2 生きている英雄になど興味はない
レムネント要塞の薄暗い廊下に二人の男の足跡が響いていた。それは冬を控えたリスのようなせわしなさだった。
大柄の男は甲冑をきしませながら大股に歩いていたが、ときおり立ち止まり顔をしかめた。照明のランタンが壁から落ちて砕けている。羊の油から作った燃料があたりに飛び散って嫌な臭いがした。
「あちこちが痛んでいるな。亞人の蛮族どもは保守もろくにできなかったようだ」
レムネント要塞を奪還したのは喜ばしいことだが、アルティエリ執政官は多忙の極みにいた。部隊の再編成と防衛ラインの構築。要塞の保守点検や帝都への報告、捕虜への聴取や戦死者名簿の作成など多岐にわたる。
有能な副官が欲しいところだったが、そううまくはいかない。
アルティエリ執政官は二歩後ろを歩く男を振り返った。
「要塞内の要補修箇所の洗い出しと概算を出しておけヴェトモン」
「ええ、はい。まことにかしこまりました」
ヴェトモンは薄くなった頭皮を気にするように頭を下げた。ヴェトモンは五十歳手前の男だったが、アルティエリ執政官には自分よりはるかに老いているように見えた。薄くなった髪と細すぎる顎がそう見せていた。痩せたごぼうのようだとアルティエリ執政官は思った。
「三十数年間ぶりに我が帝国に戻った古巣は、どうやら手間と金をねだる女のようだな」
「はいはいはい、そうですそうです。女は女は歳を重ねるほど金ですね金を食います。女と要塞は新しいほどよいです」薄く笑いながらヴェトモンは言った。うまく返したと満足しているようだった。
アルティエリ執政官はわずかに息を吐いた。溜息とも落胆とも違う。嫌なものを体内から追い出すような息の吐き方だった。
ヴェトモンと話す時はいつも同じように息を吐いた。ある場面においては有能な男だったが、だからといって好まなければならない理由にはならない。
「しかし金がかかるからと手放すわけにはいかん。この要塞は三十数年……」
「三十七、三十七年でございます」
「三十七年間も……」アルティエリ執政官は眉をしかめながら続けた。
「三十七年間も帝国軍人の血を吸ってきたのだからな。今後は亞人たちの血を吸うことになるか、あるいは春のような短い平和が訪れるか。いずれにしてもこの要塞があればこそだ」
帝国と亞人領域を分断するように走る山脈がある。レムネント要塞はそのちょうど切れ間に位置している。敵国に大部隊で進入するためには、常識的にこのレムネント要塞を通過しなければならない。
かつて要塞を建造したのは帝国だった。しかし使い古しの書物のようにそれは亞人の手にわたり、過去長い年月戦いを繰り返してきた。しかし大規模戦略は国家の財政を蝕む。いつしかそれは予定調和の兆候を見せはじめた。春の後には夏が来るように。
「閣下ともあろうあろうお方が平和などと言ってはですね。言ってはですねいささか誤解を招きかねませんです。どこで、ええ、どこで誰が聞いているかわからぬです」
ヴェトモンは汗を拭くような仕草でひたいを撫でた。干からびて深く溝を掘っているひたいには光るものは浮いていなかった。
「ふん。狂信者どもか」忌々しそうにアルティエリ執政官は鼻を鳴らした。
「それで例の男の名はなんといったか?」
アルティエリは歩きながら聞いた。何度か聞いた気がする質問だった。しかし膨大な政治的案件と軍事司令官を兼任する彼にとって、その男の名前はたいした意味を持たないと判断した。そして記憶から消していたのだ。まるで胃袋と同じで、不要なものはできるだけ速やかに排出してしまいたいと彼は常々思っていた。
しかし話題を変えるにはうってつけだった。
「ヘルムート・アッシュウォルクでございますです閣下」
アルティエリはふたたび足を止めると、顎に手をやり整えられた短い髭をさすった。記憶を呼び起こすための儀式のようだ。
「ああ思い出した。爵位を持たない貧乏貴族の小せがれだったな」
言いながら数ヶ月前に本人に会った記憶を呼び出す。本ばかり読んで育ったような男だった。肌も白く華奢で、剣よりも筆が似合う男だった。平凡な男だった。勇ましい顔つきでもなければ、芸術家のような繊細さも感じられなかった。いかにも凡庸で、親しみやすさだけが取り柄のようにアルティエリには見えた。
「レムネント要塞奪還戦の戦略草案者でございますです」
「生きておったのだな」
「残念ながらですね、ええ、まことにです」
戦死者確認作業中の兵士が見つけた唯一の帝国生存者がヘルムートだった。猫の額のような平原には、三千人以上の帝国兵の亡骸が虚ろな目で空と大地を見つめていた。そしてそれと同等数、あるいはそれ以上の亞人も同様だった。逃げ去った亞人兵もいたかもしれなかったが、少なくとも帝国兵の戦死者数はおおむね会戦前と合致した。
腐肉を食らう獣を追い払いながらの確認作業は困難を極めた。もはや人間としての形状を保っていなかった遺体も多かった。おおむねというのは概算だ。上半身と下半身が永久に別れを告げた遺体を、はたして誰が同じ人物と確認できるだろうか。
臭気が気圧となって作業兵を苦しませた。布で口と鼻を覆ってみたが変わらなかった。少しの隙間を見つけては入り込んでくる虫のようだった。若い確認兵たちは、あちらこちらで吐瀉物を遺体に吐き出していた。すえた臭いが混ざり、胃の軋みをさらに連鎖させた。
彼らはこれが夏ならば地獄だなと思ったが、今も地獄だということに変わりはなかった。少しでも自分たちを慰めたかったのだ。
そんな惨状のなかヘルムートは発見された。古めかしい甲冑は傷まみれでへこみも多い。しかし不思議と彼は無傷だった。彼の騎乗していた馬は見当たらなかった。森にでも逃げ込んだのかもしれない。生きている馬の回収も重大な任務だった。しかし発見した兵士は馬どころではなかったはずだ。
ヘルムートの身体の上に、折り重なるように裸の女が倒れていた。女というよりは少女だった。夜明けの空に薄く張った雲よりも肌は白い。そして磨き上げた剣よりも輝く長髪がひどく兵士の現実感を削いだ。
夜空に太陽を見たような非現実感だった。
「この要塞にこの要塞にですね運び込んでありますです。いまだ、ああ、まことに遺憾ながらいまだに眠り込んでありますです」
「その女もか?」とアルティエリは言った。その声にはわずかに責めの色が忍び込んだ。
「申し訳ありませんです。指揮者が、はい指揮者が亞人の捕虜かもしれないと勝手に、ええ、私に無断で運び込んだようでございますです」矢継ぎ早にヴェトモンは言った。
「白い肌の亞人など聞いたこともないわ。まあいい今さら殺せぬ。しばらくは血にも飽きたわ。男が意識を戻したら女について答えさせろ。しかし、まったく……」アルティエリは舌打ちした。
「死ぬことが使命だった軍の指揮官が生き残るとはな。これがその男に幸運をもたらすのか、あるいは悲運を呪うのかは知れたものではないな」
「いかようにいたしましょう?」
「そうだな」少し考えてアルティエリは言った。
「死兵軍からの奇跡の生還だ。少なくとも民衆は喜ぶだろうさ。確か内海に面した辺境に、領主不在となっている領地があったな」
「ミハラヤス地方でございますです」得意げにヴェトモンは言った。記憶力は確かなようだった。
「爵位を授けてそこを与えてやれ。帝都には俺から報告しておく。それくらいの融通は利かせてもらおうか。もしかすれば、今後の平和に貢献した英雄となるやも知れん。暗い面を覆い隠すには……」アルティエリはわずかに瞳を曇らせた。少なくともこの戦役で死者は五千を上回る。戦果からしたら微々たるものだった。しかし、それでも忸怩たる思いもあった。
「……覆い隠すには分かりやすい英雄も必要となろうよ」
アルティエリは歩き始めた。この話は以上だと言外に言っていた。やらなければならないことは山のようにあって、今にも雪崩はじめそうなのだ。
「閣下はヘルムート・アッシュウォルクにはお会にはならないのですか?」控えめにヴェトモンは聞いた。後になって責任問題となっては困る。
「俺は生きている英雄になど興味はない」
振り返らずアルティエリは言った。彼の胃袋ではすでにヘルムートの名はすっかり消えていた。わずかな棘だけを残して。
うやうやしく腰を曲げたヴェトモンの口元が、奇妙に曲線を描いていた。英雄死すべし。彼もアルティエリとまったくもって同感だった。