第1話
ばさり。ばさばさ。
耳元で、風がうずまく。
淡く澄んだ空。
高く澄んだ声。
優しく、やわらかく、包みこむ歌声が、耳元で響く。
メロディだけのやわらかな歌は、風に流されていく。
それでも、幸せなきもちだけは、いつまでも残っていた。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた古びた天井が見えた。
「……久しぶりだな……」
口の中でつぶやいて目を閉じ、夢の余韻にひたる。
ずっとそうしていたかったけれど、もう夜が明けていたから、そんな時間はなかった。
ため息をついて、気合を入れて身体を起こす。
完全に起きあがると天井に頭をぶつけてしまうから、背中を丸めて手早く、だけど静かに服を着替えた。
手櫛で軽く髪を梳いて整え、後ろできっちりと結び、大判の白い四角い布で髪と眉毛までをしっかりと覆う。
手触りで髪が出ていないことを確認してから、目隠しの布をめくり、そろそろとハシゴをおりた。
古い二段ベッドはあちこち傷んでいるから、上段にいる私がうかつに動くとギシギシ音がして、下段で寝ている接客係のリサさんにうるさいと怒られてしまう。
半年前までいた孤児院では、一部屋に十人以上が床に敷いたマットの上で一緒に寝ていたから、物置の隅に二段ベッドを置いただけとはいえ、二人で一部屋もらえているだけマシだ。
ギシギシと危なそうな音をたてる廊下と階段をなるべく静かに通り、一階の隅の洗面所で顔を洗い、くもった鏡で髪や眉毛が見えないかもう一度確認した。
見えていたら、また奥さんにいやみを言われてしまう。
念入りに確認してから、厨房に向かった。
この店は、チャイナタウンの中心部から少しはずれたところにある中国料理店だ。
一階が店舗、二階が店主夫婦の住居、三階が従業員用寮になっている。
上客が来た時だけ料理をする店主、料理人の中年男性、料理人見習いの青年、接客係の店主夫人とリサさんに、私を加えた六人で店を回している。
でも、料理人の男性が賄いの食事を作る分には、私は含まれない。
もしかしたら従業員としても扱われていない、雑用係だ。
朝六時に起きて食材の下ごしらえをして、九時の開店から夜十時の閉店まで食器洗い、合間に全員分の洗濯と共用部分の掃除と雑用をして、客が全員帰ったら食器と調理器具を洗って片付け、店内と厨房の掃除をして、風呂にわずかに残った水で身体を拭き、夜一時に寝る。
週一回の定休日は、店内と厨房と倉庫の大掃除と全員分のシーツ類の洗濯と、買い出しに行く。
食事は、閉店後に炊飯ジャーに残っていたライスと作りおき料理の残りを丸めたものを、作業の合間に手早く食べる。
それが、私の毎日だ。
この店で働きだした半年前からずっとそうだったから、慣れたけど、ここじゃない店に就職できたなら、もう少し楽だったかもしれないと思うこともある。
今更どうしようもないし、寮費と食費その他を天引きされて小遣い程度しかもらってない給料ではなかなか貯められず、他の就職先を探しにいく時間もない。
探しにいけたとしても、このチャイナタウンでは、私を雇ってくれるところは見つからないだろう。
一日中こき使われ、何かミスするたびに罵倒されるし、たまには暴力をふるわれることもあるけど、一日一回は何か食べられて、雨風をしのげる寝場所もある。
だったら、せめて一か月暮らせる程度のお金が貯まるまでこの店で働いて、他の町で新たな職を探すしかない。
そう心に決めて、毎日をすごしていた。
☆☆☆☆☆☆☆
その日の昼は、珍しく店主が料理をしていた。
私は営業中に客から見える場所に出ることを禁じられてるから、詳しくはわからなかったけど、店主が自ら出迎えるほどの上客が来たらしい。
その客のために、夕食メニューで、しかも予約でしか出さない特別な料理を作ろうとしていたから、よほど偉い人なのだろう。
でも、予約でしか出さない料理だから、必要な食材が足りず、今すぐ買ってこいと命じられた。
下ごしらえをしていた格好のまま、小走りでいつも買い出しに行く店に向かう。
先に店主が電話をしてあったから、目的のものはすぐに手に入れられた。
私が現金を持たされることはなく、買い物は常にツケ扱いだ。
食材を受け取ると、すぐ店に引き返す。
途中で信号にひっかかり、やむをえず足を止めた。
このあたりを走る車は運転が荒いから、信号無視で飛び出したら、死んでしまう。
店主には大急ぎでと言われたし、おそらく戻ったら遅いと殴られるだろうけど、どうせ全速力で走ったとしても遅いと言われるだろうから、安全を優先しよう。
じっと信号をにらんで待っていると、ななめ前に立つ男性がハミングで歌う声がかすかに聞こえてきた。
「!!」
それは、夢の中で何度も聞いたあの歌声と同じだった。
なぜ、どうして。
呆然としている間に信号が変わり、男性が歩き出す。
とっさにその人の上着の裾をつかんだ。
「待、って」
驚きすぎて声がかすれて、音にならない。
「ん?」
ふりむいた男性は、不思議そうに私を見下ろした。
三十代後半ぐらいだろうか、すらりと背が高く、黒いレザージャケットとグレーのズボン、ゆるやかにうねる黒髪を後ろに撫でつけている。
黒い幅広のサングラスのせいで目元が見えず、少し恐かったけど、きれいに整えられた口ひげは優しげな印象もあった。
「なんだ?
嬢ちゃん、俺に何か用か?」
男性が言いながらサングラスを取る。
砂色の瞳は深い知性が感じられて、ほっと気がゆるむ。
だけど、言葉が出ない。
誰かとまともに話すのは久しぶりなうえに、あせるきもちが空回りする。
「あ、の」
「なんだ?
おちつけ、ゆっくりでいいから、思ってることをそのまま言ってみろ」
優しく促されて、ほっとしながら、そのまま言葉にした。
「私の、お母さんを、知ってるんですか?」
「……ん?」
男性はとまどうように私を見て、考える表情になる。
「……おそらく知らねえと思うが、嬢ちゃんは俺を知ってたのか?」
「いえ、あの、さっきの、歌が」
「歌?」
「あなたが歌ってた、歌。
私が唯一おぼえてる、お母さんの手がかりなんです。
でも、誰も、そんな歌知らないって、言うんです。
だから、同じ歌を知ってたあなたは、お母さんを知ってるかもしれないと思って」
なんとか言葉をつなぐと、男性は納得したようにうなずいた。
「ああ、さっきのアレか。
今日みたいに晴れて空が澄んだ日は、つい思い出しちまうんだよな。
だが、おまえの母親と関係はない、わけでもないか?」
「え?」
男性は少し膝をかがめ、私の顔をのぞきこむようにする。
びくっとしたけど、我慢して見返していると、男性は何かをなつかしむような表情になった。
「心当たりは、ないでもない」
「ほんとですか!? 教えてください!」
「すまねえ、記憶が曖昧なんでな、確認してから話したい。
今から用事もあるし、また後日でもいいか?」
「あ……、はい、わかりました」
今すぐ聞きたいけど、無理強いできることでもない。
ぎゅっと唇をかんでうつむくと、手にしていた袋が目に入った。
そうだ、大急ぎで戻らないといけないんだった。
「あの、すみません、私、店に戻らないといけないので。
また後で会えますか?」
「ああ。連絡先教えてくれ」
言いながら男性がジャケットにポケットから取り出した端末を見て、言葉に詰まる。
「……すみません、端末は、持ってなくて。
店の電話も、私は出られないので、あの、またこのへんで会えませんか?
私、夜の一時から朝の六時までしか出られないんですけど、かまいませんか?」
「……かまわねえが、だったら今夜、いや、ちょっと待て」
男性はまじまじと私の全身を見回す。
なんだか居心地が悪くて、そわそわしてしまう。
「なんですか……?」
「……夜の一時から朝の六時までしか出られないってことは、他の時間は働いてるってことか?」
静かな声の問いかけに、とまどいながらもうなずく。
「あ、はい。あの、今も本当は仕事中で、たまたま買い出しに出てただけなんです。
だから、早く戻らないといけなくて。
あの、今夜、何時なら会えますか?」
最後は早口になりながら言ったけど、男性はじっと私を見つめて何か考えこんでいる。
「あの」
「……急いでるのはわかるが、このままおまえを帰したくねえ、いや、帰すわけにはいかねえ。
今すぐ話したいことがある。
一緒に来てくれ」
「え……」
静かだけど有無を言わせない強さを感じて、とまどいながら見上げる。
男性は、まっすぐ私を見返していた。
誰かと話すのも、まっすぐ見つめられるのも、久しぶりだ。
その事実が、胸をしめつける。
今、この人の申し出を断って店に戻ったら。
一発殴られる程度ですむかもしれないけど、お母さんの手がかりは、二度と得られないかもしれない。
「わかり、ました。
一緒に行きます」
ゆっくりと言うと、男性は表情をゆるませる。
「ありがとよ。
ああ、すまねえ、名乗ってなかったな。
俺は、ディドという。
嬢ちゃんは?」
「アリア、です」