00
少女の眼下で生きるものはなかった。
人も獣も、そして街並みすらも。すべてはそこで完結していた。愛が憎悪へと裏返るように、もしくは憎しみがやがて憐憫に変わるように、それはほとんど宿命的に見えた。
少女は礼拝堂だった瓦礫のうえで廃墟を見下ろしていた。もしくはかつて栄えた港街の記憶を見つめていた。どちらであるかは少女自身にも分からなかったが、そんなことはあまり意味のないものだった。ツバメのように戻ってきただけなのだから。
湿った南風が髪をまきあげる。内海の上をすべってきた風は、ひどく臭った。
時を経てなお美しい彼女の銀髪とはうらはらに、よどんだ風は記憶の彼方にあるものとはもはや別物だった。
あらゆるものは彼女の視線のなかで時を刻み、変化し、うつろい、歪められ、失われてきた。仕方のないことだ。
薄い緑色の瞳が月を見上げた。
黄昏と夜明けとのはざまで、月は中天に位置し世界を青白く染めている。美しい月だったが、どこかよそよそしい中古品のように見えた。丁寧に磨かれたあと店頭に並んでいる、そんな取り繕ったような美しさだった。
変わらないはずのあの月も、あの人と見上げた時の記憶とはずいぶん違って見えた。変わらないものはあの人とわたしだけだ。あの人は今でも世界を愛している。彼女はそう思った。思わずにはいられなかった。
そしてもうひとつ。
あの人と交わした約束。
黄昏と夜明けとのすきまで、幾万と交わしてきた凄惨な愛の儀式。それは世界が滅んだとしても変わることはない。
少女は唇を噛み、少しだけ涙を流した。絹のような細く滑らかな涙だった。
「ヘルムート様。すぐにわたしが、あなた様を殺してさしあげます」
少女の声は海峡の唸りのなかに吸い込まれた。
不意の突風に驚いたのか、ねじれた姿をした海鳥たちが一斉に飛び立った。そして少女の姿は朝露のように消えていた。
この物語は不死の男と、呪いの少女の年代記であり、それと同時にただの恋物語でもある。
それ以上でもそれ以下でもないことをここに記す。