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1 第二次レムネント会戦後

『ヘルムート卿を語る上で欠かせないものがある。そのひとつが彼は子宝に恵まれなかった没落貴族に拾われ、後に年少の義兄が生まれたことである。矛盾したように見えるが、まさに記述通りであった。当時の世相は我々が思うよりはるかに深い闇と、入り組んだ蜘蛛の巣に支配されていたと言ってさしつかえない。歴史にもし(、、)は厳禁ではあるが、それでも私は想像の翼を広げることを禁じ得ない。もし義兄バルマンが義弟バルマンであったなら、ヘルムートは英雄たり得たのであろうか、と。おそらく世界に英雄は現れずフルーフと呼ばれる少女も存在しなかったのではないだろうか、と』


 歴史家ヨハン・マルジェラ【ヘルムート年代記】より




 雲ひとつない蒼穹だった。

 それは冬の厳しさをごまかそうとしているしたたかさがあった。


 安物の青い布を広げたようなのっぺりとした空に、ヘルムートの吐き出す息が白い筋となって風に流されていた。

 かつて見上げた故郷の空によく似た空だった。

 ヘルムートは何かをつかもうと右手を上げた。しかしそこには、四十年連れ添った利き腕はなかった。

 もう本のページをめくることもできないじゃないかと不満に思ったが、その心配はそもそも必要のないものだった。


 誰が見ても彼はじきに死ぬからだ。


 右腕は肩の付け根から斬り落とされ、左足も膝の下から奇妙な形にねじれていた。

 甲冑の隙間からは内臓が溢れてぬたりと光っている。目ざとい蝿がまぶたの上にとまった。どこかでギリギリと鳥が鳴いている。

 血の匂いと土の匂いが混ざって鼻についた。それは間違いようもなく戦場と死の匂いだった。


 ヘルムートは眼球だけを動かしてあたりを見渡した。彼の倒れている近くによく知った顔があった。副官のベイ・サリヴァンだった。よく手入れをしていた立派な髭は、血と泥で赤茶けている。

 すぐに分かったのは、文字通り顔だけがヘルムートの脇に転がっていたからだ。その頭の持ち主の体はどこにいるのかもわからなかった。


 こじんまりとした平原には命を失った肉の塊が折り重なっていた。あたかもそこにあるのが当然のように、形而上学的に風景の一部となっていた。

 白い肌の人間と、黒、もしくは褐色の亞人たちの死体が幾何学的な模様でコントラストを描いていた。


 学徒が返却された答案用紙を眺めるようにヘルムートはそれらを眺めた。そして「我々は勝利したのだな」と確信した。


 ーー我々?ーー


 我々とは誰を指しているのだろう。いつも声をたてずに笑っていたベイ・サリヴァンは死んだ。そして私もすぐに死ぬ。

 ヘルムートは苦笑いしたが、唇の端で固まった血が剥がれただけだった。

 しかし少なくとも、彼が戦略をたて、そして戦術に落としこんだ奇策だった。そして自分自身が死ぬことも予定調和だった。


 ギリギリと鳥が鳴いた。カタカタと獣が歯を鳴らしていた。土は泥のようにヘルムートを包み込んだ。血の匂いと吐瀉物の匂いがした。ヘルムートの白い息は風に吹かれて見えなくなった。


 ーーなぜバルマン(あの子)が死ななきゃいけないの!?ーー


 ヘルムートは義母の声を聞いた気がした。

 その声はいつもヘルムートに違ったふうに届いた。


 ーーあなたが死ねばよかったのにーーと。


「なぜこんなことになったかなぁ。なあ義兄(バルマン兄さん)。私はただ……いや、もういいさ。そろそろそっちに行くよ兄さん」


 ヘルムートは細く垂れ気味の瞳を閉じた。


 そして最期の吐息はーー


 ひとりの少女に吸い込まれた。


 馬鹿馬鹿しいほど青い空を背に、ひとつの影がヘルムートを見下ろしていた。冬の弱々しい太陽の光をさえぎり、今生まれたばかりのような白々しさだった。

 ヘルムートは確認するようにまばたきをした。それで消えてしまいそうなほどに希薄だった。


「かンた、シねる、おモう、な」と影は言った。

 舌足らずな幼い少女の声だった。いち音いち音区切るようなしゃべり方だった。

 ヘルムートは声を失った。死を間際にして現れるという死神かと思ったのだ。それにしてはひどく緊張感がない。


「とがとゴうだ。ひャくまンのしノあと、クちてゆけ」影はほとんど消え入りそうな声で言い終えると、当然のような動作でヘルムートの裂けた脇腹に白い腕をねじ込んだ。

 そう決まっているからそうしている。まるでやり場のない虚無感がしむけているような仕草だった。

 不思議と苦痛はなかった。その峠をヘルムートはすでに超えていた。


 泥の中で宝石を探すような音が辺りに響いた。

 まるで子供が遊んでいるようだとヘルムートは思った。幼い子供は命で遊ぶものだ。ヘルムートもそうだった。森で昆虫を見つけては捕まえ、飼育したり時には残酷に殺したりもした。

 だから私の命が遊び道具になってしまっても不思議ではない。そんな風に思った時、少女が顔を上げた。

 おそろしく無邪気な笑顔だった。ひどく無垢な瞳だった。

 細く白い手のひらには脈打つ心臓が握られていた。

 それが何かヘルムートは直感でわかった。


「フしのきょウき、タノし、め」少女はヘルムートの心臓をペロリと舐め、そして歯を立てた。


 頭の中にある台本を読んでいるような少女の声を、ヘルムートは聞いていなかった。

 ただただ、目の前に広がる安っぽい青空と、そこに舞う銀色の長髪を美しいと思った。

 そして自分の心臓を貪り喰らう少女を、なぜだか愛おしいと思った。





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