18 normal bad end
「アスさん・・・」
目の前で起こっている出来事があまりにも現実離れしているせいで、私は、目に映っているアスさんの姿と、体に感じるアスさんの重みと温かさと、周囲に充満する金臭い匂いとを、繋げて考えることが出来なかった。
久しぶりに見たアスさんは、やっぱりイケメンで、いつも通りに優しい笑顔を浮かべている。
「透子さん、良かった。間に合って・・・ゴボッ」
アスさんの口から、咳のようにして空気と一緒に沢山の血が溢れ出て来た。
「やった・・・死んだぞ、アイツ・・・。とうとうやった!こんなに上手く行くなんて!」
通りの向こうの方から、ミヤマさんの声が聞こえた。大きな声で興奮して、凄く嬉しそうに笑っている。
「騒いでるんじゃないよ!済んだなら行くよ!」
そんなミヤマさんに対してだろう。女性の怒った声も聞こえて来た。奥さんだろうか。
続けて大きな羽が羽ばたく音が、二つ重なって、遠くへ離れて行く。
「透子さん・・・」
苦しそうにアスさんが私に言った。
「・・・アスさん、喋っちゃダメです。止血しないと」
私は、震える声でそう言って、アスさんの刺された腹部を見た。赤く染まったスーツの中にナイフによる裂け目が見える。溢れ出る血の量は物凄く、とても一つの体から出て来た量だとは信じ難い。
指先が震える。手と足の両方の先っぽから始まった震えは、瞬く間に駆け上って体全部に広がった。歯がガチガチと音を立てる。頭では止血しなければ、と思うのに、体はただただ震えるだけで、言う事を聞いてくれない。
動くことが出来ないでいる私の上で、アスさんは体を捻って向きを変え、私の手を握ってきた。更に血が流れ出る。今までもアスさんの手は冷たかったが、それまでと比べてみてもとても冷たい手だった。反対の手も添えてくる。そして、私に小瓶を握らせた。
「・・・」
アスさんが、聞き取れない程小さな声で何かを言う。
「聞こえないです・・・後で聞くから、怪我治してから聞くから・・・」
震えを必死で抑えて泣きながら言う私の顔を見て、困ったように笑う。その笑顔が、いつかの笑顔と同じで、私はまた涙が出て来た。
アスさんが、私の髪を少し掴んで引っ張る。手のひらを自分の口の横に添えて、内緒話をする様な格好をした。
私は耳をそこに寄せて、アスさんの声を聞いた。
「・・・・・」
「・・・え・・・」
私の体は、震えを止めて固まった。
アスさんは伝え終わると、笑顔を浮かべて、そして、ガクッと脱力した。
アスさんの体が冷たくなる。冷たくなって、どんどん縮んでいく。地面に広がった血の海も一緒に縮む。縮んで縮んで、小さくなって、最後には、小さなスズメの体が残った。
とても冷たくて、動かないスズメの体。
私は、そのスズメを掬い上げて胸に抱いた。
あの時のスズメだったのね・・・。
その後、救急車を呼んで、先輩と、向かいの歩道でうずくまっていた雅彦(私達が揉めているのを見つけて、助けようとしてくれた所を、ミヤマさんに切り付けられたようだ)を運んで貰った。2人共大事には至らず、その日のうちに家に帰る事が出来た。
日を改めて、私とお母さんと和樹とで、先輩の家と雅彦の家に謝罪の挨拶をしに行った。
『私と先輩との交際に関して、和樹と言い合いになり喧嘩になった。それを止めようとした雅彦が巻き添えを食って怪我をした』
そういう筋書きで。
和樹がナイフで誰かを刺した、という事は、その場にいた4人だけの秘密という事で落ち着いた。
だけど・・・。
「別れて下さい」
先輩のお母さんからそう言われた。
「何言ってんだよ、母さん!」
先輩は反抗してくれた。
先輩は、口内の裂傷と顔面、腹部の打撲だけで、骨折等の大きな怪我は幸い無く、軽傷で済んでいた。
「調べたんですよ。2年前にも同じような事があったんでしょ?透子さんとお付き合いした男の子が怪我をしたって」
先輩のお母さんは、そう言って和樹を見た。
「うちの子も、そうなる前に別れてもらいたいの」
私は、頭を硬いもので殴られたような気がした。
2年前・・・。
そうだ。2年前。私は・・・。
その後の会話や行動は、はっきり記憶に無い。ただ、先輩と先輩のお母さんが「透子ちゃんは悪く無いよ!」「礼央!殺されてもいいの!?」と言い争っているのを聞いたような気がする。
うちのお母さんがひたすら頭を下げて、和樹と私がそれに習って頭を下げて、どちらも十分な納得を得る事なく先輩の家を後にした。
お母さんは、帰り道を歩きながら、私の頭を抱いてくれた。何の言葉も無く、ただただ抱いていてくれた。
対して雅彦の家では、
「雅彦が納得してれば、親の私達は何も言うつもりはないですよ。今まで通りに宜しくね」
と、温和な対応を受けた。
「と言うか、そもそも俺は何もしていないし、カラスに引っかかれただけだから」
そう言う雅彦は、額から左耳に掛けてザックリと切傷を負っており、何針か縫っていた。
「でも、助けようとしてくれたじゃない」
そう言う私に、
「透子が無事なら、それで良い」
と、素気なく返された。いつも通りの無表情で。
それから学校に行くと、1週間もしないうちに、先輩は海外に留学をしてしまった。アメリカの高校で、大学もそのままそちらの方を受験するという話だ。
私との交流は、だった一度の通話だけ。
「透子ごめん。俺、親を説得出来なかった」
「礼央先輩、こちらこそゴメンなさい。礼央先輩は何も悪くないんです。全部、私が悪いんです。和樹の事、分かってなかった私が」
「何発か殴られるのは、覚悟してたんだ。でもここまでとは思って無かった。透子、俺透子の事、ホントに好きなんだ。最後まで守ってあげたいのに、出来なくて不甲斐ないよ。親がホントうるさくて。・・・心配してて。俺、親を、母さんを・・・」
「私こそ、私こそ・・・和樹の事を、ごめんなさい・・・」
私も、先輩の事が好きなのに、あんな事になったと言うのに、それでも和樹を、見放す事が出来ない。小さな頃から一緒に育って来た、兄の様な大事な人だから・・・。
二度目なのに・・・。