セミの七日
前回から二ヶ月も空けてしまって申し訳ございません!!
そのため、時期外れになってしまった……。
次回作は1月6日に本当に投稿するから! 本当だよ?
Twitter→@harumitu_kurusu
前回作→ https://ncode.syosetu.com/n1305fr/
「一日目 残影」
青い空の下を駆けていた僕は死んだ。だから僕は茶色い地の下でレクイエムを奏でよう。
まさに墓参りのようだ。だって死んだ僕に会いに行くのだから。
電車を降りる。相変わらずの寂しい無人駅だ。別に久しくもない。去年の冬にも訪れたし。僕は改札を抜ける。いつもならコンビニがある場所には、空っぽの残骸があるだけだった。そこの隣に、おばあちゃんの白い車が止まっていた。
僕はおばあちゃんに手を振り、トランクに旅行鞄を詰め込み、車に乗り込む。おばあちゃんと雑談をしながら僕はコンビニ跡地を見る。たった数ヶ月で街の様子はガラリと変わる。なら七年も経てばどうなってしまうのか。
僕は何だか眠くなって、視界が狭くなる。意識がだんだん遠のく。コンビニ跡が右から左へ流れる頃には僕は眠ってしまった。
「今日は何して遊ぼうか?」
赤いランドセルをふりまわしながら、なっちゃんがそう聞いた。ランドセルをゆれるたび、光が反射して僕を照らす。あの感じだと中身は空っぽだ。
「普通に鬼ごっことか?」
「それ昨日もやったじゃん。それに、こんな暑いから、もっと別なことをしようよ」
ケンちゃんは鬼ごっこがしたかったらしく、帽子を後ろに回して、小さく「けっ」と言って舌を少し出したのを、僕は見逃さなかった。
田んぼ、田んぼ、山、バス停。それが僕らが今見えるすべての風景だ。その近くや、遠くで、セミが、音楽リサイタルをしている。僕の好きな場所だ。そろそろ近くに……。
「だったらね、だがしやさん。だがしやさん行かない?」
一番後ろのユキちゃんがおどおどと言った。
「うん、それいいね」
僕は賛成した。ちょうど喉がカラカラだった。「私も別にいいけど、ケンちゃんは?」
「いいぜ!じゃあ、だがしやまで勝負だ! ワハハハハハ!」
ケンちゃんはダッシュで先に行ってしまう。なっちゃんがそれを追いかける。ケンちゃんは僕らのクラスの男子中で一番足が早い。だがなっちゃんもクラスの女子の中で一番足が早いので、どっちが勝つなんてわからない。しかし、僕とユキちゃんは運動が得意ではないので、彼らを追いかけるのは無理だ。それでも僕らは彼らを追いかけた。
「きゃっ」
途中、後ろを走っていたユキちゃんが転んだ。当然だ。そのピンクのランドセルにははちきれんばかりに教科書があるのだから。
「はいよ」
僕は倒れた彼女に手を差し出す。
「あ、ありがとう」
「怪我とかない?」
「うん。大丈夫、かな」
「そうか。ならよかった」
「おそい!まったく、しゅーくんに、ユキ、なにやってるの?」
先に行ったなっちゃんとケンちゃんが戻って来た。
「ユキちゃんが転んだみたいで……」
「うそ!? ユキ大丈夫? もう、しゅーはなにやってるのよ!」
「どうして僕が……」
なっちゃんがユキちゃんの近くにいく。
「うん、大丈夫。ありがとう、なっちゃん」
「大丈夫ならさっさと行こうぜ。もう俺暑くて、暑くて」
ケンちゃんは、さほどどうでもいいらしく、彼の頭はチョコアイスに支配されていた。
「ケン、ユキのランドセル持って」
なっちゃんはそういうと、ユキちゃんのランドセルを取り、ケンちゃんに渡す。
「なんで俺が……」
ケンちゃんはいやそうな顔をする。
「あんたがこん中で一番力持ちでしょ。ほら持った持った」
「はー。わかったよ」
しぶしぶケンちゃんはユキちゃんのランドセルを持つ。ユキちゃんは小声で「ありがとう」と言う。
「じゃあいこうか」
なっちゃんは、僕とユキちゃんの手を引っ張り、走り出した。
八月も後半だというのに暑さは続く。僕たちの心のように、空は晴れやかで、なんだか心地がいい。僕たちは笑いながら田んぼに挟まれた土道を駆けていく。僕たちは夏の中にいる。
「バタン」
車のドアを閉める音が夢の終わりだった。古臭い二階建ての家。二階のベランダの脇には、以前蜂が巣を作ったのを取った跡が残っている。隣には物置代わりの離れ。小さい頃は、お宝かなにかが眠っているかと思うと同時に、幽霊が出そうで、夜には窓を絶対に見なかった。ここは何も変わっていない。
「久しぶりにちょっと散歩してくるよ」
荷物を置いた俺は、おばあちゃんにそう言うと、散歩に出かけた。
畑、畑、畑。しばらくはずっとこの景色が続く。雑木林を抜けると、見覚えのあった景色になる。
田んぼ、田んぼ、山、見る影のないバス停跡。空はオレンジがかり、なんだかとても寂しい。セミが七日間限定のレクイエムを奏でている。その声は僕を共に地獄へと引き込むように、「死ね死ね死ね死ね」といっているように聞こえる。
僕はただ、ただ道を歩いた。もうすぐ大学受験で、本来はこんなことをする暇すら惜しい。だが、僕は何だか無性に歩きたくてしょうがなかった。
夕方とはいえやはり暑い。僕は汗をハンカチで拭きつつ歩くと、駄菓子屋さんのある道に出た。車が猛スピードで僕の残像を轢いていく。その瞬間、僕の頭に懐かしい思い出が蘇る。
「おばさん、これくーださい」
「はいよ」
僕はソーダアイス、なっちゃんはオレンジアイス、ケンちゃんはチョコアイス、ユキちゃんはバニラアイスを買った。いつも、いつも僕たちは同じアイスをバラバラに買う。かぶることはない。
アイスを買ったあと、僕たちはお気に入りの、だがしやさんの前にあるベンチで、四人並んで座り、食べる。
「それにしてもしゅーくんは本当にソーダアイスが好きだよね?どうして?」
隣でオレンジアイスを食べるなっちゃんが言う。
「なんだろうな。なんとなく好きなんだよ」
「なにそれ」
彼女はバカにしたように笑う。
「なんというか……昔の味がするからかな?」
「おじいちゃんかなんかなの?」
「違うよ。僕は立派な小学生だ」
「そのわりにずいぶんと大人びてると思うけど」
小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて育ったからか、昔からよく、行動や言動がおじさんくさいだの言われてきた。
「このあとどうする?」
僕がソーダアイスをしんちょうに食べながら聞く。
「どうしようか?」
なっちゃんはガブガブとオレンジアイスをほうばりながら言う。
「やっぱり鬼ごっこしようぜ!」
ケンちゃんは、もうチョコアイスを食べてしまったようで、アイスの棒を手に持ち、立ち上がりながら言う。
「……」
ユキちゃんは、バニラアイスを、宝石のように真剣にじっくり食べていて、聞こえていないようだ。
「こんなに暑いし、児童館は?」
「お、しゅーのわりにいいこというじゃん」
「えー、鬼ごっこしようぜー」
「児童館には体育館あるし、そこでやろうよ」
「お、そうだな。じゃあ行くか!」
ケンちゃんは先にかけてしまい、大きな坂を上っていく。なっちゃんと、僕が追いかける。みんながいないことに気が付いたユキちゃんはあわてて追いかける。あーあ、こんな時間がずっと続くといいのにな。
車がもう一度通り、彼等の像を潰し行った。駄菓子屋はシャッターが降りており、シャッターにはスプレーで落書きがされている。かき氷の看板の色が落ち、乾いた血の跡のようになっている。ベンチは半分壊れていて、とても座れそうにない。
僕はベンチに座りたい衝動を抑え、隣の比較的新しいコンビニで、オレンジのアイスを買った。
そういえば、この道の先に児童館があり、その中に図書館もあった。そこなら受験勉強にも集中できるだろう。今行ってもいいが、ここに来るまでかなり時間がかかったので、明日、自転車にでも乗りながら行こうと、来た道を引き返した。
まだ、日が暮れるまで時間があるが、心なしか、最近短くなっている気がする。いつもなら、目的地へ向かうための時間に、家に向かっているのはなんだか不思議だった。
自宅近くの大きな木にセミが止まり鳴いていた。近くにはセミの抜け殻があるので、そこから抜けたばかりなのだろうか。セミは悲しそうに鳴いていた。
「二日目 思いがけない再会」
「疲れたー」
「おめえら遅いぞ!」
なっちゃんに連れられて僕とユキちゃんは、ようやく児童館に着いた。坂の上にあるこの児童館は、かなり古いが、手入れがきちんとしている。しかし、来場者はおじいちゃん、おばあちゃんぐらいで、子供は少ない。そのため僕たちにとっては絶好の遊び場である。
「よーし、じゃあさっそく、鬼ごっこしようぜ!」
ケンちゃんはうでをぶんぶん振り回す。
「ま、待って。少し休ませて」
「ぼ、僕も」
「はあ!?」
「ユキはいいとして、しゅーは男でしょ?全くみっともないんだから」
僕とユキちゃんの体力は限界だった。
ただでさえ体力がなにのに、急な坂を走って登らされたのだからしょうがない。
「ごめんね。僕たち図書館にいるから、先に遊んでて」
「わかったよ。じゃあ俺たち、体育館のほうで――」
「じゃあ私も図書館行くから、一人で先に体育館いってらっしゃい。よろしく」
「はあ!?」
本日何回目だろ。ケンちゃんはいつも驚いている。
また僕とユキちゃんは、なっちゃんに引っ張られて、図書館の方へ向かう。しばらく考えていたケンちゃんもあきらめて、図書館の方へ歩き始めた。なんだかその光景がとても微笑ましいように感じた。ユキちゃんも同じだったのか、僕と向かい合って、笑うのだった。
自転車を使い、急な坂をなんとか上りきり、僕は児童館に着いた。相変わらずここでも思い出が蘇る。僕はすっかり汗だくで、涼しさを求め、児童館の中へ急いだ。
児童館は相変わらず古かったが、今の児童館はどちらかというと廃墟のように寂しかった。全体的に暗く、やっているかどうかも怪しかったが、扉は開いていたので、やっているようだ。
中に入ると、段ボールなどが沢山積んでおり、いっそう営業しているのか疑問に思う。受付の人がいたので営業はしているようだ。
掲示板に一枚だけ細々と紙が貼られていた。「当館は九月をもって閉館とさせていただきます」と書かれていた。
確かに子供のころからあまり利用者は少なかったから、こうなることに不思議はない。だが、やはり自分が知っている場所がなくなるというのは何とも言えない気持ちになる。それにこの場所は……。
思い出に浸るのは後だ。浸ったからといってあの日常が再び戻ることはないのだから。
小学校に入学した僕は、なんだかなれなかった。
別の県の、幼稚園に通っていて、小学校に上がる前に引っ越したため、当然知っている友達がいなかった。そして、やや周りより大人びていたから、それが余計な壁を作った。入学当初、僕は学校が終わるとすぐに、児童館の図書館に来て、本を読んでいた。
「この児童館はとても居心地がいい。授業がここでできたらいいのに」
僕はそれほど児童館を愛していた。
ある雨の日。いつものように児童館に行くと、玄関にずぶ濡れの女の子がぼーと空を見ていた。
その子に見覚えがあった。確か同じクラスの、声が大きくて、いつも男子相手にケンカをしている子だ。
僕は来た道を引き返そうとした。しかし、彼女をよく見ると、傘を持っていない。多分忘れてしまって、走って帰ったけど無理で、屋内に入れる、児童館に避難してきたのだろう。彼女は雨が止むまで家に帰れないのだ。
傘を貸そうにも、僕の家はかなり遠いので、傘なしでは帰れない。当然、二本持っていることなどなかった。だけど、僕は少女に傘を貸してあげることにした。
「え?いいの? そうしたら、君のがなくなっちゃんじゃ……」
「いいよ。雨が止むまで図書室にいればいいし。最悪、お迎え呼べばいいし」
「本当に、本当にいいの?」
「いいよ」
すると、さっきまで真っ白だった彼女の顔が急にオレンジ色になる。
「ありがとう!これ明日返すね。じゃあね、しゅー!」
彼女は僕の傘を走りながらさすと、坂の下に消えた。
「まったく。そんなことしたら転ぶよ! あれ、今僕の名前……」
彼女はどうやら僕の名前を覚えていてくれたようだ。僕は彼女の名前を知らなかったのに。
「明日、名前聞こ」
僕は図書館へ歩きだした。
それが、夏海。なっちゃんとの出会いだった。
図書館に入ると、やはり活気がなかった。何冊かの本は、端のほうに積まれ、段ボールが散乱している。僕はそれを無視して、テーブルの方へ行く。僕は他人の視線が嫌いだ。自意識過剰かもしれないが、彼女らが笑えば自分を嘲笑うように聞こえるし、彼らが見れば「なんだこいつ」と蔑うんでいるように見える。だからここならそんなことを気にせずに勉学に励める。そう思っていた。
世の中都合よくいかない。自分が予想した観測はだいたい外れる。現実は自分の想像がつかないことで満ちあふれている。そう、今日のように。
「つまんないー」
なっちゃんは読んでいた漫画を放り投げ、机に伏してしまう。ここの図書館はあまり子供の姿を見ず、どちらかというとおじいちゃん、おばあちゃんばかりだ。そして今日は暑いからか誰もいない。だからここは子供の楽園だ。
「早く鬼ごっこしよーうよ」
とうとうケンちゃんみたいなことを言い出したが、肝心のケンちゃんは試しに読んだ長編漫画が面白かったらしく、あっちのほうで食い入るように見ている。ユキちゃんは借りたい本を見つけたらしいが、図書カードを忘れたため、取りに戻っている。そういう僕は面白いミステリー小説を見つけたため、それに夢中である。
「そんな文字ばっかの本読んで、よく楽しいね」
「面白いからしょうがないじゃん」
なっちゃんのそんな小言とやり取りしながら読み進めていく。なんだかこのやり取りが懐かしく感じた。
そろそろ物語はクライマックスだ。探偵が犯人を追い詰めていく。犯人は被害者の好みをあらかじめ知っており、一つだけ被害者の好物を作っておき、そこに毒を入れて殺害したというところで、ある疑問が湧いた。
「そういえば、なっちゃんは、なんでオレンジアイスが好きなの?」
さっきのだがしやさんでの、アイスの話である。
「なんでだろ?好きだからじゃだめなの?」
「……いや、そうじゃなくて。理由とか」
「うーん。私に似ているからかな?後はオレンジ色が好きだから!」
「似ているというのはどの部分だろう?元気なところ?」
「それもあるけど。ほら、オレンジはさ、甘いけど、甘すぎないじゃない?しつこい、太陽になりたいわけじゃなくて、お月様みたいにちょうどいい光で照らせるようになりたいの!・・・・・・ごめん、私何言ってんだろう。よくわからない」
「うん、わかったよ。聞かせてくれてありがとう」
なっちゃんは月になりたいようだ。なっちゃんはただ元気で活発というわけではなく、きちんと周りに気をつかえるいい子だ。
さらに、ケンカも強い。この前なんて低学年をいじめる、六年生相手に勝っていた。
すると、ユキちゃんがパタパタと帰って来た。
「ごめんね?待たせたよね、きっと」
「大丈夫だよ。ところでさ、今なっちゃんと好きなアイスの話していたんだけど、ユキちゃんはなんで毎回、バニラなの?」
ユキちゃんに問いかける。
「うーん。何というか、バニラはね、ただの牛乳を冷凍しただけで、みんなあまり食べないし、何もない感じが私に似ているな、とか思って……」
「そうかな?僕はバニラ好きだけどな」
僕は正直な感想を述べる。
「そうなの?でも、いつもソーダアイスじゃん」
「それは僕が好きだからだけど、バニラアイスはすごいよ!チョコアイスだって、抹茶アイスだってベースはバニラアイスだよ。つまりは努力と工夫しだいでなんにでもなれる。マジすごい」
「なんでいつもよりテンション高いのよ……」
「そうだよね。なんかおかしい」
なっちゃんがもっともなツッコミをする。ユキちゃんは小さく笑う。すると、漫画を読み終えたのか、ケンちゃんがやってくる。
「おい、お前ら!なに俺を除いて楽しく会話してんだ」
「今、好きなアイスの話しているんだ」
僕が説明する。
「そうなのか。では、遂に来たな。俺がチョコアイスを食べている意味が、そう、それは――」
「一番大きいからでしょ?」
なっちゃん、ベストタイミング。
「なんだお前!?どうしてそれを」
「ケンちゃんは、基本、体を動かすことと、ご飯のことしか考えていないじゃん」
「あと、早食いだし……」
僕とユキちゃんが援護する。
「お前ら!!もう好きにしろ!」
ケンちゃんは、かっこつけたのに、こけてしまったからか、顔を真っ赤にして出て行ってしまった。僕となっちゃんとユキちゃんは、謝りながらケンちゃんを追った。どこか遠くでセミがひたすら鳴いていた。
暑い太陽の日差しが薄暗い部屋を照らしている。その斜めの陽光を避けるように奥の隅っこの机に、白いTシャツを着た、髪の長い女性が勉強道具を広げて、なにやら書いている。勉強道具を見るに、学校の勉強ではなく受験勉強か、それとも夏休みの課題か。歳は僕と同じくらいだ。多分僕の知り合いだが、僕は迷っていた。
最初はなっちゃんかと思った。しかし、なっちゃんはこんな図書館に似合う女性ではない。だが、なんだかユキちゃんと言うには違うような気がした。
何かここから抜け出すきっかけになるのではないか。また、あの楽しい日々が戻るのではないか。僕はそれを期待して、話しかけることにした。
「あの、すみません」
彼女が手を止め、こちらを見る。暗闇に映える長い黒髪。すらっとした背筋。そして化粧気は薄いがそれでも伝わる整った顔。ユキちゃんをちょうどそのまま大きくさせたような、そんな感じだった。
「その、人違いだったら申し訳ないのですが、ひょっとして、有本由紀さんでしょうか?」
「……」
彼女は僕をしばらくじっと見て、「ふーん」とだけ言い、こう続けた。
「そうです。私が有本由紀ですが。今頃になって顔を出すとは、どのような要件でしょうか?私はお金は貸しませんよ?望月舟くん」
これはあまり歓迎されていないようだ。当然か。僕は七年前に引っ越して以来、一度も彼女とは会っていないのだから。
僕は七年前のちょうど夏。母親が再婚するということで、今いる母親の実家から、東京へ引っ越すことになった。
当然僕らは泣き、抱き合い、再開を誓った。だけど僕たちはまだ子供だった。当時は携帯もないので、連絡のつきようもなく、おまけにお互いの家を知らなかったのだ。毎日のように遊んでいたのに、そういうことは、ほとんど知らなかった。
僕は夏休みなどでおばあちゃん家に行くときは、みんなと会うために児童館に行った。駄菓子屋さんに行った。学校に行った。公園にも行った。だけど陽炎があるだけで、みんなはいなかった。
いつだっただろうか。僕はみんなを探すのを止めた。
だが、運命のいたずらだろうか。必要な時に見つからない物のように、会いたくない時に限って会ってしまう。会ってしまえば僕は声をかけてしまう。声をかけてしまえば、嫌でも実感しなければならない。
「あの、久しぶり。僕のこと、覚えていたんだ」
「当たり前でしょ。裏切り者なんだから」
いっそのこと忘れてくれたほうが良かったのにな。こんなやつ、覚えていても仕方ないのに。
彼女はあからさまに「私、超不機嫌です!!」みたいな顔をしている。
「その件は本当に申し訳ないと思ってる。ほら、この通り」
僕はペコリとお辞儀をする。正直言うとめんどくさい。確かにこちらに責任というのもあるが、もう七年前の話だ。そんな話を未だにネチネチと嫌味たらしく覚えているなど、よほど、この七年間で性格が歪みまくったのだろう。昔は大人しくて、優しい、いい子だったのに。
「あんた、ケンカ売っているわけ?そんなので責任取ったつもりなの?」
ごめんで済んだら警察いらない理論のやつか。めんどくさい。しかし、こちらに非がある以上、ぐうの音もでない。
「誠に申し訳ございませんでした」
僕は全力で床に足をそろえ、土下座をする。彼女は気に入ったのか、若干顔色が薄くなる。
「……まあいいわ。それじゃ私勉強するから」
「あ、うん」
僕は立ち上がると、僕なんか最初からいなかったかのように、勉強を始めた。そこで僕はようやく、彼女との関係を思い出した。もう過去を知っているだけの他人だということに。
図書館をそうそうと出て行った僕はなんとなく自転車を押して家まで帰っていた。おばあちゃんの家は児童館や学校などが集中する場所から、かなり離れているので、徒歩でいくとなかなか時間がかかる。よくこんな道を徒歩で通っていたなと幼少期の自分に驚きながら、坂道を下る。
散々な再会だった。少ししか話せなかった。おまけに勉強は全く出来ていないので、家に帰ったらやらねば。
これで良かったのかもしれない。僕と彼女とは、とっくの昔に関係が終わったものだから、今さら再会したところで何か変わるわけではない。これでいい。これでいいのだ。
家の前まで着くと、相変わらず木に張り付いているセミを見つけた。こいつは昨日のやつだろうか?そんなはずはないかと、僕はすぐに興味を無くし、庭へと入っていた。セミが遠くでせわしなく鳴いていた。
「はあーあ」
大きなため息と共にベッドに横になる。そして昼間のことを思い出す。本当は会えてとても嬉しかった。だけど、その態度は許せないものだった。一度決めたことを何年も、何年もぐちゅぐちゅ悩み、ようやく実行しようとした矢先、出会ってしまった。本当にずるい。そしてつい冷たい態度を取ってしまったのだ。これは私のせいじゃない。こんなの私じゃない。全部あいつが悪いのだ。
「明日も来るのかな? 絶対来ないよね……」
私、夏海は、乙女のようにうじうじする。いや、私乙女ですけど。布団をバタバタと蹴っていたが、飽きてしまって、うつ伏せになる。夏場ということもあり、若干布団が蒸し暑い。
後悔しても仕方がない。過ぎてしまったことを悩むほど馬鹿らしいことはない。だけど、だけど……。
なんでこんなタイミングで現れるかなー。もっといい時なんかたくさんあったじゃん。神様がいるならひっぱたいてやりたい。
ザ―と、いう音とともに、雨が降ってきた。私は慌てて開けっ放しの窓を閉め、クーラーをつける。
クーラーの風が熱く火照った体を冷やす。そういえばあいつと出会ったの、こんなひどい雨の日だったな……。
児童館で傘を借りていらい、私はよくその子と時間を過ごすようになった。私が暇なとき、鬼ごっこで逃げるとき、雨のとき、私は児童館の図書館に行った。行けば必ず会えた。
いつも難しそうな本を読んでいて、こっちの話を聞いてくれないから、こちょこちょしたり、筆箱にいたずらしてみたりした。すると彼はいつも面白い顔をする。私はそれが楽しくて、楽しくて毎日のようにやった。本当に最低だ。だけど後悔はしてない。
みんなで遊んだときも楽しかったけど、二人のときも楽しかったね? 聞いてる? 覚えてる?あの日の事。 忘れちゃいやだよ? ねえ? 私さ……。
誰かにあてた声が虚しく響いた。
「三日目 明日は晴れるだろうか?」
どうしようもない暑さが続く。もう昼時なのに、心なしか通行人の数も少ないような気がする。僕はそんな中、勉強道具を籠に入れ、自転車で坂を上っていた。
あまり気持ちが進まないが、今日も図書館に行こうとしている。別に僕がマゾヒストとかそういう訳ではない。勉強をしようにもおばあちゃの家には集中して勉強できる場所がないのだ。僕は気まずさよりも、勉強を取った。だから仕方がない。それに彼女とて毎日来ているわけではないだろう。
……僕は誰に言い訳しているのだろう?
自分に言い訳をしていると、あのぼろい建物が見えて来た。僕は蜘蛛の巣が張った自転車置き場に乗り物を置くと、もう一つ自転車が置いてあった。その自転車には近くの高校のシールが寂しそうに付いていた。間違いない、彼女だ。
僕はただでさえ重い心を海のように沈め、自動ドアをくぐった。図書館の前に着くと、その気持ちがいっそう沈んだ。
大丈夫だ。彼女は僕のことを他人としか見ていないはずだから、こっちから話しかけなければ大丈夫だ。
静かにドアを開け、中を見る。ここは相変わらず埃くさく、積まれた本がそのまま放置されていた。そして、やはり彼女は奥の机に日光を避けるように座っていた。今日は、青いワンピースを着ていた。その青さが彼女にとても似合っていた。
この部屋、いやこの児童館は、まるで時が止まっているかのようだ。
僕は静かに手前の席に座り、勉強道具を広げた。筆箱に、参考書、ノート、そしてイヤホン。僕は音楽を聞いての勉強が好きだ。好きな音楽を聞きながらやる勉強はゲームじみていて、あっという間に終わってしまうような気がするからだ。
彼女はこちらに少し目を向けると、すぐに目をノートの方へ移した。僕は最初こそ彼女に何度か目を向けていて、集中できなかったが、だんだん勉強の方へ集中していき、気が付くと夕方になっていた。
夕方になり、もう帰ろうと支度を始めると、彼女の方もガサガサやり始めた。途中まで道が同じなので、一緒に出ると気まずい。だから僕は必要以上に準備に時間をかけた。シャー芯を取り換えてみたり、小さくなり、邪魔になってきた消しゴムのカバーを切ったりなどなど。
そんな感じで時間稼ぎしていると、彼女がこちらのテーブルまできて、立ち止まった。嫌味かなんか言われるかと思った僕は無視して支度をするふりをする。
だが、彼女は嫌味を言うどころか、何も言わずじっと待っている。さすがに気まずくなった僕は、沈黙に負けて彼女にその真意を聞く。
「……どうかしたの?」
「いや、なにも」
「あ、はい」
「……」
なんだろうかこの沈黙は。僕は強硬手段に出ることにした。支度を終え、カバンを持ち立ち上がると、彼女に「じゃあね」と軽く挨拶をして出ることにした。彼女は一瞬のことで驚いていたが、そんなのは無視だ。ドアが近づく。これでようやく解放され――
「ちょっと待って」
突然、カバンを彼女につかまれた。
「何?」
「あの、その……一緒に、帰ろう」
彼女は消え入りそうな声を振り絞ってこう言った。そんなこと言われたら……帰るしかないだろ。
彼女とコンビニまで行き、彼女は「アイス奢るから待ってて」と言い残し、僕は暑い外で待っていた。ちなみにこれが唯一まともな会話で、これまではお互い、無言だった。
しかし、急にアイスを奢られるなんてどういう風の吹き回しなのだろう。ソワソワしながら待っていると彼女が二本のアイスを持って、コンビニから出て来た。オレンジとソーダ。僕がいつも食べるアイスだ。
「はい、これ」
彼女はソーダアイスを僕に渡す。僕は「ありがとう」と感謝を述べ、ソーダアイスを受け取った。彼女はそれを見届けると、オレンジアイスを食べ始めた。
山の間から見えるオレンジ色の太陽がソーダアイスを照らし、光を放っている。空には大きな入道雲。古びた駄菓子屋の残骸にセミが止まり、泣いている。僕はそんなとりとめのない景色のなか、彼女と横に並んでアイスをほうばる。ほどよい甘さが僕の乾いた喉を潤す。
「あのさ、有本」
僕は先ほどからの疑問をぶつける。
「ユキでいいよ」
「じゃあさ由紀。どうしてアイスを奢ってくれたの?」
「別に深い理由なんかないわよ。ただ昨日酷いことを言ってしまったから、そのお詫び」
「真実なんだからしょうがない」
「まあ、そうなんだけど。貴方だって好きでしたわけではないでしょ? それに私たちも悪かったから……」
僕は引っ越しが決まった時に、みんなに嘘をついた。引っ越しの日を一日 長く言ったのだ。
どうしてそんなことをしたのかわからない。だけど僕はまた会おうみたいな送別会が嫌いだった。消えるなら完全に消えてしまいたい。
そんな矢先、友達から、なっちゃん達が前日にサプライズパーティーをしようとしているのを聞いた。本来なら喜ぶべきことなのだが、その時の僕は精神不安定で、本当に信用できると思っていた友達に、隠し事されたのが、なんだか非常に腹が立って、多分僕はそう言ったのだろう。今思うとただ意地を張っていただけだ。
「何というか、ごめんね」
だから僕はとりあえず謝ることにした。
「こちらこそ、ごめん」
両者が謝り終えると、急にセミが、ミンミン喧しく鳴き始めた。夏はまだ続く。思い出もまだ続いている。だけど現実はそうはいかない。今あるものはいつかなくなる。永遠なんてないんだ。そんなことを思いながら、僕はドロドロに溶けたアイスの一欠けらにかぶりついた。
分かれ道。僕は左に、彼女は右に。お互い家は知らないけど、僕と三人が唯一知っている家への道。
「じゃあね」
僕は別れの言葉を淡々と述べると、自転車に乗り、駆けだそうとする。すると彼女は「待って!」と言って引き留めた。
「明日、再開記念会をしようと思うの。もちろん四人で。だから、参加しない? 今度は秘密にしないから……」
きっと送別会が出来なかったことの償いだ。もちろん僕には、特に不満はない。あの時の負債をかえさねば。そして、なっちゃんに会わなければ……。
「わかった。場所は?」
すると彼女は目の奥をキラキラと輝かせ、嬉しそうに概要を語る。本当に昔から感情がすぐ顔に出るのだから。僕は懐かしみで心が満たされると同時に、腹の中で蠢く何かを感じた。
帰り道。僕は昔を思い出していた。まだ、けんちゃんにも、ユキちゃんもいない。遠い、遠い、二人の夏。
僕はひ弱で、それでいて、いつも一人だったから、いじめっ子に目をつけられていた。ある日、死んだおじいちゃんから貰った大切な栞を取られ、一人図書館で泣いていた。
僕のおじいちゃんは有名な小説家で、かなりの本を出していた。だから家にはたくさんの本があって、僕はその影響もあり、読書が好きになった。おじいちゃんは僕のことを心底可愛がってくれた。そんなある日、僕はおじいちゃんに栞を貰った。
「おじいちゃん。なにコレ?」
僕はそれを不思議そうに眺める。数字の1を上下反対にしたような文字が書いてある。
「それはな、おじいちゃんが東京に行くときにおばあちゃんに渡されたんや。おばあちゃんと儂は、昔はずっと一緒だったんじゃが、東京に引っ越してから離れ離れだったんじゃ。もう二度と会えないと思った矢先に、小説の賞を取ったときに出会って、そして結婚できたなんて、運命とは面白いものじゃなあ」
「のろけはいいよ。それで、これはなんなの」
おじいちゃんは少し顔を赤くする。
「すまん、すまん。確かルーン文字だったかのう。もともと民間で使われていたのじゃが、次第に古めかしいのが、神秘的だなんのとか言われて、魔術に使われた、ようは呪文じゃよ」
「どんな呪文なの?」
「復縁じゃよ」
その後、おじいちゃんは脳卒中で亡くなった。おじいちゃんはお酒と煙草が大好きだったから、たぶんそれが原因だろう。
おじいちゃんともう一回会いたい。おじいちゃんと復縁したい。だから僕は栞を大事に持ち歩いていた。その栞を取られたのだ。
僕はもうおじいちゃんに会えないという悲しみと、取り返しにいけない悔しさで、目を涙で満たした。雫が頬を伝い、下に落ちる。
ああ、僕はどうしてこんな惨めなんだろう。
誰か助けてよ。誰でもいい。誰か・・・・・。
「話は聞いたわよ!」
ドアが大きく開く。そして聞きなれた声が静かな図書館に響く。司書さんが「静かにしろ」という目線を向けてくるが、彼女はその視線を無視して、僕の手を掴むと、強引に引っ張った。
「痛い、痛い!」
「それはあなたが弱いから痛いの。まったくなさけない!」
彼女に連れられ、児童館を出る。
「どうしたのさ、急に」
「とぼけるの!? さっさとぶっとばして、取り返すわよ!」
「なんでそれを……」
「私の友達から聞いたの。まったく世話がやけるわね!」
坂を下り、河川敷の階段を下る。そこは僕をいじめた、いじめっ子のたまり場だ。
「あいつらはすごく強いよ!いくら君でも勝てるわけ……」
「それはなに? 私が女だから? 男でも負ける人がいるなら、女でも勝てる人がいるはずよ。それが私」
彼女はどんどん行ってしまう。いやだ、いやだ。僕が傷つくのはいい。だけど、彼女には怪我しないでほしい。だって、彼女は、彼女は……。
「友達だから」
僕の言おうとしたことを知っていたように言う。
「友達だから助けたい。それじゃだめかな?」
そうだ。彼女は友達だ。僕は友達でも、心のどこかで彼女はそうは思っていないのではないかと疑っていた。だけど違う。彼女はこんなひ弱を、友達と言って、助けようとしている。だったら彼女の期待に応えよう。だけどその代わり。
「約束! いつか君を、助ける! だから、僕を助けて!」
情けない約束だ。でも、今の僕はこれが精一杯だ。それを見て彼女はにっこりと満足そうに笑う。あまりに大声を出したため、いじめっ子たちがこちらを不思議そうな目で見ている。
彼女は僕の手を離し、いじめっ子の前に立つ。
「よくも私の友達を泣かせたわね! 覚悟しなさい!」
「なんか女がほざいてやがる。てめえらやっちまえ!」
あまりに典型的な三下のようなセリフを吐くもんだから、なんだかおかしくなって笑ってしまう。
いいかお前たち。彼女は強いぞ。
彼女はいじめっ子たちをボコボコにして戻って来た。もっとましな表現はないのか? 他に表現できないからしょうがない。
彼女は「ほら」と言って、栞を差し出す。僕は栞を手に取ると、また雨が降ってくる。でもこれはさっきの悲しい雨ではない。植物を元気にする、その類の雨だ。
「じゃあ私はこれで。次回は気を付けなさいよ!」
彼女はそう言うと、走って帰ってしまった。僕はその後ろ姿を見ながら、栞を手で握る。
彼女にこれを使うのは多分ないな。だけど、どうしてだろう。なんだろこの気持ち。僕はその気持ちを理解できなかった。だけど、けして悪いものではなかった。
八月のあの日。僕は初恋をする。でも、彼女はその気持ちなんかわからないよね。あの日も。
今も。
彼と別れた道の途中。私はある人に電話をした。本当は電話を絶対したくない相手。だが、今回は彼女の手助けは必要だろう。ワンコール立たないうちに電話が繋がる。きっと携帯でもいじっていたのだろう。
「もしもし」
「もしもしー! 夏海! 珍しいね電話してくるなんて」
明るくて元気な声がきこえてくる。私とは真逆の。
「あなたに相談よ」
「へーえ? 頼ってくれるなんて嬉しいな! もしかしてあれのことかな?」
彼女のニヤニヤする顔が画面越しでも伝わってくる。本当に変わったな。高校デビューというやつ? そうしたら私は高校引退というやつなのかな。
「まあ、そんな感じ」
「え!? 本当に!?」
彼女はおおげさに驚く。私はその声に少しびっくりする。
「そんなに驚くことなの?」
「でも、今になってあの話でしょ? 何かあったの?」
「実はさ、彼と会ったの」
「彼……まさか!?」
「そう、そのまさか」
「信じられない」
私だって信じられない。こんなことが実際起こるなんて。だけど、現実に起きているのだからどうしようもない。
「それで、その件について相談なんだけど」
「……」
「夏海のふりをして」
しばらくの沈黙。そりゃあそうだ。私は明らかに変な話をしている。
「それは、どうして?」
「彼は私のこと、あなただと思っているし、それにあなただって本望でしょ?」
私は馬鹿だ。またチャンスを、今度は自分の手で逃そうとしている。しかも、最悪な状況で。
「ふーん。あっそ。相変わらず面倒くさい女になっちゃったね。いいよ。その話受けるよ」
「なら、その――」
「その代わり。彼は私がもらうよ」
「……うん。いいよ」
ミンミンミーンとセミの声がする。見ると木にくっついているのを見つけた。この声は好きだ。なぜならいつでも昔の夏に浸れるから。あの暑い日に。
私は携帯電話を片手に、夕日に向かって歩いていった。
私はからかいたかっただけ。こんな嘘、すぐわかるし。だからこれは単純な私の興味。
別に、夏海として彼と接せるのが怖いというわけではない。けっして。
私は諦めた。なのに諦められない自分がいる。だからそれを終わりにしたいだけだ。
そのために、現に悪魔に契約をした。私によく似た悪魔に。これで彼女は完璧な夏海になった。ここにいるのは、由紀が捨てた残骸。それが私。
ねえ、君は私の気持ちなんて理解できないでしょ、きっと。今も、昔も、未来さえも……。
「四日目 日々の帰還」
指定された通り、朝の七時前に児童館に着いた。児童館周辺は木に覆われていて、ただでさえ暗いのに、電気がついていないことでより一層不気味に見える。まるで魔女の館だ。
これから、あの3人に再開する。責められたどうしよう。嫌われていたらどうしよう。そんな不安が僕の胸を掴み取る。しばらくすると体格がまさに運動部ですと、いわんばかりの男が、自転車を引き連れて来た。こちらに気づくと、なにやら辛気臭い面でこちらを見た。
「えっと、舟だよな?」
「うん、まあ」
すると健は人懐っこい笑顔を向ける。
「よう、舟! 元気だったか? 相変わらずひょろひょろしているから、やっぱりお前だと思ったぜ」
「こちらこそ、相変わらず運動が好きみたいだね」
「おうともよ! 今サッカー部の部長してるんだぜ、俺」
「そいつは凄い、ね」
高校三年の夏にまだ部長ということは、大会は9月くらいなのだろうか。
「お前は部活、何やってんだよ」
「帰宅部」
「ははは、お前らしいな」
どこらへんが僕らしいのか。僕は中学までは部活をしていたし、むしろ帰宅部の奴らを軽視していたほどだ。今ではお家に帰る楽しさを覚え、帰宅部ライフを満喫している。
「そろそろあいつら来るんじゃねえか? ほら、あそこ」
僕は彼が指を指した方を見ると、夏海と由紀がいた。夏海はセミロングといっただろうか、僕は女の子の髪型に詳しいわけではないが、そんな感じの髪型をしている。服装は全体的にカジュアルと表現していいのだろうか。対象的に由紀は黒目の服を着、図書館で会った時と変わらないような服装をしている。本当に昔から変わらない。
「やーほ! 久しぶり。元気にしてた?」
夏海は気楽に話しかけてくる。
「久しぶり。まあ、元気だったかな」
「なにそれ」
「そうとしか言えないだろ」
「そうだね。舟らしいや」
また僕らしかったようだ。君たちの思う僕はとっくのとうに捨て去ったと、思ったはずなのに、どうやら僕はちっとも変わっていないようだ。まるで僕が成長していないとでもいわんばかりに。
「それで、どこに行くの?」
後ろの方で黙っていた由紀が口を開いた。
「健が焼肉屋予約したから、そこでパーティーかな」
「早く行こうぜ! 焼肉が俺を待っている!」
「焼肉が待つわけないでしょ・・・・・・」
健は先に自転車をこぎ出し、夏海がそれを追いかける。僕と由紀は相変わらず彼らの背中を追う。懐かしい。本当に昔に戻ったみたいだ。あんなに鬱陶しいセミの声すらも、プロのアーティストが奏でる曲のように聞こえるくらいだ。
「ちょっと待ってよ!」
僕は彼らを追いかけた。由紀もそれに習い追いかける。残されたのは影だけだった。
国道沿いの焼肉屋に着くと、昼時ということもあり、混みあっていた。幸い、僕達は予約をしていたので、すんなり入ることができた。
席に着くなり、健は「ちょっとトイレ」と立ち上がる。それに夏海が「待って!私も行く」と手を繋ぎながら仲良く御手洗へ向かった。
「彼ら付き合っているの?」
「まあ、そんな感じ」
「ふーん」
当然、残された由紀に聞いたわけだが、彼女は淡々と答える。周知の事実というやつだろうか。
「あんた。いまでも、夏海のこと好きなの?」
真正面に座る彼女が顔を覗き込んでくる。
「まあ、そんな感じ」
「……あっそ」
彼女は興味を無くしたのかそっぽを向いてしまう。日が強いからか、若干顔が赤い。僕もなんだか恥ずかしくなって、メニューに目を通した。
そうだ。僕は夏海が好きだったのだ。
じゃあ今はどうなのか。僕には分からない。そもそも愛とか、恋とか、よく分からない。
それに、なっちゃんが付き合うなら、けんちゃんが1番理想的だとは思っていた。むしろ僕なんかと付き合う方が不自然だ。
だから、彼らが付き合おうと僕はどうとも思わない。だって僕には関係のないことだから。
二人が戻ると、各自、好きなものを注文する。肉がくるまでの間。ぼくらは雑談に花をさかせる。
「それにしても舟、お前全然変わらないな」
僕の横に座った健が、ひじで僕の肩を軽くたたく。
「君も変わらないじゃないか。金髪にしたり、ピアスあけたりしてるのかと思ってたよ」
「うちの学校、校則厳しいしな。それに、今はおしゃれより部活かな」
本当に変わらない。ルックスはいいのに、着飾らない。それでいて、スポーツ少年特有の爽やかさがある。
「そんなこと言いつつ、女子にモテモテで、鼻伸ばしてるくせに」
「別に鼻なんか伸ばしてねえよ」
「あ、鼻伸びてる」
由紀が少し意地悪そうに言う。
「まじか!? て、そんなわけないだろう!」
健は冗談風を装ったが、鼻を両手で触り、伸びてるか確認をしていたので、本人は信じたのだろう。
彼は昔から嘘をつけないし、冗談をすぐ信じる。本当に変わらない。なにもかも。僕はなんだか面白くなって、久しぶりに大笑いした。それにつられ、由紀も夏海も笑う。唯一、健だけが、むすりとしていたが、それが余計に僕らを面白くした。健の機嫌はお肉が来たため、瞬時に回復した。
再開祝いというなの焼肉パーティーは大盛況だった。僕は久しぶりに、楽しいと思えた。
「覚えてるか? 俺たちが初めて会った日のこと?」
「ああ、あれね」
「ひどかったわよね? いろいろ」
「確かに」
みんなが「あれ」と言われれば、だいたいわかる。それほど僕らは同じ時間を過ごしてきたのだ。それが、なんだかとても嬉しくて、とても寂しい。
「あれ」というのがなんなのかと、順を追って説明しよう。
僕はなっちゃんに、助けてもらったあと、よりなっちゃんと行動するようになった。はじめは、なっちゃんが、一方的に僕のところへ押しかける関係だったが、その時では、なっちゃんが公園に行けば、公園に。川に行けば、川にと、外にいることが多くなった。
今日は河川敷の草の中に、レジャーシートを広げて転がっていた。季節は夏で、太陽の日差しがささるようだったが、大きな木下にひいたので、むしろ涼しいぐらいだ。
僕は図書館で借りた本を読みながら、ときどき話しかけるなっちゃんに、返事をしていた。
すると、すすりなく、泣き声が聞こえた。声のほうをみると、白いワンピースを着た、僕と同じ年ぐらいの少女と、少年がいた。少女は両手で目を塞ぎ、泣いており、少年は、なにか説得しているようだった。
何かあったのは間違いない。多分、少女がいじめられて、少年が事情を聞こうと――
「いじめっ子。覚悟!!」
ベシと、乾いた音がなると、さきほどの少年は草むらの中に消えて行った。
「え、ええええええええ!」
僕は思わず声をあげる。あまりに予想外だった。
「これで大丈夫よ。あなたをいじめたやつは成敗したわ」
「痛いな!俺が何したっていうんだ!」
少年はズボンについた泥を払いながら立ち上がった。
「とぼけるんじゃないわよ! いじめてたやつが何を言っているの!」
「なっちゃん、これは……。うん。何でもない」
僕は何か勘違いしている、なっちゃんに、そのことを言おうとしてやめた。だって怖いんだもん。この時の彼女を止められるものは誰も……。
「やめて! けんちゃんは、わるくない」
「え、そうなの?」
「そうだよ! 俺はただ、話を聞いてただけで」
「だったら最初から言いなさいよ!」
「お前が言わせてくれなかったんだろ!」
これが僕らの出会いだった。勘違いから始まる恋があるなら。勘違いから始まる友情もある。けんちゃんとユキちゃんは幼馴染で、よくいじめられるユキちゃんを守っているらしい。
そんなこんなで、ともにヒーローを司る、なっちゃんは、けんちゃんと共に、いじめっ子退治をすることになり、僕は自然的な流れで参加させられ、いつのまにか、このメンツで遊ぶようになった。
「ところで、舟はこれからどうするの?やっぱり大学入試?」
僕は箸を止めた。懐かしい過去を一瞬でひっぺがえす話しだ。
「……なんで今の楽しい時間を壊すようなこと言うかな」
「ごめんね、でも気になって。あ、ちなみに私は推薦で合格済み。現在絶賛暇」
「全く羨ましい」
由紀はため息をつく。
「由紀は大学入試だもんね。頑張れよ受験生!」
「うるさい」
夏海の応援とも、煽りともいえる言葉を由紀は手で振り払う。
「俺は、ムシャムシャ。スポーツ推薦、ムシャ、大会優勝しだい、だな!」
「「ちゃんと食べてから喋れやコラ!!」」
夏海と由紀が、焼肉を口いっぱいに押し込んだ健を、同じタイミングで叱る。
「悪かったよ。それで舟はどうなんだ?」
肉を追加し、健は僕に質問をする。まだ食べるのかよ。
「まあ、由紀と同じく進学かな?」
「どこの大学?」
「内緒。言っても多分分からないと思う。でもやっぱり、東京の大学かな?」
「東京の大学か。すげえなお前は。夏海なんかもうちの学校じゃトップだけど、やっぱり東京の高校通うやつはすげえな」
なにか勘違いをしているのか、東京の学校に通っていたからと、頭の悪い学校はあるし、それに僕はそんなに頭はよくない。しかし、引っかかったのが……。
「夏海、頭いいの?」
「……」
夏海は運動神経は抜群だったが、僕が100点を取れるテストでもあまりいい点数ではなかったはずだ。まあ、小学校のテストなんかでは学力を測ることはできないが。あんだけ、勉強より、運動が好きだった夏海が、ちゃんと勉強していることに驚いただけだ。
「それ、私じゃなくて由紀だよ」
「あ、すまん。由紀のこと言ってるつもりが、夏海のこと言ってた」
「もう、しっかりしてよね!」
夏海と健の間で笑いが起こる。由紀はそっぽを向いていた。肉の焼ける音が、やけにうるさかった……。
「そうだ。明日、夏祭りあるんだけど、みんなでいかない?」
「お、いいな。せっかくだし浴衣着ていこうぜ」
「え、やだよ面倒臭い」
「由紀、絶対に似合うから着てきてよ!お願い!」
夏海は由紀の肩を強く揺する。彼女の長い髪があっちへ、こっちへと波みたいに動く。
「わ、わかったわよ……」
彼女は渋々頷いた。
焼肉を腹いっぱい食べた僕達は、家路まで自転車を押しながら話していた。
「夏祭りか……」
そういえばだいたいこの時期だったか。こっちにいた頃は毎年欠かさずこの4人で行っていたから懐かしいものだ。ふと僕は東京でのお祭りとの相違点が気になった。
「こっちのお祭り、変な時期にやるよね?」
「え、そうなの?」
夏海が意外そうに驚く。
「普通、お盆とか、九月ぐらいにやらない?」
「確かに変よね」
由紀は同意してくれた。
「確か、もともと九月だったのが、九月にやると、縁起が悪いことがよく起きたから、若干早くやっているらしいよ」
「へー。そうなんだ」
そう思うと、この場所はなかなかユニークな土地なのかもしれない。
「祭りなんていつやっても関係ねーだろ。問題は食い物だ。食い物」
「まったく、食い意地ばかり張るんだから」
「うるせえ!祭りといえば、屋台だろ?それにしても、最近の祭りは屋台減るし、値段は高くなるし、散々だよなー」
「しょうがないでしょ、人が少ないんだから」
夏海はさも同然という感じで言い放つ。
「毎年、今年が最後。なんて言われてくらいだからね」
由紀が二人の会話に加わり、同意する。どうやらこの祭りにも時代の波が押し寄せているようだ。
「爺さん、婆さんはいっぱいいるのにな」
すると、健は何か用事を思い出したのか、急に立ち止まり、難しい顔をする。僕たちは足を止め、彼をじっと見た。すると、彼が口を開いた。
「そうだ。すまん、先に行っていくれ。由紀行こうぜ」
「え、うん」
健と由紀は、来た道を戻り、公園へと入っていた。
「行こう」
「うん」
僕と夏海は二人きりになった。頭上の太陽がとても暑い。僕は汗をだらだら流しながら、夏海の後を追う。
「こうして二人で歩くのはずいぶん久しぶりだね」
「そうだね」
「よく一緒に帰ったよね?懐かしいな。またこんな時間が来るなんて夢みたい」
口には出さなかったが僕もそう思った。本当にあの日が帰ってきたような錯覚をおぼえる。久しぶりに僕の心に楽しいという感情が湧いてきていた。
「……」
「……」
話したいことはいっぱいあるのに、それらが言葉になることはなかった。僕らはそのまま分かれ道で軽く、「じゃあね」と言うまで無言だった。
家の前に着くと、いつもの木に、やはりセミが元気よく鳴いていた。僕はどこか気分を良くして通り過ぎた。浴衣、探さないとな……。
「プルルルルル」
静かな部屋に電話の着信音が響く。もっとも音源は耳もとなので、正確には私の耳元で響いているのだが。
「もしもし!」
「……もしもし」
自分から電話しといて気持ちがどんよりしているのはいかがなものか。しかし、しょうがない。私だってしたくてしているわけではないのだから。
「それで、どうなったの?」
余計な前置きがないのは助かった。私はどうも前置きが苦手なのだ。
「もちろん断った」
「……そう。彼はいい人なのに」
「そのいい人を簡単に手放せるあんたが言う資格はない」
「それもそうだね」と彼女は感情のない声で同意する。彼女と健は今日で別れた。もちろん、あいつに告白するため。そして健は私に告白をしてきた。もともとこのカップルはあくまで利害関係で成り立っていた偽物だったのだ。私はそれがなんだか許せない気持ちがしたが、あえて何も言わないようにした。
「で、明日するの?」
「するよ。私は本気。あなたはどうするの? 本当に私が取っちゃうわよ?」
彼女は冗談ぽく言うがこれは本気だ。
このままでいいのか? 本当に? 悩んで、悩んでを繰り返しても結局、答えなんてでなかった。
「五日目 祭りの後の静けさ」
よくよく考えたら今の体型に合う浴衣など持っているはずがないのである。だから僕は慌ててサイズを測り、浴衣と下駄を買い、おばあちゃんに手伝ってもらいながら浴衣をようやく着れた頃には、空は赤く染まっていた。「昔の人はこれを毎日着ていたというのだから大変だなあ」なんて失礼な同情を思いながら、僕は街へと歩いた。やはりいつもの靴とは違うので、はきなれない。僕はパカパカ音を鳴らして歩く。
浴衣なんていつぶりに着ただろうか。東京に行ってからは、祭りに友達と行くことはあっても、みんなで浴衣を着るなんてことはなかった。だからこの感覚もどこか懐かしい。
みんなでお祭りに行ったことを思い出そうとしたが、やっぱりやめた。いつもでも過去に囚われてもしょうがない。今を楽しまねば。
家から街へは自転車があってもかなりある。そして今回はこんな格好だから、自転車には乗れない。長い、長い道を一人歩く。空は太陽がちょうど山に隠れるころだった。
なんとか集合場所の商店街前の公園に着く。商店街では赤い提灯がいたるところにぶら下げられ、赤やら黄色やらの屋台からは、食欲を誘う匂いが充満している。人口不足が騒がれているわりに人は多く、商店街は人で溢れていた。ベンチに青いゆかたを羽織る、由紀を見つけた。
「おーい!」
「その何て返せばいいかわかんない返事、やめてよね」
別に、「やっほー!」と返せばいいと思うが言わなかった。彼女は長い黒髪を頭の後ろでぐるぐるに巻いている。女は髪が命と言うが、その言葉の意味を理解できたような気がする。さらには彼女の浴衣が飼っている大きな金魚。その躍動感は今に飛び出しそうだ。僕は彼女をまじまじと見た。だからだろうか、彼女は僕がじっと見てくるのを嫌がって、そっぽを向いてしまう。
「ごめん、ごめん」
「な、なによ。じっと見て」
「いやさ、……キレイだからさ」
「あ、そ、そう?」
「うん」
「へ、へーえ。別にもっと褒めてくれてもいいわよ?」
「あ、うん」
「……」
「……」
誰か早く来てくれ! この気まずい状況をどうにかしてくれ!
そんな心を察してか、夏海が綿菓子、健が焼きそばに、串カツ、そしてたこ焼きを持ってこちらに来る。お前はどんだけ食べるんだ?いや、そもそもどうやってもっているんだ?
「二人ともおそーい!」
「ほんとだぜ。遅いから、さきに屋台食べつくしてきたぜ」
別に遅かったわけではない。現在午後十七時時五十五分。約束は六時だったから五分早い。
「君たち、何時くらいに来たの?」
「「十六時」」
「早い! 早すぎるよ! どんだけ楽しみだったの!?」
「楽しみだったんだからしょうがないじゃん! ほら、行くよ!」
夏海と健はもと来た道を引き返し、人が溢れる屋台へ消えていく。僕と由紀はその背中を追いかける。昔みたいだ。本当に昔みたいだ。この時の僕は無邪気にそう信じようとしていた。
祭りになんて来るのはいつぶりだろう。何だか長い間行ってなかったきがする。
私は前を歩く彼を見る。彼は昔からなにも変わっていない姿をしている。私とは大違いだ。
祭りには、ある思い出がある。私は六年前、こんな感じでみんなで祭りに来ていた。そんなとき、中学ぐらいの男たちが、小学生から無理やりお金を取っているのを見た。そのときの私は正義感に強かったから、その男たちが消えて行った路地裏に行って、そいつらを懲らしめようとした。だけど、甘かった。小学生同士なら体格も似ていて、力がある私の方が強かった。だけど、中学生は違う。そこには男女の圧倒的な力の差があったのだ。
あいつらは女である私に容赦なく蹴りを入れ、一瞬で私を黙らせた。息がよくできない。腹の痛みを抑えながら、やつらを必死に見た。ニタニタと気味の悪い笑みをしていたのを、今でも覚えてる。
これはまずいな。どうしよう。そう思ったとき、彼が現れた。
「な、なっちゃんに手をだすな!」
彼はそう力強く言ったつもりのようだが、声は震え、足はガタガタと音がなりそうだった。
やつらもそれに気づき、彼を煽る。だけど、彼は何も言わず、そこを動かなかった。
「お願い。向こうに行って。これは私の問題。あなたには関係な――」
「関係なくない!」
彼は突然大声を出す。
「僕はあの時、君に助けてもらった。だから今度は僕が助けたい!」
馬鹿なんだから。私より弱いくせに。私より小さいくせに。どうしてそんなこと言えるのよ。
からかうのが飽きたのか、やつらは彼を思いっきり殴った。彼は頭から地面にすごい早さで落ちた。衝撃で土が舞う。私は叫んだ。私がうかつだったから、彼を巻き込んだ。そんな後悔が渦を巻く。
「何事だ!?」
私の叫び声を聞いた、見回りのおじさんが来たことで、やつらは一目散に逃げだした。
私は事情を話し、救護室で彼と一緒に手当てを受けた。
「どうしてあんなことしたの」
「さっき、言ったじゃんか。君を守りたいて―――」
「私は、私はあんたに傷付いて欲しくない!傷つけるためにあんたを守ったんじゃない!」
私の目から雫が垂れる。それは床に落ちて、水だまりを作る。
「ごめん。だけど、君が傷付いているのが見たくないから。だから体が勝手に動いたんだ。それに、約束、だったから」
私は彼に抱き着いた。彼の体は自分より小さかったが、体格は少しがっちりしていた。
そうか、君は男の子なんだね。そんなことを実感した。
それからだろうか。私が彼を保護対象から、男の子として意識したのは。
「あれ?」
気が付くと、さっきまで周りにいたはずの、みんながいなくなっている。考え事をしすぎて、はぐれてしまったのだろう。
「はあ」
まいったな。最近は考え事をして周りが見えなくなることばかりだ。とりあえず、あいつに電話を――
「お姉ちゃん、可愛いね? どう? 今から俺たちと遊ばない?」
急にチャラそうな男どもが声をかけてくる。ナンパというやつか。堕落したとはいえ、身なりには気をつけているので、褒められるのは正直うれしいが、こんなやつらに褒められても何も嬉しくない。さあーて、どう料理を――
「あ、すいません。連れがご迷惑をおかけして。ほら、いくよ」
「え、あ、うん」
やつらは、「なんだ。彼氏付きか」と興味をなくして、人ゴミに消えていく。私はほっとした。
「あんなやつらぐらいどうと言うことはないのに」
「昔の夏海みたいなことを言うね、由紀」
し、しまった。今の私は由紀だった。
「ほ、ほら私、夏海に何度も助けてもらったし、憧れているから、その、真似を。みたいな?」
「そうだね。確かに夏海はヒーローみたいなものだから」
「ヒーロー、ね」
そんな人なんかどこにもいない。私はしたいからしただけ。ただの自己中心的な人間だ。
「だけど、今は体格差だってあるし、難しいんじゃないかな?」
「なにそれ。男女差別?」
「差別はしてないよ。でも、君は女の子だし、第一。君に傷付いて欲しくない」
「あ、あら。そう?」
やばい。やばい。どうしたのこいつ。どうしたのわたし!? お祭りの熱にやられて胸が痛い。このまま二人だと、私、私――
「いたいた。由紀! 心配したんだからね。電話もでないし」
「ご、ごめん」
私はそう言い、みんなと合流した。良かったような。良くなかったような。いや、良かったはずだ。
それにしても、本当に昔みたいだ。どこかへ無くした昔みたいだ。
「悪りい、俺、トイレ行ってくる」
あの後散々屋台を回った僕たちは、夜が深くなり、より人が増えた商店街のベンチに座っていた。そんな中、健はトイレに行くと公園の方へ駆けて行った。あんなに食べたからきっとお腹でも壊したのだろう。健らしい。
「少し歩かない?」
夏海がそういう。
「健、待たないと」
「大丈夫。すぐに終わる。……由紀は来る?」
「わ、私は……」
由紀は立ち上がり、言葉を紡ごうとするが、なかなか言葉が出ない。僕と夏海は続きを待つ。
「ごめん、私……。さようなら」
「あ、ちょっと由紀!」
由紀は急に駆け出す。途中転び、盛大に頭から地面に突っ込んだが、彼女はすぐに立ち上がり、暗闇へ消えていった。僕はそれをただ眺めることしかできなかった。
「追いかけないの?」
「うん。今さら追いつけないし、どこにいるかわからない。多分明日になったらまた会えるさ」
「そう。それが君の選択なんだね?」
「うん」
僕は彼女がいたところにポツンと残された、スーパーボールの袋を見た。オレンジ、黄色、青、赤、緑。色んな色のボールがとても鮮やかで、悲しそうに輝いていた。僕はそれを明日、彼女に届けるために、持ち帰ることにした。
「こんなところあったんだ」
「舞台裏みたいでしょ?」
「そうだね。まるで隠れ家だ」
二人で散策中、商店街の裏路地へ行った。建物が連続して続いているところに、ポツンとスペースが空いている。そこには、使われたドラム缶などが無造作に積まれていて、そのどれもが赤かく、さびている。家でもあったのか、玄関のタイルのようなものが、ちょうど僕の膝ぐらいの高さにあった。
前を歩いている夏海に目がいく。なかでも、浴衣、彼女のも、とても綺麗だ。全体的にオレンジ色で、ひまわりや花火が鮮やかに咲いている。この場所はとても薄暗いので、その浴衣がはっきりと見える。
「そういえば、花火はないの?」
「あるよ。七時半くらいだったかな?」
僕はスマホを取り出し、時間を確認する。現在七時二十分。あと十分後だ。
僕は虚空を見つめる。ここは田舎だが、夜空の星は見えなかった。
「ここから花火見える?」
「うん。ここは誰も知らない特等席。あっちの方から花火がとぶ」
彼女が指を差した方を見る。確かにそこからあがるなら、ばっちり見えるだろうとわかるぐらい、そこだけぽっかり空いている。まるで僕たちのために屋根が形を変えたように、ちょうど真四角に空いている。
「そうそう、いつ東京に帰るの?」
夏海は空き地の真ん中にある、タイルに座りながら聞く。僕も隣に座る。
「いちお、明後日の昼には帰ろうと思う」
「明後日ね。ちょうど夏休み終わりだもんね。何で帰るの?」
「電車。途中までおばあちゃんに送ってもらって」
「じゃあ、あそこの駅だ」
「うん、あそこしか駅ないしね」
ここは交通に関しては本当に不便だ。まず、車がないとたどり着けない。おまけに、駅も一時間くらいかかる。
「そろそろかな。はい、これ」
彼女はスマホで時間を確認すると、一枚の折り畳んだ紙を渡す。
「なにこれ?」
「いいから、開けて」
「わかった」
僕は手紙を広げて読む。そこには小さな文字でこう書いてあった。
「わたしはあなたのことを愛しています」
はっ、となり、彼女の方を見る。彼女は少し顔を赤くして、そのとても小さな口で言った。
「好きです。付き合ってくださ――」
「ごめん。それはできない」
花火が空を駆ける。暗かった路地裏に明かりが漏れた。オレンジ、黄色、青、赤、緑。花火は寂しく一人浮いていた。光に映る彼女は泣いていた……。
「……どうして? 私のこと好きなんでしょ」
「今でも夏海は好きだよ。だから付き合えない」
「どうして。どうして?」
「君は夏海ではない。理由はそれだけだよ」
僕は最初から気が付いていた。三人が嘘をついていることを。確かに二人は昔と性格や見た目は正反対に見える。だが、よく見ると細かい部分は昔の面影があるのだ。二人は姉妹ではない。だから簡単に見分けはつく。そんな浅はかな嘘で僕をだませていたと思っていた、夏海も由紀も健も僕を馬鹿にし過ぎだ。
だけど、僕はその嘘に乗っかった。昔に戻りたかった。四人でいれば昔に戻れるんじゃないか。そんな淡い思いがあった。
でも、それはもう終わりにしよう。あの頃の僕らは永遠に時間が止まっている。関係はいつまでも変わらない。そんなあの頃が好きだった。だけど永遠なんかない。ものは絶えず移り変わる。この花火のように。もうあの頃はどこにも存在していないから。
「結局、全部夏海が奪うのね。どんなに努力して、苦労しても、夏海が、夏海が……」
かける言葉も見つからない。由紀は夏美に憧れていたのだろう。だから頑張って夏海になろうとした。彼女の努力は認めよう。だが、頑張る方向を間違えた。彼女は彼女のままでいればよかったのだ。彼女が持ちえた利点を生かすべきだったと思う。でも、そんな無責任なことを僕は言えなかった。
「……ごめん」
「いいの。わかってた。これは私が前に進むための儀式みたいなもの。だましてごめんね」
「確かに腹がたったけど、今はどうでもいいや」
「そう。……花火も終わったことだし、私先に帰るね。さよなら」
あんなにうるさかった花火もいつのまにか終わっていた。その花火のあとを追いかけるように、彼女もまた消えていった。僕はさっきと同様、追いかけることはしなかった。
「いやー腹痛かった。その後、また屋台巡りしてたから遅くなった……。あれ?由紀と夏海は?」
先ほどのベンチで座っていると、健が来た。てっきり帰っているものかと思っていた。
「二人とも帰ったよ」
「そうか。じゃあ、俺らも帰るか」
その言葉を聞き、僕は立ち上がる。すると健が近づいて来た。
「その前に。おら!」
何が起きたかわからない。わかるのは強い顔面の痛みだ。衝撃で僕はベンチにのけぞる。
「な、なにするんだよ!?」
「うるせぇよ! 人の気持ちをもて弄びやがって!」
僕は再び、顔面にストレイトパンチをもらう。顔に激痛がはしる。
「いつも、いつも、いつも。お前が全てかっさらう! 俺よりカッコ良くないくせに。俺より弱いくせに。俺より努力しないくせに!」
僕はぼーと彼を見た。彼の顔は涙でぐしょぐしょだった。彼は僕の胸ぐらをつかむ。その手は力強いが、とても弱々しく震えていた。
「お前が消えて、ようやく邪魔者がいなくなったと思ったんだ。でも、夏海はお前と同じ大学行くため必死で勉強して、勉強とお前以外興味がなかった。だけど、今年になってその大学に行くのが難しいとわかったから。夏海は夏休みが終わったら諦めると言ったんだ。それなのに、またお前が、お前が……」
手の力がいっそう強くなる。これは嫉妬というやつだろうか。憎悪というやつだろうか。それとも愛というやつだろうか。
「由紀だって諦めたつもりだったのに、お前に好かれるために、夏海になろうとしてたし。みんな努力して必死で生きてるのに、お前はなんなんだよ? お前は……」
彼は手を放す。掴んでいた服がくしゃくしゃになってしまった。彼は背を向けた。
「早く消えろ。二度と俺たちの前に姿を現すな」
そんな言葉だけが道に残った。
「奇遇だね」
「ここにいれば会えると思って」
私が河川敷に横になっていると、健が来た。私は顔だけ向けて話しかける。健はどこか暗い顔をしていたから、舟と何かあったのだろう。
「どうしたの? そんな暗い顔して」
「……俺、舟のこと殴った。 友達なのに、本当は会えて嬉しかったのに、殴った。俺……」
彼は目から水滴を落としているようだ。私は「しょうがないな」と起き上がり、彼に膝に寝ころべと合図する。普段なら「ガキじゃあるまいし、そんなことするか!」なんて言うと思うが、今日はそれほどの元気もなく、素直に横になる。
「お前の膝、温かい」
「そりゃあ、生きてますもん」
「なんか、母さんみたい」
「母親見習いですもの」
「……」
「……」
沈黙。だけど気まずい沈黙ではない。どこか心地よいそんな静寂。私の膝の上の鼓動だけが静かにリズムを刻む。
「ごめんな。俺だけ。辛いのはお前もそうなのに」
「いいよ。外れることがわかってる宝くじを引いたんだから。結果なんてわかってた」
「そんなもんか」
「うん、そんなもん」
誰かになろうとしたのが間違いだったのだ。だけど私はそんなことわかっていた。わかっていてやめられなかった。
「やっぱりさ、もう一回付き合わない? 俺たち」
「どうしようかな?」
「お互い失恋しただろ。なんだよ、まだあいつのこと好きなのかよ?」
「そうなのかもね」
もともとが歪んだカップルだった。健は夏海に似ているからと付き合い、私はそう思われることで、夏海に近ずく、舟と会えると思っていた。結局のところ、どちらも相手なんかまともに見てなかったのだ。
「あんなやつのどこが好きなんだよ」
「確かに、顔なら健のほうがいいし、スポーツ万能だし……」
「だったら……」
「でも、優しいのよ?舟は。あなた以上に。そして強い」
私は夏海に憧れていた。弱い自分とは違う、明るく、華やかで、強くて、優しい。
でも、舟の優しさは違う。彼は夏海よりも、健よりも弱いのに、大切なひとを守るためなら、無意識で体が動いちゃう人なのだ。
以前、商店街のお祭りで、夏海を守った舟を陰から見ていた私は、彼に恋した。同時にどうしてそのとき守られたのは夏海だったのかと、嫉妬した。それからだろうか。夏海に成りたいと思ったのは。
「はい、はい。そうですか。俺は優しくありませんよ」
「そういう意味じゃないことぐらいわかるでしょ?バーカ」
風が通る。夜だから少し寒い。私は遠くを見ながら健に聞いた。
「で、健はどうして夏海が好きなの?」
「うん?ああ。同じというか、悪を憎むヒーローだったから、よく一緒に戦ってたら――」
「それで好きになったと。単純だなー」
「うるせ!」
私は彼の頭をかき乱す、彼は必死で抵抗するが私の膝の上でジタバタするのが精一杯だった。それが余計に私を楽しませた。
しかし、私もずいぶんと大胆にやってしまったなー。今になって恥ずかしくなってきた。と同時になんだか疲れた。
「はーあ」
「どうした?」
「いやさ、私の人生、まねっこだけだったなと思って」
「別に今のお前でいいんじない?俺はそっちのほうが好きだな」
「……それは舟に言って欲しかったなー」
でも、嬉しい。自分の努力が無駄じゃなかったとわかるから。そして舟とした、アイスの話を思い出す。
「あの努力と工夫しだいは、自分をどう変えるかであって、自分が他人になるわけじゃない。ということなのかな?」
「なんか言ったか?」
「ううん、なんでもない」
また、風が吹く。でも、この風はなんだか気持ちがよかった。私は川を見る。川の流れは穏やかで、どこか優しい。
「それにしても、舟大丈夫かな?道端で倒れてないかな? かなり思いっきりやったからさ」
「だったら見にいけば?」
私は意地悪そうに言う。
「行きたいけど、自分で、「俺のまえから消えろ」とか言ったしなー。あああ!なんでそんなこと言ったかなー?俺」
私の膝であーだこーだ言っている彼を見ると、何だか笑えてきた。
「そんなことより、空見て! 星が見える!」
「星なんて見えねえよ」
実際、星なんか見えない。この空の向こうには沢山の星がある。どんな小さな星だろうと掴んでやろう。それが本意じゃなくたって。
あの捻くれた二人のために、今の私ができることがあるはずだ。私は失恋した心は忘れ、誰かのために、大切な友人としてやる覚悟が湧いてきていた。
暗い帰り道。僕はとぼとぼ歩いていた。まだ、殴られたところが痛む。どうやら僕はとんでもないことをしたらしい。何をしたのかよく分からないけど。
唯一、教訓として残すなら、変わらいものなんてない。だろうか? 八年という月日が僕達の関係をあっという間に変えていた。そんなことわかってた。だけど、望まずにはいられなかった。あの日に戻りたいと。あの、劣等感も、将来の不安も、嫉妬もない。あの日々に。どうしてこうも人間は汚らしいのか。そんな意味の無い闇が、僕を覆う。
橋にかかる。橋の下にはどす黒い水が広がっている。いっそうあの水に浸かってみようか…….。闇に染まってみようか。
またいつもの死にたい症候群だ。電車が通る時、高い所、橋の上。降りれば簡単に死ねる場所を通ると、無性にそこに飛び込みたくなる。
僕は悪魔の声を振り切り、橋を渡る。橋を渡りうと、すぐに児童館へ続く大きな坂の下に出る。児童館がお化け屋敷のようにそびえ建っている。僕はそのまま家の方へ向かう。
なんだか、今になって腹が立ってきた。乗っかたのはいえ、やはり嘘をつかれるのはいい気がしないし、殴られたことだって理不尽極まりない。言われなくたってお前らなんかに会うもんか、。絶対。
「これ、どうしようか」
僕は前のカゴに入っているスーパーボールの袋を見た。別にこんなものわざわざ返す必要もない。それに今はあまり夏海にも会いたくない。では、これをどうするのか? 僕はとりあえず家に持って帰ることにした。
歩き疲れた僕の前に、電柱の明かりで、スポットライトを浴びたスターのように中央を陣取るセミの死骸を見つけた。僕は横を通ろうとする。
「ジーーーー」
「うわ!?」
死んだと思った蝉が急にバタバタ動き出した。僕は思わず声を出してしまった。死体の横を歩いたらゾンビに突然足をつかまれる主人公の気持ちがわかった気がした。
「六日目 夏眠暁を覚えず」
今日はひたすらゲームをしようと決めた。今日は勉強もしないし、家からも出ない。もちろん児童館にもいかない。家に籠ってゲームをしている。しかし、どうもつまらない。だから僕はベットに横になって、かれこれ二時間ぐらいぼーとしていた。
僕はいろいろあった昨日を思い出す。由紀に告白されたこと。健に殴られたこと……。
ボーとすることにすら飽きた僕は、立ち上がり、おじいちゃんの書斎の扉を開く。ギーという音と共に、ホコリが舞う。僕はいそいで、部屋に入り、窓を開けた。
この部屋はやはり落ち着く。おじいちゃんの本や秘蔵の書に囲まれるのはとても神秘的で、心が浮く。
僕は机の引き出しを開ける。そいつは思ったよりあっさり開いたので、ガタンと引き出しごと落ちそうになる。僕は慌ててそれを抑え、元に戻したが、何個か物が落ちる。僕はそれを拾い、引き出しに戻す。その中で本を見つけた。
見たことのない本だ。題名や作者からして外国の本だろうか。僕は興味本位で読もうとする。すると、本の中になにか挟まっていた。
何だろうかと拾う。それは1を左右反対にしたような記号がある、あの栞だった。僕も今、持ってきている本に挟まっている。
僕は栞をポケットにしまうと、本を読み始める。田舎町の男女の恋物語で、男が都会へ引っ越すときに、男は女に再会を願い、黄色いハンカチを贈る。男女は涙を流し別れる。何度か再会できそうになるが、結局再会できずに話は終わる。とても、とても悲しい話だ。
「おお、懐かしいねー」
突然の声にびっくりする。いつの間にか、おばあちゃんが書斎に入ってきた。
「それはあの人が昔、東京に行くときにくれた本じゃよ」
「こんな悲しい本を、おじいちゃんが贈ったの?」
「そうじゃよ。きっともう会えないと思っていたのじゃろ。だが、この本のおかげで再会できた」
「この男は小説家を夢見て都会へ行った。そして賞を取った。あの人もそうなのかなと思って、賞の受賞者は必ず確認してのう。あとはおまじないかのう」
「これのこと」
僕はポケットから栞を取り出し、おばあちゃんに見せる。
「そう、それじゃ。それのおかげもあっておじいさんに再会して、今があるわけじゃ」
「これは、おばあちゃんが渡したんだっけ?」
「そうじゃ。おじいさんが本を贈ったお返しのう。これはおばあちゃんの栞。おじいさんが死んでからこの本と一緒にこうして返したわけじゃよ。もう一つはお前さんが持っておるじゃろ?」
「うん」
この栞はおじいちゃんと、おばあちゃんにとってのかけがえのない思い出であり、僕と夏海の思い出でもあるのかと、なんだかしみじみしてしまった。
「そうだ。おばあちゃん。この栞もらっていい?」
「もちろん、大丈夫じゃよ。後悔しないようにのう」
そういうとおばあちゃんは笑いながら書斎を出て行った。明るい笑い声だけが部屋に響いた。
後悔、後悔か。僕は栞を持ちながらコンビニへ行った。空は雲で覆われていて、あの照りつけるような日差しはない。だが、その代わりに定期的に密着してくるような、ベタベタした感触を肌に感じる。
後悔なんてしたことしかない。僕は生まれてきてからずっと後悔している。多分明日も、明後日も。僕はどうしようもない野郎だから、いつも間違った選択をして、必ず後悔する。本当にどうしようもない。
単調な音がなり、自動ドアが開く。やる気のなさそうな店員の「いらっしゃいませ」が聞こえる。やる気がないならやらなっきゃいいのに。
僕は炭酸飲料と、ポテトチップスを持ち、アイス売り場に行く。すると、アイス売り場の前で、真剣な眼差しの男を見つけた。彼はアイスを二つ取り、どっちにするか考えている。一つはチョコ、もう一つはソーダ。
僕はアイスを買うのは諦めて、遠回りしてレジで会計を済ますと、さっさと店を出た。後は自転車に乗って……。
「なんで無視するねん!」
先ほどの男が僕の肩を掴む。
「放して」
僕はぶっきらぼうに言い放つ。
「ええじゃねえの? お兄さん、少しお話しましょうよ」
それでも彼は付きまとう。
「いやだ」
「おいおい!つれねえな!」
「放してください! 警察呼びますよ」
「わかったからそれだけはやめてくれ!」
彼は手を離すと、その場で土下座した。
「それで、何の用?」
すると、健は顔をあげ、笑いながら言う。
「いやー。昨日のこと謝りたくて」
「……」
「いやー本当、虫がいいのもわかってるのよ。急に殴るし、どなるし、二度と近づくな!とか言ったし……」
「……」
「いや、これはまじで悪かった。すまん」
彼は無言に屈し、最後は真面目な顔で謝った。
「別にいいけど、僕だって、その、わるかったし。ごめん……」
僕も素直に頭を下げる。すると彼は顔を輝かせ、右手をあげた。右手にはコンビニの袋があった。
「これ、仲直りの証、な?」
僕はコンビニから近くの公園のベンチに健と腰掛けた。公園には何人かの子供が楽しそうにブランコをしている。
「懐かしいな。俺らもよくブランコ、したよな?」
彼はチョコアイスを豪快にかぶりつきながら、笑って言う。
「そうだったかもね」
「あれから七年も経ったなんて信じられないよなー」
本当にその通りだ。こんなにも、昨日のように思い出せるのに。
「お前、夏海のこと好き?」
「どうしたの?急に」
「いいから」
夏海が好きな健の前で言うのはなんだか申し訳ない気がした。だけど、ここで言わないと後悔するような気がした。
「好き……多分?」
「おい、おい! なんだそりゃ」
彼は呆れたような顔をする。僕だって自分に呆れている。
「恋とか、愛とか、よくわからない」
「恋なんて簡単だろ! 相手のことを思うと心が痛くて、でも、嬉しい。それが恋だ!」
「そんな簡単な話じゃないと思うけど。恋なんて人間が子孫を繁栄するための言い訳だし、第一、僕は人を愛しちゃいけないんだ」
「どうしてそんなこと思うんだよ?」
健は腕を組んで、話を促す。
「僕はね、彼女がいたんだ。中学の頃に」
それは中学の今日みたいなジメジメする夏の日だった。僕は仲の良かった女の子にカラオケに誘われた。僕はカラオケを楽しむと、帰り際に告白された。
「どうして僕のこと好きなの?」
すると、彼女はこれまで見たことがない笑顔で言った。
「優しいから」
以降、この言葉は呪いの言葉になる。別に好きな人がいなかった僕は、同情で付き合ってしまった。別に顔はわるくない。それに性格だって良かった。付き合う間に、相手への恋が生まれると思った。
本当はこのチャンスを逃すと、もう彼女なんかできないのではないかと思う、僕のおぞましい獣心があったからだ。
それ以降、周りには関係を隠していたが、こっそり手をつないだりはした。僕は彼氏になったいじょう、彼女を楽しませなきゃと思った。でも、彼女に対する愛情は生まれなかった。
ある日、僕らは別れた。振ったのは彼女だった。どうしてか理由を聞くと。
「優しいから」
それだけだった。彼女は僕を好きだったところが原因で嫌いになったのだ。多分僕はどこか義務的な接し方をしていたのだろう。それを彼女は気づいた。僕がそれを善意でやっていると。
その後、彼女とは疎遠になった。噂だと引きこもってしまったようだ。多分、僕とは関係ないことだが、それすらも自分のせいだと思うと、本当に申し訳ない。僕は優しいのではない。甘いのだ。
「そんなことあったのか。お前も大変だったな」
「同情なんかいらないよ。全部僕が悪いのだから。あのとき、きっちりと断っていれば、彼女は引きこもらなくて済んだかもしれないのに」
「それで、由紀をふったのか。お前、本当に優しいやつだな」
それは皮肉だろうか。僕は言い返そうとしたが、またケンカになったも嫌だったから、スルーした。
「まあ、俺から言わせると。お前、本当にムカつくよな」
「ご、ごめん」
「それがムカつくんだよ。本当はすごいやつなのに、自分に自信ないし。お前、自分の事嫌いだろ?」
「当たり前だろ! ノロで、不器用で、生きてるだけで、人を悲しませる。こんなやつ、だれが好きなんだよ」
「みんなだよ!」
彼が急に大声を出すものだから、遊んでいた子供たちがびっくりして、こちらを見る。
「お前の母さん、父さんだって、お前が好きだから育ててくれたんだろ? 由紀だって、お前の元カノだって、お前のこと好きだったから告白したんだろ? 俺だって、俺だって、お前が凄いから。羨ましいから怒ったんだよ! それのどこが凄くないやつなんだよ!」
その言葉は衝撃的だった。まるで乗用車と衝突したような頭の痛さを感じた。
「そうか、僕は愛されてたんだ」
「そうだ! お前は十分愛されてる」
なんだろうかこの気持ち。胸がどくどくいっている。こんな感じ、すごく久しぶりだ。まるで、あの時みたいな……。あの時? 僕の頭にあの少女が浮かぶ。この気持ち、伝えないと。後悔する気がする。
僕はベンチを立ち上がり、自転車にまたがる。
「おい! どうした?」
「僕、やらなくちゃいけないこと思い出した! ありがとう!」
困惑した健を置いて、僕は公園を出た。行き先は――児童館だ。
神様というやつは人を苦しめるのが好きで、僕が転校したのも、偶然今年に再開したのも、神様の仕組んだシナリオなのだろう。ならこの物語の結末は多分バットなのだろう。
児童館は閉鎖されていた。入場者はあまりいないので、一日ぐらい早くても誰も困らないだろうと思ったのかもしれないが、現時点で僕が困っている。僕は彼女と会える場所をここしかしらない。商店街も、公園も、コンビニも、焼肉屋も、田んぼの続く道も、いつも別れてしまう道の先に行って、表札を見た回ったけど、彼女とは会えなかった。気付いたらもう夕方だった。
遠くでひぐらしが泣いている。もうすぐで夏は終わる。彼女はこの夏に取り残されたように消えてしまった。もうあてはない。家も知らない。携帯のアドレスですらしらない。七年前と同じだ。僕らはすっかり成長したのに、そこだけは何も変わらなかった。関係も変わらなかった。
いつのまにかあの燃えるような気持ちは田んぼに落としてしまったようだ。
だんだん日が落ちるのが早くなってきた。すると、なにか柔らかいものをひいた。セミだ。もう絶命していた。
もしかしたら昨日のゾンビセミかもしれない。ゾンビセミにはアリが群がり行列をなしている。僕はその蠢く黒いものを見て寒気がした。僕はさっさと自転車に乗り直して家路を急いだ。あんなにうるさかったセミの声がもう聞こえない。
また一日を無駄にしてしまったと、私はベットに横になりながら後悔する。
今日の私は受験生らしからぬ行いばかりしてしまった。ユーチューブ見たり、テレビ見たり、漫画読んだり……。だから今日は児童館にも行かなかった。
日ごろの鬱憤がそうとう溜まっていたようだ。こんなにもストレスがたまったのはあいつが来てからだ。あいつが悪い。
はあ、明日こそ勉強しなければ……。
無機質な音が鳴る。見ると、由紀からだった。いまさら何の用だろう。多分、あいつと付
き合うことになったのを、自慢にでもしにきたのだろう。私は震える端末を無視して、天井を見上げた。天井には丸い電灯があり、電灯の一つがチカチカしているのが見えた。そろそろ交換しないとなー、なんて思うけど、やるのが面倒くさい。考えるのも面倒くさい。生きるのも面倒くさい。……。
「あー! もう、うるさいわね!」
私は単調な音がいつまでも鳴るので、イライラして、電話にでる。
「あ、ようやくでてくれた」
「あんた、しつこい」
「ごめん、ごめん」と言いながら本当に楽しそうの笑うので、それが余計に私をイライラさせた。
「それで、何の用? まあ、検討はついてるけど」
「それは話が早くて助かるな! じゃあさ、とっとと告白してきなよ」
「それはどういう意味よ」
嫌味か何かなのか。だってコイツとアイツは――
「私、振られたのよ。こっぴどく」
「それ、どんな冗談? だってあいつはあんたみたいなのが…….」
「私が夏海じゃない。だからだったさ。まったく、嫌になるよねー。こんなに頑張ったのに報われないのは」
私は正直驚いている。あいつは私のことが好きだと言ったが、あれは本来の私がすきなのであって、今みたいなワカメ女に興味はないと思っていた。だから、私より、私らしい由紀がお似合いだと思っていた。だけど、あいつはこんな私も好きだというのだ。驚かずにはいられない。
「よかったじゃん。告白してくれば?」
「…….それはいいや」
だけど、私はいいや。どんなに頑張っても、努力しても、報われなることなんてない。例え相手も好きだといっても。第一、彼と私は付き合ってどうするのだろうか? そもそも、世の中の恋人たちはなんの為に付き合うのだろう? そんなのに意味なんてあるのだろうか?考えれば考えるほど訳がわからなくなる。
「あなた、また機会を逃すの!? こんなチャンス、めったにないよ!?」
「それでも。愛とか恋とか意味わからないし…….」
「じゃあ、なんで勉強していたの!?」
「う、それは…….」
あいつの引っ越しが決まった時、あいつは『東京の頭のいい学校行って、東京大学目指すから転校しなきゃいけない』て言った。
今から思えば馬鹿げた話だけど、当時の私はその話を鵜呑みにした。本当は再び一緒に会えるよう、約束しようとしてたけど、あいつがお別れ会に来なかったからできなかった。だからあいつと会う唯一の方法が、たくさん勉強して東大に行くこと。
それ以降から私は家で猛勉強。塾にだって通った。でも、私はもともと勉強嫌いだし、どう勉強したら東大に行けるかなんてわからなくて、ガムシャラにやった。勉強をやると、テストの点数が見たことない点数になったから効果はあると思ってた。時間が経つにつれてだんだん熱意とか、やる気が落ちていって、それに友達とも遊ばないからクラスではいつも浮いてた。遊ぶ時間さえ無駄だと思うようになった。
それでも、勉強は人一番できて、先生やママやパパに褒められたからいっそう勉強にのめり込んだけど、その頃の私には何のために勉強をしていたのかわからなくなった。そして気がついたら高校三年で、来年には大学進学でしょ?早いわよね。私の青春は勉強でほぼ終わった。なのに本来の目的は達成できていない。本当に無駄な時間だった。本当に。
だからこの夏が終わったら諦めようかな、けりをつけようかなと考えてたらあいつが現れた。本当に、なんだかな。
「彼に会いたいからじゃないの?」
「そうだけど、でも……」
「私に負けていいの?」
「負けるもなにもないじゃん。何の勝負よ?」
「努力」
「……」
「私はあなたになりたくて、努力して、告白までこぎつけた。じゃあ、あなたは? 彼のために勉強をして、結局なにもしないわけ? それって、試合のために練習したのに、試合に出ないことと一緒だよ?それに悔しくないの? 私に、夏海に負けて?」
「それは……悔しいに決まってんじゃん!」
悔しい。とても悔しい。私より私らしくて、まるで私が私じゃないみたい。私の存在価値なんてないみたいで、ずっと悔しかった。でも、私にはどうしようもなくて、ずっと試合放棄をしていた。でも、相手は敗北決定だ。だったら、一回くらい勝ちたい。本物の夏海に勝ちたい!
「そう。明日の昼の駅」
「それがどうしたの?」
「ヒントは出したわ。あとは自分でやりなさい」
「え、ちょっと!」
一方的に会話が切られる。プー、プーとくたびれた音がする。かれこれ三十分ぐらい話していたみたいで、もう夜も深い。私は寝ることにした。
明日は午前中勉強して、そして昼には……駅に行ってみよう。
「七日目 思い出の終わり」
僕は早々に帰る支度を終え、また、児童館に足を運んだ。彼女がそこにいるという確信はなかった。だけど、唯一僕たちが知っている、また会える場所はここしかなかった。だから僕はきちんとその思い出の場所の最後を見届けたかった。
児童館前は昨日と同じく入口周辺にバリケードが設置されており、中には解体するための機械がある。児童館の見た目はまだ変わっていないが、窓が全て開いており、窓から見える室内は怖ろしいほどなにもなく、さらに不気味さが際立っている。僕は彼女の姿を探したが、やはりいない。三十分くらい待ってみたが一向に現れる気配はなかった。
まるで引っ越してから後に戻ったようだ。
僕はおばあちゃんの家に戻るたび、こうして児童館の入口で彼女を待っていた。公園や商店街、小学校にも行った。でも、彼女には会えなかった。どうして家を教えなかったのだろう。どうしてまた会う約束をしなかったのだろう。僕はそんな後悔をずっとしていた。
偶然再び会った今年だって、僕はそれをせず後悔していた。教える機会なんていくらでもあったのに。多分怖いのだ。家を知ることで、いつでも会えることで、僕たちの関係が何か変わってしまいそうで怖かったのだ。
でもそれは終わりにしよう。変わらないものなどない。それを痛いほど実感した。もうあの時の僕ではないのだから。
考えろ、考えろ。今日も彼女は勉強をするはずだ。でも彼女は家では集中できないと言っていた。じゃあ、彼女はどこか外で勉強しているはずだ。じゃあそこはどこか。・・・・・喫茶店なんかはどうか?
いつも別れる帰り道。そこの先に彼女の家があるはずなのに、一度も見つけられなかった。そんな時、僕は曲道のすぐ隣にある喫茶店で美味しくもないのに、コーヒーを頼んでいた。その喫茶店にならいるかもしれない。僕は急いで自転車に乗り、来た道を引き返した。
喫茶店に着くと僕は自転車の鍵も閉めずに、自転車を止め、喫茶店に入る。そして中の客を見てまわる。従業員が対応に困っているが、今はどうでもいい。喫茶店は規模は小さく、入口に入ればだいたい見渡せる。奥の方に長い黒髪の女性を見つけた。早まる気持ちを抑え、近づく。ちらりと、横顔が見える。
違う、彼女じゃない。
僕は喫茶店のオーナーらしき男に話しかける。
「すいません。夏海、黒髪の長い女性が来ていませんでしたか?」
「探している子かどうかはわからないけど、雨の日によく来るうちの常連さんの、学生さんがさっきまでいたけどーー」
「ありがとうございます!」
「ちょっと!君!」
僕は話を最後まで聞かず、店を出る。彼女がここにさっきまでいた。それだけでいい。近くに彼女が歩いているかもしれない。その希望だけしか僕にはなかった。
自転車をガムシャラにこぐ。古い自転車からはギコギコと音が出ているが、僕は無視してペダルを踏む。だからだろうか、嫌な音がしたと思えばブレーキがきかず、僕は猛スピードで電柱にぶつかった。自転車から投げ出される。幸い積んであったごみの山に落ちたので、体自体は無事だったが、自転車はそうではなかった。自転車の前輪は斜めに曲がってしまった。これではもう、運転できまい。僕は投げ出された衝撃で昨日殴られた箇所、そして心がひどく痛かった。
「自転車ごめん。修理にだしておいて。それから、送ってくれてありがとう。また来るね。バイバイ」
僕はおばあちゃんに車で駅まで送ってもらった。あの後、僕は自転車を何とか引きずり、家まで持ち帰った。おばあちゃんに見せた時、あまりに驚くものだから思わず笑ってしまった。結局、彼女とは会えなかった。それは仕方ないことなのかもしれない。本当は二度と会えることはなかったのだから。これは神様の気まぐれ。僕はそのチャンスを棒に振ってしまった。ただそれだけの話し。
電車はあと十五分後に来るようだ。その駅は無人で、人がこっそり抜けても大丈夫な改札に毎度ながら驚かされる。僕以外電車に乗る人はいないようだ。僕は自販機でブラックコーヒーを買うと、ベンチに座って一気に喉元に流すこむ。
「ガッハ。ゴフ、ゴフ」
僕は思わず咳き込む。相変わらず美味しくない。大人はよくこんな飲み物、顔色も変えずに飲めるな。大人はあえて美味しくないものを飲んで、大人という体裁をしているのでは?と疑いたくなる。
「全く、なにやってんだが。はい、これ」
聞き覚えのある声がした。僕は彼女のポケットティッシュを受け取り、汚れた個所を拭く。
「よく、ここがわかったね」
「あんたが、今日帰る、てっ言うから、駅かなと思っただけよ。ここぐらいしか駅ないし」
「時間は?」
「昼ぐらいから駅の入り口が見えるカフェにいた。あんたが入って来るのを見たから来た。以上」
彼女はぶっきらぼうに言ったが、どこか嬉しそうだ。僕だって嬉しい。あんなに探して、もう会えないかと思っていた。
「・・・・・また、行っちゃうんだね」
「うん」
アラームがなり、電車が来る。僕は電車に乗り込み、彼女のほうを見る。いや、まともに見れなかった。だからどんな顔をしていたかなんてわからない。僕は彼女の足を見ていた。
「そうだ、これ」
僕はポケットに入れていたものをだし、彼女へ渡す。
「なにこれ?……栞? もしかしてこれ……」
「そう、あのときの」
「懐かしい! あれ、でもこれ大切なものじゃ……」
「ペアなんだよ。もうひとつは本に挟まってる」
「そう」と言う彼女は笑っている気がした。
出発のアナンスが鳴る。言わなくちゃ。言わなければ一生後悔する。彼女が先にしてくれたのだ。僕もそれに答えなければ。
僕は顔をあげ、口を開く。何故か彼女はものすごく近くにいた。彼女の毛という毛の穴が見えるほど
「僕はずっと、なっちゃんが、すーー」
初めての感触だった。冷たいような、温かいような、甘いような。酸っぱいような。そしてどこか悲しい。僕は事態を把握するころには、電車のドアがどんどん閉まる。
「これがお返し。そして……さようなら」
バイバイでも、またねでもない。別れの挨拶。そんな言葉が聞こえた気がした。
どうやら僕はまた、機会を逃したようだ。その言葉は夏とともに消えていった・・・・・。
会社も忙しくなり、なかなかおばあちゃんの家に行けない矢先。おばあちゃんが亡くなった。僕はお葬式のために、家を訪れた。
暑い暑い夏だった。お世話になった人が亡くなるとやはり悲しい。ただ、ここんところ葬式が多かったので、涙は枯れていた。まったく、なんだかな。
この家はおばあちゃんの意思で、僕が引き継ぐことになった。引き継ぎの契約とか面倒くさいなとか考えていたら、嫌になってきて外を散歩した。
結局、受験は失敗した。だけど後悔はしてない。本当にやりたいことを見つけたからだ。今はそれができてとても満足している。
相変わらず野山が綺麗だ。田んぼにはトンボが飛んでいる。雲により夕日が斜めにいくつも差し込んでいた。
コンビニの隣に、新しく家が建っていた。坂の上を見ると、新しく無機質な建物が建っている。興味を惹かれ、坂を上る。雲のオブジェを背に向けて。
どうやら児童館のようだ。僕は驚いて、受付の人に話を聞いた。
どうやら前の児童館を壊そうとしたとき、強い反対の声が市民からあがり、解体目前で中止になった。しかし、児童館自体が古い建物だったので、改築工事をしてようやく去年に終わったようだ。僕は二階の図書室に行った。道中、夏休みだからか子供の数がかなり多かった。最近の田舎ブームの影響だろうか。
僕はドアを開ける。僕の知っている図書室となにもかも同じだ。僕は座席の置いてある窓際に歩みを進める。
いた。夕日が差し込まない、陰になっているところで、難しそうな本を読んでいる、本がちっとも好きじゃなかった女性が。彼女の髪型はちょうど高校時代の由紀と同じだから、もしかしたら由紀かもしれない。だけど、僕は迷いはしない。もう絶対に間違えない。
「もしかして、夏海?」
彼女がこちらを見る。彼女の目はみるみる大きくなる。彼女は1が上下逆さになった文字が書いてある栞を手に持ち、僕に見せる。
僕も慌てて鞄から本を取り出し、本に挟まっている栞を見せた。
やっぱり人生なんてどうしようもない。だけど、今はそんな人生が狂おしいほど好きだ。
どこか遠くでセミが泣いているのが聞こえた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
正直、入れ替わる流れいらなかったような?