墓』という文字と、可愛らしい小鳥の絵が油性マジックで書かれていた。
「雅彦」
透子は、俺の名を呼んで立ち上がる。俺の顔を見ているが、その目は俺を通り抜けて、どこか違う所を見ているようだ。
俺は、父の車に乗せてもらって、透子と一緒に祖父母の畑へと向かった。
幼稚園児の頃は、よく俺と透子の母親も一緒に行って、祖父母の手伝いをしては採れたての野菜を齧らせてもらったものだ。あの頃の俺達では邪魔以外の何者でもなかったが、高一になった今ならば、立派な人手として役に立てる。
「透子ちゃん久しぶりね!すっかり大人になって」
俺の祖母に歓迎されてはにかむ透子。教室の中や登下校の時の無理のある笑顔とは少し違って見えた。久々に会う祖父母の歓迎が、透子の心に良い影響を与えてくれていればいい。俺は、そう思った。
俺と透子は、とうもろこし畑の雑草を抜き、トマトとキュウリの収穫を手伝った。
天気は良く、気温も高い。俺達は麦わら帽子の下に汗を流しながら、無心で作業に没頭した。
トマトをもいでいた時、透子が立ったままじっとしているのに気付いた。
「透子、どうかした?」
俺は声を掛けた。
俺の声が届いているのかいないのか、振り返らずにそのまま、目の前のトマトを見続ける透子。
「農業って素敵ね。注いだ愛情が、目に見える形になって、誰かに届くなんて」
透子はそう言った。
透子が、トマトと自分を比べている。トマトに注がれた愛情と、自分に向けられた、多方面からの愛情。一方向にスムーズに進行する分かりやすい愛情と、複雑に絡み合って停滞し澱んでしまった愛情。
その時の俺には、透子が儚い存在に見えた。水の上げ過ぎで根腐れをおこして、枯れそうになっている植物のように。
根腐れをおこしてしまったら、掘り起こして根から土を優しくほぐし落とし、傷んだ根を切り落とし、根とバランスが崩れない程度に葉や茎も切り落として新しい土に戻さなくてはならない。なかなか手間のかかる作業だ。
ただ、時が癒すのを待つだけではなくて、俺に何か出来ないだろうか。透子がまた、綺麗な笑顔を実らせる日が、1日でも早く訪れるように。
「透子、俺に出来ないだろうか。透子の心から過剰なものを消して、必要なものを一緒に育てて行くことが」
気付いたら、そう口走っていた。透子が俺を見る。力の無い目で。俺の方を向いてはいるが、俺ではないものを見ているような目。
何故、今言おうと思ったのか、分からない。分からないが、今じゃないと、もう言い出す事はできないと思った。だから言った。
「透子、俺は透子が好きだ」
一度思いを伝え始めると、次々と言葉が出て来る。透子は、身動きせずにそのまま立っていた。俺の声がキチンと届いているのか分からない。分からないから、多く伝えなくては、と滝のように頭に浮かんで来る言葉を次々口から出していった。
「ずっと好きだった。今までずっと、透子だけを見ていた。嬉しそうな透子も、辛そうな透子も全部。今の透子は、傷付いて辛そうだ。そこから抜け出す為に、俺が何かをする事は出来ないだろうか?俺は透子とずっと一緒にいるよ。側でずっと、透子と同じ景色を見ていくよ。俺と一緒に、これから先の人生を歩いて、欲しい・・・」
言いながら気付いた。告白と言うか、プロポーズだ。これは・・・。
透子は、黙って俺を見ていた。力の無い目で。
そして、静かに一筋の涙を流した。