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「月を見ておいでですか?」


 ヘルムートは少女の声に「ああ」とも「うん」ともつかない返事をした。月下で眠るものたちを起こさないよう気づかうような声だった。


「フルーフもご覧よ。今日の月は格別にきれいだよ」


 ヘルムートはそう言うと少女へ振り向いた。

 月の光がフルーフの髪を青白くふちどり、まるで産まれたばかりの妖精のように映した。純白のワンピースがよりいっそう幻想的で、非現実的なまでに美しい。それは付け加える要素はひとつもなく、削ぎ落とすものなどまるで存在しない美しさだった。

 楓の枝がフルーフのワンピースにひび割れのような影を落としていた。それすらも彼女の無垢な可憐さを引き立てていた。


「大丈夫。誰もいないよ」


 仔犬のように辺りを窺うフルーフに、ヘルムートはやさしく声をかけた。そしてこの地では珍しい黒髪をわしゃわしゃとかきあげる。まるでいたずらがバレた子供のようだった。少なくとも、この地を治める辺境伯で、なおかつ帝国の宝剣と呼ばれる武人とは思えない仕草だった。


 そんな彼の、本来なら影があるべき場所にフルーフは駆け寄った。

 乾いた地面にはひび割れの影しかなかった。ヘルムートは影をもたなかった。雨が柔らかい地面に染み込むように、地中へ吸い込まれているようだった。失ったのだ。遠い昔に。


「探しました。お部屋に戻りましょう」とフルーフは言った。


「おや、もうそんな時間かな?」とヘルムートは目を丸くした。そして「どおりで」と月をふたたび見上げた。つられてフルーフも天を仰いだ。雲ひとつない月夜だった。おかげで星は霞んでいる。月は冷酷に美しさを主張していた。それはフルーフにひとりの女性を連想させた。そして思考を停止した。今は二人だけの時間なのだ。


 フルーフはくすんだ真鍮製の懐中時計を見せた。

 午前零時まであと数分だった。


「誰も見てやしないし、今日はここで」、ヘルムートはそう言うと小さく付け加えた。「できれば月の下で死にたいんだよ」


「保証はいたしかねます」とフルーフは言った。かすかに唇が震えている。

 ヘルムートが彼女と同じように、今は亡き婚約者を思い出しているのが分かったからだ。それと同時に、この場でヘルムートが命を落とすことなどないことを、彼女だけが知っていたからだ。


「保証か……。分かっている。そんなものは始めからない。だから、頼むよフルーフ」

「はい。かしこまりました」


 仔犬のような目で見られて、フルーフはしぶしぶ首を縦にふった。


 まるで急かすように懐中時計が乾いた音をたてた。


 毎夜二人で聞く独創性のないこの音は、儀式のはじまりの鐘の音だった。ひどく凄惨で、祈りに満ちていて、救いのない巡礼だった。


「今日はどんな死に方だろう?」ヘルムートは興味深そうに尋ねた。


「かねてより探していた毒薬が見つかりました。今日つい先ほどアレイヌ様がお持ちくださいました。内海を超えた南の砂漠に生息する毒蛇の内臓と、数種の魔法薬を混ぜ合わせたものでございます」


 まるで晩餐のメニューを朗読するようにフルーフは告げた。今晩のメインディッシュは、香草豚の蒸し焼きにオレンジソースを添えて。そんなぐあいだ。


「よくわからないな」とヘルムートは笑った。そして「アレイヌはまた老けていたかい?」と聞いた。


「はい。お年を召しておりました。不完全な不死とはいえ、もう無理の効かない体ではないかと思います」


 フルーフは刃渡りが手のひらほどの短剣に、慎重な手つきで毒を塗らながら答えた。そしてその慎重さは、言葉を紡ぐ時にこそ込められた。


 ほとんどすべての男がそうであるように、かつて少年だったアレイヌは歳をとり、ヘルムートは壮年のままだった。

 不完全と言ったが、人間にとってどちらがより不完全なのか、フルーフには分からなかった。


「さて、どこがいいかな?」


 フルーフの持つ短剣が紫色の光を放ちはじめ、ヘルムートはいつものように聞いた。


「心臓がよろしいかと」、フルーフもいつものように答えた。


 そして少しだけ二人で笑う。最初は恐怖からきた笑いだったが、繰り返すたびにそれは呆れたような笑いに変わってきていた。それに気づき二人してまた笑った。


「アレイヌ様より伝言でございます。『もしその毒で貴様が死ねたなら、俺も使わせてもらおう。良いかな?』とのことでございます」

「もちろんいいとも。と言っても死んだら伝えられないけれどね」


 確かにその通りだとフルーフは思った。


「では先にアレイヌ様に伝言を……」

「ああ、いい。いいよ冗談だ」とヘルムートは振り向こうとしたフルーフの肩に手を置いた。


「私の血を飲んだ彼のことだ。きっと私が死ねば彼も死ぬさ」


 ヘルムートは笑いをこらえようとして失敗した。

 確信に満ちた笑顔だった。生真面目なフルーフを少しからかったのだ。


「さ、始めてくれよ」


 ガウンの下のブラウスのボタンを外し、心臓の位置を露出させる。その位置にフルーフは心配性の彫刻家のように切っ先をあてがう。


「今日私は死ねるだろうか?」ヘルムートは言った。

「運がよろしければ」とフルーフは答えた。嘘だと知りつつ答えた。


 それが毎晩の合言葉だった。懇願と欺瞞に満ちた合言葉だった。


 フルーフは少しだけヘルムートの顔を見上げてから、手のひらで短剣のつかの底を押し上げた。ぬるりとした触感がつたわる。熟れすぎた果実を突き刺したように、まるで抵抗を感じなかった。


 どこをどの角度で刺せば最短で心臓にたどりつくか、フルーフにはすっかり分かりきっていた。右足で地面をければ左足が前に出るくらいには分かっていた。

 ヘルムートの臓物や骨の位置は、今のフルーフにとって目隠しで走り抜けられる我が家のようだった。


 ヘルムートの口からくぐもった空気のかたまりが抜けた。吐血が宙を舞ってフルーフのワンピースに赤い模様を描いた。白いワンピースが赤いシミのあるワンピースに変わるまで、ほんのわずかな時間しか必要なかった。


 血だまりの中でヘルムートは膝を折った。フルーフも短剣が抜けないように寄り添った。お互いの肩に頭を預けるような格好だった。


 ヘルムートは血と苦痛の喘ぎを吐きつづけた。

 短剣は脇道にそれず心臓を貫き、人間ならば百回は死ねる量の猛毒を撒き散らしている。触れるだけでも即死してしまうような猛毒だ。

 それでもヘルムートは死ぬことなくもがき続けた。歯を食いしばり、大地に爪をたてる。芝がめくれて土の匂いがした。それは血の匂いと混ざりあい、ヘルムートとフルーフに、二人が出会った頃の戦場を思い出させた。

 静寂が油のように染み込んだ庭園に、ヘルムートの苦悶と衣擦れの音だけが波紋をたてた。


 死ねることなくもがきつづけるヘルムートに、フルーフは寄り添った。まるで宿命に打ち付けられた影のようだった。





「……どうやら今日も死ねないみたいだね」とヘルムートは声をあげた。心臓が短剣を飲み込んでから、たっぷり数刻を経てからのことだった。


「そのようでございますね」とフルーフはヘルムートの肩に額をつけたまま答えた。


「命を落とすって言葉は好きになれそうにないな」

「どうしてでございますか?」


 フルーフは血と土にまみれたヘルムートの指先を見ながら聞いた。剥がれた爪も、トマトの皮のように破れた皮膚も、すべてが元どおりになっていた。あるべき姿に戻っていた。あるいはあるべからざる姿に戻っていた。違うようで二つは同じことだった。


「死ぬことを命を落とすって言うだろ?」

「はい」

「あれは嘘だ」とヘルムートは自嘲気味に笑った。


「私は命を落としたんだ。落としてどこかにやってしまった。それは地中かもしれないし、あの月の裏側かもしれない。どちらにしても」、少しだけ息を吐くと「もう手が届かないよ」とヘルムートは言った。


 フルーフは何も答えなかった。


「だから死ねないんだ」


 フルーフは唇を噛んだ。そして涙をこらえた。何からくる涙なのかフルーフにはわからなかった。哀れみか、それとも嘘をついている嫌悪感からなのか。


「ご心配なさいませんよう。わたしはヘルムート様の呪い(フルーフ)。百万とおりの方法で貴方様を殺しつづけるのがわたしの存在する意味なのです。必ず殺してさしあげます」

「終わりが見えない約束だね」とヘルムートは頭をかいた。


「少なくとも始まりはありました」とフルーフは言った。


 二人が出会った戦場がすべての始まりだった。それはすでにはるか昔のことだった。


「始まりがあるのですから、終わりはやがて訪れます」


 それが百万回目であろうとも、とフルーフは胸の中でつぶやいた。


 月だけが始まりから最期おわりまでを見下ろしていた。幾千もの黄昏と夜明けのあいだを。


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