前編
この町の雨は、止むことがない。透水性舗装と地下の大規模雨水網、さらには大プールと呼ばれる処理施設があるおかげで地上が水浸しになるようなことは免れているが、足下は常に悪く、誰もが水を跳ね上げたり巻き上げたりして歩いている。高さによって利用制限のあるこの町ではあまり高度がとれないため、どうしても地面にたまった雨水の影響から逃れられないのだ。少し高いところはパトロールドローン、その上に広報広告バルーン、その上にエアタクシー、このあたりまでが地面を歩く庶民の認識する高さである。噂だとそれより上には鉄道があるとか、エネルギープラントがあるとか色々言われているが、所詮は噂話の域を出ない。そもそもプラントなら上より下に作った方が安定しそうなものだが、その辺の設定が甘いのも噂や都市伝説の常なのかもしれない。そして正体はともかく、上にある何かの影響か、この町のやまない雨は常に酸と重金属を伴い、道行く人を悩ませ続けていた。
そんな誰もが雨水を跳ね上げる町を、足袋と雪駄で歩いている者がいる。さした傘には雨粒が跳ねているが、何故か足袋は濡れていないし、足音も水音も立てていない。先を急ぐ風でもなく、用があるといった様子もない。ただ、歩いている。
「こんな天気の日は、ヒゲが重たいねぇ」
「こんな天気もどんな天気もないだろうが……」
いくつもの華やかな看板の下を、それらの光に照られて、音も立てずに、しかし文句を言いながら歩く猫。斜めにさした大きめの和傘に隠れて縞の袴ぐらいしかみえていない。
「だからずっとこんな天気で、ずっとヒゲが重いんだろう?」
傘の陰でヒゲをピンピンと弾いている。
「慣れるしかないだろそんなのは……俺もずっと休みなく働いてる気がするな」
そもそもヒゲが湿気で重いとはいえ、濡れてないのは傘をさしてるおかげである。勿論猫もわかってはいる。
「それはすまないね。勿論慣れてはいるんだよ。慣れないもんかね。ただほら、お天道様が恋しくなる日もあるじゃないか。それに……」
空を見上げる。勿論恋しい太陽はそこには見えず、どんよりと光った雨雲を背景に、ドローンがいくつか飛び交っているのが見えるばかりである。
「お天道様だってこう会ってないと、私達のことも忘れてしまいそうだとは思わないかい」
「お天道様はそんな下々の一人一人を気にかけたりしねぇと思うがなぁ」
日が出てるときには出番のない傘は、いささか反応が冷たい。
「気の持ちようってやつだよ、それに、そんな風に考えるのは良くないと思うよ。お天道様に見られてると思うから、恥ずかしくないように、ええと、なんだったかね」
「いいこと言おうとするなら最後まで言い切ってしまえ」
こんな町で、お天道様に見られてると思う人間もいないだろうが。
「噂をすればってもんで、ほら、そこにお天道様の看板があるぜ。珍しい。何屋なのかは知らないが」
傘に言われて前を見ると、あまり大きな看板ではないが、なるほど太陽を模したと思しき意匠で、周囲に七色の光を放っている。
「何屋なんだろうねぇ……でも、結局外の傘立てにいるんだろう?」
少し首を傾げる猫。自分はともかく傘が店の看板に興味を持つのが、ふと不思議に思えたのだ。
「店が違えば傘も違う。傘が違うって事は、新たな出会いがあるって事だぜ」
色とりどりの傘や、一見傘に見えない超音波やエネルギーフィールドを発生させる棒状の機械などのささった傘立てに傘を押し込むと、猫はヒゲをひくひくさせながら店の扉を推した。
「ヘイラッシ!」
最後の子音が刺さるような挨拶を受けて中へと入る。受付があり、その先には広い空間があるようだ。
「お飲み物?」
「メニューを見せてくれるかい?」
透明な板が手渡される。それほど高い店ではないが、その分オーガニックやバイオといった手間のかかった素材のものは扱いがなさそうだ。ケミカルと、あとは物理、電子系のナノマシンドラッグ。サイバネティクスの粋をこらした高機能ボディを、ベンディングと呼ばれる雑な物理処理により誤動作させる遊びも、補助電脳に無理やりインストールされるウイルスによるトリップも残念ながら猫には無縁のものである。
「メニューにないもので申し訳ないのだが……オイルを貰えるかな、できれば明かり用が良いのだが。浅い器に入れていただけるとなお嬉しい」
「ここの明かりはオヒサマオンリー!なので残念メンテ用のギアオイルしかないけど……本気?」
「オヒサマ……なるほど。」
ちょっと奥を見て呟く。
「本気も本気、油が一番効くのでな」
「面白いボディー」
どうやら特殊なボディーでオイルを経口摂取すると思われたらしい。ある意味間違いではないのだが。
「お支払い?」
「ああ、これで」
懐から小さな機械を取り出す。浮き世離れしているとはいえ、猫もこの町の住人だ。金のやりとりが必要なこともある。殆どの住人が機械の体で生活するこの町では、体に埋め込まれた決済チップでのやり取りが一般的だ。
「おや、これもまた珍しい」
なので、このような外部化された決済チップというのは一部の生身至上主義者ぐらいしか持っていない。そして彼らはたいてい生身の人間の形をしている。
「いろいろ事情があってね」
「支払さえしてもらえば問題ナッシ!アリアトッシ!」
小さなトレイに乗せて返されたそれを、猫はまた懐にしまい込む。
「27番のスペースです。ご案内しますね」
女性的な曲線を持つ樹脂コートされた人形がそう言った。見るとコーティングがかなり劣化している。
「オヒサマの光に当たると、劣化が早いんですよ。いいでしょ?」
「ああ、かっこいいね」
人形が嬉しそうな顔をする。人なのかロボットなのかは見た目ではわからないが、この感じは人なのだろう、と猫は結論づけた。猫は足音をたてていないが、人形はじゃりじゃりという足音をさせている。下を見ると、セラミックのかけらを敷き詰めているようだ。ふと気になって上を見ると、原色ブルーと白のマーブル模様。そこに何やら強烈なエネルギーを感じる光源が吊り下げられている。紫外線などダメージを受けやすい波長を強く発するように調整されているのだろう。猫の目には妙にギラギラと目に刺さる光だと感じられた。
「27番スペースこちらです」
「お、あたらしいひとー!ひとー?」
「おー、なにのむのー?こっちで一緒に焼いてくー?」
ろれつが回っていないのはドラッグのせいだろうか。そこに
「ご注文のオイルですー」
タイミングが良いのか悪いのか。
「え、オイルって何ー?」
「どーゆーことー?おいしいのー?」
猫はこういう距離をぐいぐい詰めてくるタイプの人間があまり得意ではない。猫同士の集会なども大昔の話であるし、人とそのようになれ合った経験もない、なので、受け取った大ぶりの杯のような器をちょっとだけ持ち上げると、目だけで会釈をして、オイルを舐め始めた。あくまで平静を保ちながら。そのつもりだった。しかし。
「うぐ……」
猫は化け物であるし、化け猫や猫又の伝承故に油であれば舐めても問題はない。できれば行灯の油がよいし本当はフィッシュオイル100%であれば言うことなしだが、そんなものはこの町では手に入らないし、昔だってそのときそのときの人々によく知られた油を糧にしていた。そんな猫であったが、それでも大きな杯になみなみ注がれた100%ケミカルのギアオイルの味はとてつもなく……とてつもなく化学を感じるもので、猫のヒゲがギザギザになるのではないかというくらいに震え、眉間には激しくしわが寄る。
「キャーかわいい!」
「その格好なにー?自前ー?」
「こっちでもっと美味いもの食べようぜ」
焦点のあっていない、というよりカメラの向きがでたらめになった男がカプセルの入った袋を振っている。
「クスリもあるぜーキクぜーおごるぜー」
なんともまあ、大変なことになった。
店を出てきた猫はよろよろとしていた。
「我々陰の者にはつらいでござる……」
生気のない声が口からこぼれ出る
「あれは陽の者のナワバリでござった……」
「なぜござる口調?」
「陽の気に当てられすぎると我々陰の者はござる口調になるのでござる……」
「我々とか言うなし。俺パリピだし。かわいこちゃんに囲まれてウハウハだったし」
「まあ冗談はさておいて。なかなかおもしろい趣向の店でしたよ。ただ、あれはお天道様ではないですねぇ」
疑似太陽光の降り注ぐパーティーホールで飲み食いして騒ごうという趣向の店で、猫にはその疑似太陽光が気に入らなかった。それ自体が気に入らないのではなく、それが太陽、陽光であると認識されるのが気に入らない。ただ、そもそもこの町で太陽光を知る者などいないのだ。似ても似つかぬものになるのも無理からぬ事なのだろう。
「何度も通って遊ぶことで、塗料の退色や樹脂パーツの劣化を楽しむようですよ。大昔に日焼けするための施設があったようなものですかねぇ。お天道様の日差しというよりは、目に刺さる怪光線といった風でしたよ」
妙に饒舌なのはケミカルオイルの優れた潤滑効果のせいだろうか。
「あれがこの町では、お日様と呼ばれている……なんとも残念な事じゃないですか」
「生身じゃないんだし、お日様の光を浴びて気持ちいいみたいな感覚もないんだ、仕方ないだろ?機械にとってのチョクシャニッコーなんて本来避けるものだろ?」
猫にはその仕方なさ、悪いところしかないはずの体験を、さらにどぎつくしたものを楽しむ彼らが不思議らしい。
「それでも日光浴のまねごとをしたり、ビーチでバーベキューを再現したり……なんなんでしょうねぇ」
「最近会ったガキも、わざわざ機械を雨晒しにするような悪い遊びにハマってたが、確かになんなんだろうなあ」
傘にとっても、昔より遙かに機械にも生き物にも良くないはずの雨にわざわざ当たりたい感覚はよくわからない。人とはそういうものだ、と思ってはいるが。猫は半端なものを見てしまったせいか、雨雲の上に思いを馳せるように、ちらちらと上を見ながら歩いている。