8月28日のこと
耳を塞いで、息を殺して、
タオルケットに頭からすっぽり隠れてもさむくて、怖くて、頭の中をぐるぐると幾つもの考えが巡って、
また、朝がやってくる。
「芹沢ー、お前また寝てねーだろー」
寝不足の頭がガンガン痛む。
明け方近くになってようやくうつらうつらしはじめたから、全然睡眠時間が足りなくて授業中何度も意識が飛んだ。
休み時間になって、隣の席の鬼澤君に声をかけられる。
体育会系のガタイと苗字に鬼、と入っていることから、気の弱い奴や女子から少し避けられがちなこのクラスメイトは、ぞんがい世話焼きな性格をしている。
眠気覚ましに投げられた辛味の強いガムを口に放り込むと、鈍い思考が少しだけハッキリするような気がした。
「…ちょっとね。最近、夜も外歩いてる人とかいるから、うるさくて」
「ん? 芹沢ん家って、コンビニとかの近くだっけ。なんか女子の誰か……だれだっけな。まー誰かが、花火の音がウッサイとかなんとか言ってるの聞いたわ」
お前のとこもそんな感じ?
鬼澤君からの問いに、僕は曖昧に頷く。
説明しようにも説明できるわけもなく、相談しようにも息が詰まり、一人で抱え込むには胃が焼けて、喉がムカつく。
ふと流した視線がなんとなく校庭を滑って、ドクッ、鼓動が強く脈打った。
予鈴が鳴って生徒がゾロゾロと歩いていく中に、彼女がいた。
複数の女生徒たちと笑い話しながら歩くアヤモリ先輩。
ほかの生徒は夏の暑さに参って体操服姿なのに、長袖のジャージを着ているからすぐに目がいった。
なにが楽しいんだろう。
笑って、友達と時折肩をぶつけながら校舎に向かって歩いて、ふざけ合って。
誰も彼女の異常に気づいていないみたいに、
「────ッ!!!」
ふいに、目が合った。
目が合った、気がする。いや確かに。
遠目でもわかった、理解した。アヤモリ先輩は僕を見た。
「っ……………」
制服の下に一気に鳥肌が立って、全身にびっしょりと冷や汗が滲む。
「……ぃけど授業始めるぞー、席につけ〜」
「きりーつ! 礼!」
急に耳に飛び込んできた声に驚いて周りを見、席を立つ。
ほかのみんなと合わせて礼をして、慌てて机の中に手を突っ込んだ。
まだ教科書を出していないのは僕だけで、アヤモリ先輩への恐怖心でどくどくと煩い鼓動が焦りから余計早くなっていく。
やっとのこと引き摺り出した現国の教科書を広げ、黒板に書かれた番号を確認しながらページをめくっていると、
───ガラガラ……
教室後方の扉が開く音。
時計を見れば数分早くはじまった授業、誰か遅れて入ってきたのだろうと軽く音の方向を見るが、
扉は閉じられている上、誰も音に反応した様子がない。
「え?」
隣の席の鬼澤君はこういった場面で揶揄うように声をかけるようなことがあるが、彼も面倒臭げに黒板の方へ顔を向けているだけで。
なら聞き間違いか。
少し釈然としないまま、再び机に視線を落とした。
ほんの僅かに見える机の下、僕の上履きのすぐ近くに、子供の靴が──泥のついた子供の足が、見えた。
ポタ、ポタ、
濁った泥水のような、じっとりと染みた雨水のような水滴が、落ちる。
腐った臭いがした。
視線が上げられない。
いまの僕の視界は机の下を見ていて、机に区切られた上── それが、完全にこちらを見ている角度で足があるため、顔が上げられない。
息を吸い込むたび、雨と、腐ったような、どこか甘い臭いが鼻腔に広がって、息を詰める。
板書を続ける先生の声が遠い。
それなのに、僕のすぐ近くにいるソレの息遣いが聞こえてきそうで、冷や汗が首筋を流れ落ちる。
「まずいまずいまずい!! もう授業始まってるよ!」
「わーっ ちょっと待って! 置いてかないで、待って待って!!」
「アヤちゃんも早く! 出席確認終わっちゃうよ!」
バタバタと廊下を走り抜ける音がした。
教室の中が僅かにざわめいて、みんなの意識が廊下へ向く。
聞こえてきた名前に無意識に顔が動いて、廊下側の窓を見た。
複数の女生徒たちの中に、短い黒髪───アヤモリ先輩の姿があって。
先輩の紅潮した笑顔、黒目がちな瞳が、やっぱり一瞬──僕を見た。
「………ほらほらほら! 静かにしろ、再開するぞー」
「すっげー走ってた、やっぱこの時間移動無理あるよなー」
「ほかの教室も遅れてる人いたよね、今期教室変わらなくてよかった〜」
少しずつ、暴れていた鼓動が落ち着いていく。音が戻ってくる。
耳に入ってくるのは日常の声。
隣では集中力がなくなったらしい鬼澤君が完全に寝る体勢を取り始めていて、クラス全体がゆるい雰囲気になっていた。
恐る恐る視線を机の下にやると、水滴の跡はおろか、子供の足もない。
強張っていた体から力が抜けていくと共に、僕の脳裏にアヤモリ先輩の声が、反芻されていった。
ひとりになると、死んじゃうよ。
そうなのかもしれない。
いや、身に染みてわかってる。けど、認めたくない。
僕はまだ、あの日から、なにがが決定的におかしくなってしまってるなんて、認めたくなかったのだ。