序章 日常
満月が皓々と輝いている。その銀色の光に照らされて、女性が背を向けて立っていた。肌は陶器のように白く滑らかで、黒くたっぷりとした髪はまるで上質な絹糸のようだった。息を呑むほどの美しさに思わず手を伸ばすと、何かに弾かれたように手が止まる。透明なガラスが彼女との間を隔てていた。彼女がこちらを振り向く。漆黒の瞳はどこか切なげに揺れている。薄い唇に縁どられた形のよい口が何かを伝えようとする。だが厚いガラスにさえぎられて声は届かない。彼女の顔は今にも泣きだしそうに歪んでいる。いつの間にか月は翳り、彼女は闇の深まる方へと歩いていく。引き留めようと必死で叫びながらガラスを叩く。どれほど叩いても彼女は止まらない。手が痛い。うっすらと血がにじんでいる。声はもうからからだ。それでも彼女は止まらない。次第にその姿が闇に沈んでいく……。
ピピピピピ……。
無機質な目覚ましの音で、僕は目を覚ました。全力疾走した後のような疲労感が全身にのしかかっている。シーツは汗でぐっしょりと濡れていた。随分と奇妙な夢を見たものだ。未だに月明りに照らされた女性の姿が頭から離れない。今までこんなにも美しい女性を見たことはなかった。あれはいったい誰だったのだろうか。ぼんやりと考えていると、階下から母親の声が聞こえた。仕方なく体を起こすと、僕は急いで階段を降りた。
下に降りると、母親はテーブルに朝食を並べていた。
「おはよう。ごはん、できてるわよ」
母親は僕に気づくと、淡々と言った。パンとスープ、それに少しばかりのサラダ。いつも通りの朝食だった。僕は席に着くと、それらを口に詰め込んだ。未だに脳裏に焼き付いている夢の残滓を、不快な汗とともに早く洗い流してしまいたかった。母親はそんな僕を気にかけることもなくコーヒーをすすっている。
「そういえば、ハルちゃんから連絡が来てたわよ。あんたの端末につながらなかったからこっちにかけてきたって」
朝食を食べ終わるころ、母親がつまらなそうにそう言った。
「ハルが? なんだって?」
「知らないわよ、そんなの。それよりもあんた、端末の電源くらいきちんと入れておきなさいよ」
相変わらずこちらに目を向けることなくコーヒーをすする母親を横目に、僕は自室へと戻った。自分の端末を確認すると案の定電源が切れていた。僕は部屋の隅からコードを引っ張り出すと、端末を接続して部屋を出た。一刻も早くシャワーを浴びたかった。
幾分かすっきりとした心地でシャワーを浴び終わると、僕は端末を起動させた。ハルに連絡を取るためだ。タイミングがよかったらしく、そこまで待たないうちにハルの姿が部屋に浮かび上がった。
「やあ、ハル。どうかしたの」
「シオン、あなたまた端末の充電忘れていたの?」
「まあね。というか充電なんて気にしてなかったよ。僕が端末なんて好きじゃないの、君だって知っているだろう」
「もちろん知っているわ。けれどそんな態度じゃせっかくのオフェロ候補の資格も剥奪されちゃうわよ。それじゃあまりにも不名誉だわ」
「別にどうでもいいよ。そんな資格、興味ないし」
「あなたが興味なくても周りの人はそうじゃないでしょ。それにおば様にも迷惑が掛かるじゃない。クポロへの貢献者が一つの家から二人出るなんてこんなにも光栄なことはないのよ」
「そんなこと言われてもしょうがないだろ。興味ないんだから。それよりも何の用だったの?」
「ああ、すっかり本題のこと忘れてたわ。あなた、明日ひま? 付き合ってほしいところがあるの」
「明日? 別に予定はないからかまわないけど」
「決まりね。そしたら明日中央広場に十時待ち合わせで」
それじゃ、とハルは通話を終了させた。何をするのか聞きたかったが、まあいい。ハルは昔からそういうところがある。僕は端末を机に放り投げると、そのままベッドに倒れこんだ。
初書きです。どうぞお手柔らかにお願いします。