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「こんばんは、透子さん。ご無事で何より」
部屋には、今夜もミヤマさんが現れた。今までと同じく、誰もいなかったはずの部屋の中、後ろから声を掛けられ、振り返るとミヤマさんがいる。窓は開いていて、そこには枝木に溜まった一匹のカラスがいて、部屋の中を見ている。
ご無事で、という所が引っかかった。私はミヤマさんの事を睨み付けてしまった。
「透子さんには、優秀なナイトが付いていますね。私達も、方法を考えなければなりません」
私の視線には動じず、それまでと同じ声色でミヤマさんは続けた。
やっぱり、今日の事故には、ミヤマさんが関係しているのだろうか。
下校時、私は危うく怪我を負い掛けた。路地を走行していた車が、突然フロントガラスにぶつかって来た鳥に驚いてハンドルを切り、たまたまそこに居た自転車に接触しかけたのだ。自転車の運転手は、慌てて避けたものの、曲がり角をたまたま曲がり掛かっていた私に驚き、ブレーキが間に合わず無理矢理ハンドルを切り、私に向かって倒れて来た。
本来ならば、私は何らかの怪我をしていたのだが、これまた、たまたまそこに通り掛かった雅彦に助けられたのだ。私は無傷、雅彦も制服が少し破れた程度で怪我は無かった。車の運転手も車も問題なく、自転車の運転手が少し手を擦りむいた程度で済んだ。
運が良かったのだ。下手をしたら大事故だった。
「ミヤマさんがやったんですか?」
私は聞いた。
あの時、カラスの声がした。車のフロントガラスにぶつかった鳥は、カラスだったのではないか。
「私が、ですか?何を、でしょうか」
とぼけたようにそう言うミヤマさん。口元を押さえて肩を揺すっている。笑っているのだろう。
「気付きましたか?私が『カラス』だと」
そう言って、私を見てきた。グラデーションの眼鏡の奥の、赤い斑点の三白眼で。
ずっと、そうでは無いかと思っていた。目の前に立っているのは、間違いなく人間であるミヤマさんだ。常識的に考えれば、人がカラスとイコールで結ばれる事はない。
でも・・・。
突如部屋の中に現れるその事実が、話した訳でも無いのにその日の出来事を事細かに知っているという事が、既に常識から大きく外れていた。
「そうです。私は『カラス』です。『ミヤマガラス』です。次は、もう少し頭を使って、透子さんの羽を震わせて見せましょう」
ミヤマさんは、芝居掛かった素振りでそう言いながら、私の背後に回り込んだ。
「ああ小さい。小さくて醜い羽だ。いっそもぎ取って、私の黒く美しく、大きな羽にすげ替えたい」
私の背中に向かって喋り続けるミヤマさん。私は、振り向く事が出来なかった。
『やっぱり』という確信と、『まさか』という疑いが、頭の中で攻めが合う。どうしたら良いのかが分からない。
窓の外から、激しい羽音と、カァカァと大きく鳴く声が響いてきた。枝木の上で、カラスが騒いでいる。
「ええぃ煩い!そう荒ぶるな!」
ミヤマさんが、舌打ち混じりに苛立った声で外のカラスに向かって言う。
「では透子さん、また明日」
そう言って、黙る。背後で風が動いた。鳥の羽ばたく音が、背後から窓へと向かって動く。外にいたカラスと、もう1羽のカラスが、連れ立って飛んで行った。
私は、振り返る事が出来なかった。
その後、静かになった部屋の中には、黒い羽が一枚落ちていた・・・。
『透子ちゃん、何だか元気無い?何かあったの?』
先輩の声は、いつも私を元気にしてくれる。でも・・・、
「実は、今日先輩と別れた後に、ちょっと・・・」
床に落ちた黒い羽を見る。あれ以来、拾って捨てる事も出来ず、そのままそこに落ち続けている。
『ちょっと、何?』
優しい問い掛け。
話してしまっても良いのかな・・・。話す事で、先輩までが怖い事に巻き込まれてしまいそうで、話した事で、何かの歯車が回りだしてしまいそうで、そんな、漠然とした不安が胸の中で渦巻く。
「事故に・・・」
『ん?事故?』
沈黙が罪悪感を産む。隠し事をしている、と思われてしまいそう。
産まれた感覚が、膨らみ育つのが怖くて、私の口は言葉を紡いだ。
話すのも怖い。話さないのも、やっぱり怖い。
「大した事はなかったんです。先輩と別れた後に、ちょっと自転車にぶつかりそうになって、」
悩んだ後に、結局、努めて明るく説明した。
『えっ!大丈夫だった?怪我は?、っとゴメン。なんか、焦っちゃって』
先輩の、驚きと心配が伝わってくる。優しい・・・。
「実際にぶつかったわけではないので、怪我はしてないですよ。安心して下さい・・・」
明るさは喋るに連れて薄れて、尻すぼみに私の声は小さくなっていった。
落ちる沈黙。スマホで繋がった先輩の世界から、スッと息を吸い込む音が響く。
『・・・怖かったんだね・・・』
静かな世界に馴染むように、囁き声で先輩が言う。
『・・・過去形じゃないや。今もまだ、怖いんだね。事故の時から、ずっと怖いままなんでしょ。ゴメンね、俺、全然知らないで、普通に勉強してた』
「あ、謝らないでください。先輩、全然悪くないですから」
『今、横に居てあげられなくてゴメン。お詫びに明日は、楽しく過ごそ!透子ちゃんと一緒に行きたい所、沢山あるんだ。怖かった事なんて、すぐに忘れさせてあげるよ』
先輩の声は、不思議と私の中にスッと浸透してきた。染み込んで底から徐々に溜まって、私を暖かく膨らませてくれる。
「礼央先輩・・・ありがとう・・・」
先輩と話した後、私は、床に落ちている黒い羽を拾い上げ、窓から外に落とした。羽は、左右にユラユラと揺れながらゆっくりと落ちて行き、そして、風に煽られてどこか遠くへと飛んで行った。
不安は、見えなくなった。
翌朝、家を出ると、先を歩く雅彦の姿が見えた。
「雅彦!」
名前を呼びながら私は駆け寄った。
「昨日はありがとう。助けてくれて。何処か痛くなった場所とかない?制服直った?破れてた所。大丈夫?」
雅彦の周りを一周回って確認した。昨日砂まみれだった制服は綺麗に払われて、破れた所も目立たないように補修されていた。
「透子、おはよう。落ち着いて。俺は大丈夫」
慌てた私を宥めるように、雅彦はゆっくりそう言った。
「良かった」
悪くなった場所も無さそうだと分かって、私はホッと息を吐く。
「透子は大丈夫?」
今度は雅彦が私を心配して聞いてきた。
「うん。問題無い」
体は大丈夫。精神的には参っていたけど、その後先輩と話せたおかげで気持ちは大分持ち上がっていた。
「そう、良かった」
雅彦も、ホッと息を吐いた。お互いの無事を確認し合うと、私達は並んで学校に向かって歩き始めた。
「何かさ、最近透子ついてないよね。風邪に怪我に事故。お祓いでもしてみたら?」
確かに、悪いモノに憑かれている気がする。いや、気がすると言うか、憑いている。
「お祓いって、カラスにも効くのかな」
思わず私は、そう呟いてしまった。
「カラス?」
うっかりカラスと言ってしまって慌てる。
「あ、うん、そう。昨日の事故の原因。カラスかな?て」
私は、誤魔化すような言い方をした。
「そう言えばそんな事言ってたな」
昨日の事故の経緯を思い出しているのだろうか、雅彦は考え込むような表情になった。
『優秀なナイトが付いていますね』というミヤマさんの言葉が思い出される。
雅彦を、巻き込む訳には行かない。
「雅彦も気を付けてね。カラスに襲われない様に」
「おう」
校門前では、先輩が仁王立ちで私を待ち構えていた。
「透子ー、おはようー」
挨拶をして、私と雅彦の間に割込む。私も「おはよう」と返した。
「元木君、昨日LINEで言ったよね?透子と並んで登校するなって」
私と手を繋いで、雅彦を睨みながらそう言う。
・・・LINE交換したんだ・・・。そう言えば、昨日そんな様子を目にした気がしなくもない。
「先に出たんですが、追い付かれました」
先輩の噛みつきそうな顔に向かって、無表情で言い返す雅彦。何だか、私の知らない間に仲良くなってる?
「これから気を付けてよね。透子、行こ」
フンっと鼻息も荒く、先輩は私の手を引いて先に進んだ。
と言うか、いつの間にか私呼び捨てにされてる・・・。
返事をしつつ、ちょっと赤くなった頬を隠すように、私は俯いた。
「大丈夫?」と優しく声を掛けてくれる先輩。その「大丈夫?」は、昨日の事故の後の不安感を心配してのものなのだろう。それには、笑顔で頷き返した。
もう、大丈夫。
先輩も笑顔を返してくれる。私、助けられているなぁ。
そして、昨日と同じく先輩は私を教室まで送ってくれた。
「じゃあ、また放課後ね。今日は一緒だよ?」
別れ際に、頭を撫でながらそう言われた。私は笑顔で頷いた。
「楽しみです。HR終わったら、待ってますね」
そして放課後、私は先輩と一緒に駅前を歩いた。先輩は自転車を押しながら、私の歩調に合わせてゆっくり進んでくれる。他の自転車が近くを通る度に、私が怖くないように自分が間に入ったり、肩を引き寄せて庇うようにしてくれた。その度に、私の心は膨らんでいく。
「この間の遊園地の時、礼央先輩が履いてたみたいな靴が欲しいんですよ」
という私の希望に応えて、大通りのスニーカーショップを覗いたり、
「新作のスイーツが食べたいよね」
という先輩の行きたいお店で休憩したり。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
そして先輩は、自転車を引いて私を家まで送り届けてくれている。
すっかり日も暮れて、もうすぐ星が出るという時間帯だ。人通りもまばら。
「本当は今日、もう一件行きたいお店あったんだけど時間無かったな」
「じゃあ、また今度行きましょうよ」
2人共笑顔でそんな話をしていると、道路を挟んだ向こう側で立ち止まる人影があった。
気になって目を凝らすと、覚えのあるシルエット。
「透子・・・」
シルエットの主は私の名前を呼んだ。
車の影の無い道路を走って渡って来る。
近付くにつれてはっきりしてくるそのシルエットは、和樹の物だった。