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3 取引とは好意の交換だ

 ヘルムートが二日ぶりに目を開き、一番最初に見たものは天井ではなかった。手を伸ばせば届く距離で、ひどく陰気そうな男が覗き込んでいた。月の裏側からやってきたような不気味な顔をした男だった。


「やっと、ええ、やっと目を覚ましたな、ヘルムート卿」男は小鳥のような早口で言った。


 どうやら地獄の死者は吃りの癖があるらしい。ヘルムートはそう思った。美しい少女に心臓を喰われ、連れてこられた先に醜い男がいる。ひどい落差だ。

 きっとここは地獄なのだろうと思わずにはいられなかった。しかしそれだけのごうを背負った自覚もあった。三千人以上の兵を、初めから死なせるつもりでいたのだから。

 目覚めに不吉な男の顔を押し付けられたからといって、神に不平を述べるのも筋がちがうだろう。


「よく、よく事態がつかめてないようだな。うむ、わかるわかる。私も私もね、毎朝同じようなものでな。今の卿とすっかり同じだ。

 起き抜けに鏡を見るたびに混乱、まさにそうだ、混乱するのだよ。夢の中では私もひとかどの男っぷりでね。髪も、ほら」と言って男はぴしゃぴしゃと薄くなった頭頂を叩いた。


「夢の中ではこんなに禿げておらんのだよ。神とはなんとも慈悲深いものでな。慈悲深い。慈悲深い。せめて夢の中だけは理想の自分でいさせてくれる。ただ神は気づいていないのかもしれんな。朝日とともに現実を突きつけられることが、どんなに、ほ、ほんとうに、ああ、いや。私の話はどうでも、まったく関係のないことであったな」


 薄く笑う男の顔を見てヘルムートは少しだけ男に同情した。きっと彼は、毎朝いまの自分と同じ気持ちになるのだろう。自分なら夜明けが恐ろしくなるかもしれない。


 男はヴェトモン・フォン・インフィールドと名乗った。

 その名前にヘルムートは覚えがあった。あまり良い噂の聞かない名前だった。それはインフィールドという家名についた噂だ。代々情報の収集を生業としている家だという。

 石ころを集めるように、まるで他人には価値がないと思うような些細な情報を集めては、膨大な量の引き出しに仕分けするような職だ。


「ヘルムート卿は奇跡的に生き残った。か、神のおかげおかげで。アッシュウォルク家が、だ断絶することはなくなったわけだ。君のぎ、義兄であるところのバルマンは不幸なことであったが、か、か、神はアッシュウォルク家を、お見捨てにはならなかった、ということだな」


 どうやら自分のこともすっかり調べ上げられているらしい。せわしなく動く男の口元と眼球が、ヘルムートを現実世界に引きずり出したようだった。それは痛みがあることで生を実感することによく似ていた。


「私は生き残ってしまったのですね」


 事の経緯を聞き、ヘルムートの口から出た言葉は落胆だった。失望にも聞こえた。


「そ、そうだ。卿だけが、迂闊にも卿だけが生き残ったのだよ」とヴェトモンは言って額を撫でた。


「卿は帝国兵三千を死地に向かわせた張本人だ本人だ主犯だ。おかげで作戦は成功とな、となったがね。しかし完全に成功ではない」


 ヘルムートにはヴェトモンが何を言わんとしているかが理解できた。

 ヘルムートは時間をかけてベッドから起き上がり、漆喰の壁に背をつけた。痛みはない。そして失ったはずの腕で脚を抱えた。ひやりとした冷気が背中に広がっただけだ。

 全てが夢だったのだろうか。何もかもが完全に無かったことにされた気がした。


 ちょうど顔の隣に窓があった。傷だらけのガラス窓から陽の光が差し込んでいる。弱々しい日差しは、薄ら寒い部屋に入り込んだとたん霧散していた。それは季節によるものなのか、もしかしたら目の前の男のせいであるような気もした。


 ヘルムートは窓の外を眺めた。眼下には深い森が広がっている。ここの風景を絵に描くとしたら、たぶん緑色の顔料が不足するだろう。そんな暴力的な森だ。


 視界の隅で立ちあがる煙が見える。まるで空から糸を垂らしているようだ。

 ここはレムネント要塞だとヴェトモンは言った。だとしたら煙のあがる場所が本来なら自分の死ぬ場所だったのだろう。


「あそこが卿のし死ぬはずだったば場所だ。そして卿は生き残り、三千人以上がし死んだ」


 ヘルムートはヴェトモンに振り向いた。不気味な目だった。のっぺりとして奥行きがない。まるで光がなかった。しかし奥行きがないからこそヘルムートには深く見えた。


「卿は生き残り、は、は、はからずも英雄となるだろう。卿の草案通りレムネント要塞はわ、我が帝国の手に戻ってってきた。しかし、ね、しかし」ヴェトモンはせかせかとした動作でベッドを迂回すると、ヘルムートと窓の下を見下ろした。


「あ、蟻の一穴といったかな? どうもわ、私は卿ほど難しい言葉を知らない」絡みつくようにヴェトモンは言った。


 お前のことは全て知っていると言外に言っていた。本ばかり読んでいる貧乏貴族の次男坊だろうと匂わせていた。そしてそれは事実だった。


「どんな強固な要塞も、蟻の一穴でくず、崩れることになる。まさに、うんうん、まさに卿の戦略通りだ。だから、卿ほど男ならわ、わかるはずだが?」

「私が生き残ったことが蟻の一穴だということですね?」


 ヘルムートはボサボサの黒髪をかきあげた。困ったときや照れを隠すときの癖だった。

 そして彼は実際に困惑していた。ヴェトモンが言いたいことはわかる。死ぬはずだった自分が生き残ってしまい計画が狂ったのだ。しかしそれは彼自身もそうだった。おめおめと生き残ることなど思いもよらなかった。

 だからとして、どうしろと?

 舌でも噛んだらヴェトモンは納得するのだろうか。しかしそれではアッシュウォルクの家名に傷が付く。目の前の不吉な男がうまく処理してくれるというのなら、ヘルムートはすぐにでも自害を選ぶだろう。しかし彼にそれを期待させる要素は微塵もなかった。


「卿にやってもらいたい仕事がある」とヴェトモンは言った。飛び出しそうな瞳は相変わらずのっぺりとしていたが、わずかな光をヘルムートは感じた。あまり気持ちのいい光ではなかった。沼が月の光で光るようなものだった。


「仕事……?」ヘルムートは言った。

「仕事仕事」とヴェトモンは薄く笑った。


「とても危険な仕事なのだよ。英雄の卿にふさわしい名誉ある仕事だ。そこらの凡庸な輩にはできぬ仕事だ。下手をすれば死ぬことになる」ヴェトモンは窓の外を見ながら言った。ガラスが擦れるような、小さくて、ひどくささくれ立った声だった。


 ヘルムートはヴェトモンの横顔を見ながら理解した。


「つまりそこで死んで、死んだ英雄になれと貴方はおっしゃる」

「君がの望む、名誉あるアッシュウォルク家の最期だと思わんかね?」

「つまりこれは取引だと?」

「卿はや、やはり出来がいい」ヘルムートの問いにヴェトモンは破顔した。


「勘違いしてもらっては、こ、こ、困るんだがね。取引とはつまり好意の交換だ。卿の望むものと、我々の望むものを交換しようじゃないかと、そ、そ、そういうことだと思ってもらったらいい」


 ヘルムートは髪をかきあげながら目を伏せた。

 どこまでこの男を信じられるのかが問題だった。それに、いまだ現実としての実感が湧いてこない。目覚めの悪い冗談のようだった。


「私は確かに死んだはずだった」後頭部をコツコツと壁に打ちながらヘルムートは言った。誰に向けたものでもないのは容易に見てとれた。だからヴェトモンは何も言わなかった。


 呆れるような青空の下で死んだはずだ。右腕もなかった。はらわたも撒き散らしていた。そして目の前でベイ・サリヴァンの生首が恨めしそうに自分を睨んでいた。

 せっかちな蝿がまぶたに止まっていた。死ぬのをどこかで待っている獣の歯ぎしりが響いていた。死んだ義母の呪いの言葉も聞いた気がする。

 そして最後に


「女だ」ヘルムートは呟いた。


 それは波紋のようにヘルムートの身体を伝った。投げ込まれた小石はやがて全身を震わせるほどの波となった。


「そうだ女だ。少女が私の心臓を食ったはずだ」


 ヘルムートの声にヴェトモンは眉をしかめた。理解ができないというより、気味が悪そうな目でヘルムートを見た。


「き、き、君は何を言って……」

「女ですよ。女が私の心臓を喰らったのです。だから私は死んだ。いや、そもそも私はすでに死にかけていた」


 困惑するヴェトモンの言葉を切るようにヘルムートは叫んだ。


「しかし卿の心臓は動いてい、いる」ヴェトモンはヘルムートの心臓の位置を節くれだった指でさした。「だから生きているのだがね」


 ヘルムートはおそるおそる胸に手を置いた。触れると火傷でもしてしまうような手つきだった。


「な、なぜだ……」


 ヘルムートの心臓は確かにそこにあった。けして力強くはないが、ひっそりと収縮と膨張をくりかえしている。


「卿はつ、疲れておるのだ。しかし……」ヴェトモンは言葉を切ると「女は確かにいる」とはっきりとした口調で告げた。


「卿に折り重なるようにして倒れたい、いるのを発見したのだよ。ヘルムート卿よ」ヴェトモンははじめて薄い笑いをしまいこんだ。まるでそんなものは存在しなかったかのように、魔術師のように見事に消し去った。


「あの女……い、いや違う。アレ(、、)は何だ?」


 あの人間とも、あの亞人、ともヴェトモンは言わなかった。彼はアレと言った。それしか言いようがないというふうだった。彼の脳内に敷きつめられた引き出しにもふさわしい言葉はなかった。


 ヘルムートは答えなかった。死ぬ間際に見た女。自分の心臓を喰らった女。それしか回答を持ち合わせていない。しかしヴェトモンがそれを期待しているとは思えなかった。


「念のため別の部屋に監禁して、い、いる。つ、ついてきたまえ。何か思い出すかもしれん」


 ヴェトモンは扉を開くと軽く手招きして出て行った。

 ヘルムートはヴェトモンの猫背が視界から消えるのを待って立ち上がった。ひとつ気づいていることがあったからだ。それをあの男に見られたくはなかった。


 窓から冬に特有の白々しい光が差し込む。それは空気中に舞う埃をきらきらと映し出している。同時にあらゆる物の影を床板に張り付けていた。ベッドの影はいびつな形をしているし、ヴェトモンが座っていた椅子の影はひどく脚が短く見えた。


 ヘルムートは自分の影の形を確認した。

 確認すべき対象は、どこにもなかった。





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