第壱話 見知らぬ、天井
「知らない天井だ……」
――見知らぬ、天井。
寝ころんだ状態で意識が覚醒したので、目に入るのは当然そうなる。
いや馬鹿なことを口走っている場合じゃない。
見知らぬというのであれば、自分自身のことを見知らぬといえる状況になっていることをまず焦るべきだ。
記憶喪失か?
これは記憶喪失ってやつか!?
寝起きでぼーっとしている状態というわけではない。
身体の感覚はなぜだかぼやっとしているが。
ただ俺が俺だということはわかる。
だが俺が誰なのかがまるで分らない。
うおああぁあ、すっげ不安なんですけど!!! なんだこれ!!!
言葉、語彙は普通にこうやって出てくるし、思考も混乱しているとはいえ明瞭な点はまずは救いだ。
何もわからず意識すらはっきりしていなければどうしようもないが、一応今は考えて動くことができる。たぶん。
――いや救いかな、これ?
いっそ何もわからなくなっている方が幸せなのでは、と思わなくもないが、俺が誰だかわからなくても、間違いなく俺は俺だ。
うん、自分でも何を言っているのかよくわからない。
あれかな、哲学かな? 難しいな……
そもそも今、俺の目に映っているのは天井じゃない。
広義では天井になるのか?
洞窟の上部というかなんというか、とにかく自然な空に対する蓋だ。
岩だか土だかは判然としないが、空が広がっているわけはないのだけは確か。
その割には仄かに明るいが。
そもそも空が確実にある世界だという保証もない。
このいかにも『迷宮』という空間が世界の全て、というパターンだってあるにはあるしな。
とにかく知らない下宿の天井でもなければ、染みを数えていればそのうちに終わるという天井でもない。
そんな状況で目覚めたら、びっくりするどころではないだろうが。
いやそういう状況こそが合う躰だったらどうしよう。
そうだ、思考における一人称が「俺」だからと言って、本当に俺が男だとは限らない。
僕っ娘とか、俺っ娘とかいう分類は確かに存在したし、俺がそうではないという保証などどこにもない。
…………。
さっきから流れるように出てくる思考から鑑みて、どうやら記憶を失う前の俺がろくなものではなかったのは、残念ながらほぼ確定のようだ。
間違いなくクソオタクの類に分類される。
しかも異世界転移・転生やエ○ァ、エロ系や僕っ娘、俺っ娘などのネタがさらり、いやぬるりと出てくるあたりなかなかに末期だったとみて間違いなかろう。
こういう思考をしていること自体が、その予想を強力に裏付けているのが我ながら痛々しい。
問題は年の頃だが、若者だと信じたい。
いい歳をしてこの思考というのはさすがに耐えがたい。
でもなー、エヴ○ネタがスっと出てくるってのはなー。危険だなー。
まあいい。
思い出せない前世だか、本来の自分だかに思いをはせるのは後だ。
記憶がない以上、今の自分の身体が「本来の俺のもの」という保証などどこにもないが、とりあえず自分の五体をきちんと確認するのは大事なことだ。
スライムになっているだとか、蜘蛛になっているだとか、芋虫になっているだとかいう緊急事態ではないようで、とりあえず人間の五体だという感覚はある。
まずはセーフ。
まだどこかぼやっとした、靄がかかったような感覚は残ってはいるが。
それにとりあえず人間形態とはいっても魔族だとか、獣人だとか、亜人だとかあるので油断はできない。
TSであれば望むところだが、元が男か女かの記憶がない以上確認できないので、TSしているかどうかも分からない。
望むところというのが、なかなかに己が業の深さを自覚させる思考ではある。
よし決めた。
乳があって狼狽えたら、もしくは喜んだら元男のTS。
チ○コが生えてて狼狽えたら元女のTS。
いざ確認。
ち。生えてやがら。
乳もないので両性具有種族というわけでもない。
ゴッ○モザイクもかかっていない。
残念ながら鈍器ワールドに紛れ込めたわけでもないらしい。
全く狼狽えてはいないので、どうやら元女ということもなさそうだ。
見慣れた代物なのだろうというのは、なかなかに萎えさせる分析ではある。
また粗末なものを見てしまった。
つーかマッパですか。
こういう時は、それなりの初期装備を与えといてくれるもんじゃないんですかね?
異世界転移して、直後にその世界の衣服を身に付けているのはやっぱり不自然か。
いやその場合、移転前の世界の服を着てりゃいいだけの気もするケド。
ターミ○ーターに準拠するのであれば、マッパというのもそうおかしなものでもないのか。
馬鹿なことを考えながらいつまでも寝転んでいても仕方がないので、とりあえず起き上がる。
鏡が無いから顔の造作はわからないが、見た限りごく普通の人間の男性体に思える。
あと剥げてはいない。わりとふさふさ。
その髪の色は白に近い金――日本人ジャ、アーリマセンネー。
それに一見して相当に鍛えられた身体だと言って、言い過ぎではないだろう。
しなやかな筋肉、とかそういう言葉が、自分の身体を見てまず浮かぶほどだ。
そしてたぶん若い。
以上の情報により、これは本来の俺の身体じゃないだろうなー、というのを強く感じる。
今の俺のような思考をする人間は、こんな身体を作り上げる為に必要な労力を払わないような気がする。
気がするだけで実はそういう趣味もあったのかもしれないが。
というかさっきから頭に浮かぶ知識を持っているのは日本人としか思えない一方、今目の前にちらちらと見えるサラサラの髪は日本人のものとは思えない。
つまり身体と中の人が一致していない可能性が高い。
だが見慣れたものが生えているという感覚を持ってしまうのが、なかなかに解せない。
見慣れたものは身体を鍛えたからとて強化されるものではなかろうし。
ということは、この身体は本来の自分の身体を理想的な形に鍛え上げられた結果という可能性も微レ存。
誰がだよ、という思考の突込みは深堀するとちょっと怖いので凍結しておく。
とりあえずそういうのは後回し、少なくとも服を手に入れてから熟考するとしよう。
「考える人」ではあるまいし、全裸で考え込んでいる場合でもない。
ロダンもまずは服着てから考えろよって話ですよ。
まずは持ち物確認。
完全にマッパゆえ何もないかと思いきや、右手には粗末で半端な剣が一振り。
鞘もついてないし、うっかり寝返りうってたら危険だったんじゃなかろうかこれ。
しかし全裸に剣一振りとは、なかなかにマニアックなゲームスタートですな。
いやゲームではないんだろうけれど。
ステータス・オープンもできないし、視界に妙な表示枠が映し出されるわけでもない。
自分の残りHPやMP、装備も確認できない以上は、ゲーム世界への転生転移ではなさそうだ。そういう縛りの設定もあるかもしれないが。
「君はだあれ?」
くだらない思索にふけっていると、背後から急に声をかけられて軽く飛び上がる。
割とマジでびっくりした。
というか、聴こえた声は女の子のものに聞こえたけど、これ状況によっては一気に詰むのではござらんか?
異世界転生・転移とかカッ飛んだことを考えてたけど、普通に考えればただの記憶喪失というあたりが真っ当だろう。
じゃあなんでマッパで片手に抜身の剣持ってんだって話だが、それでも異世界転生・転移よりは十分にあり得る話だ。
その状況で声のとおりだとすれば女の子と、こんな地下みたいなところにいるところを第三者に発見されれば普通に事案である。
記憶が戻ろうが戻るまいが、とりあえず「俺」の人生は詰むだろう。
在り得るのは俺と同じ状況で近くに放り出されていた女の子が、意識を取り戻して話しかけてきたというパターンだが……いや、ないな。
その場合相手も全裸だろうし、マッパで片手に剣持って考え込んでる男がいたら息を殺して距離を取るはずだ。
もしも相手も同じ状況でアグレッシブな娘だった場合、先手必勝とばかりに剣をぶっ刺してくることすら考えられる。
悠長に「君はだあれ?」だけはない。
少なくとも俺だったら、絶対にそんな行動はとらない。
よくない未来しか想像できない。
そこまでを瞬時というには長すぎる時間をかけて考えてから、ゆっくりと振り向く。
冗談じゃなく、声をかけられるまでまったく察知できていなかったことがわりかし怖い。
別にボクデンじゃなくても、近くに普通の人がいたらそれなりに気配を感じられるものだと思うんだが……