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定時制の夜に  作者: 猫缶
2/6

ある日、忘れ物を取りに

高校三年生の秋。


「教授、タバコ頂戴」


僕は作文用紙の束を前にして言った。


教授と呼ばれた藤田はマディソンバックから


煙草を一本取り出して僕の口に咥えさせてくれる。


ポケットから年季の入った古いジッポを


取り出すと渋い音が鳴りながら火がつく。


放課後の学校は静かで外は冷たい風が唸りを上げて窓ガラスを叩いていた。


「お前が学校で煙草吸うなんて珍しいな」


「別に吸いたくないよ」


「じゃあ、なんで?」


「噛み潰したいだけ」


僕はフィルター部分を噛み千切り、マルボロを両切りにした。


そして口の中に入るタバコの葉を唾と一緒に教室の床に吐いた。


作文用紙の束にウンザりしていた僕。


世界史の授業のレポートを僕は五人分も書かなくてはいけない。


尚且つ一つずつテーマが違っていた。


最低二枚書かなくてはいけない。


単純計算で五人分で十枚。


勝手な事を書いて良いのなら数時間で終わるが、


教科書やプリント用紙を見ながら歴史を書かなくてはいけないのが、


非常に手間でウンザリしていた。


僕達の仲間内ではそれぞれ役割があり、


谷口は数学。中村は現代社会。白鳥は日本史。上村は英語。僕は歴史。


けれど教授だけは分担に荷担せず自分でやっていた。


ベランダで両切りのマルボロを吸っている僕。


僕の書き終えたレポートを見ている教授。


学校には僕達しかおらず、満月が柔らかく弱々しい光で暗い道を照らしていた。


月を見上げるとウサギが餅をついていた。


「教授、今日は月にウサギが見えるよ」


「見えねぇーよ。どんなんだよ?」


「へっぴり腰で餅を突いてる」


「不味そうな餅だな」


「月の重力で練ってるからふわふわだよ」


「かもな……なんか腹減ったからコンビニ行かない?」


僕は頷いただけでしばらく煙草を吸っていると教室の電気が消えたところで、


ようやくベランダを後にして教授の側まで走って追いついた。


コンビニのドアを開けながら教授が呟いた。


「深夜のコンビニの光って落ち着くよな」


「そうだね」


一周する形でコンビニの中を回り教授はアイスボックスの前で足を止めた。


「アイス食いたくない?」


「もう直ぐ冬だよ」


「冬になったら、次の夏まで食わないだろ?」


「そうかも」


「じゃあ、最後に食っとこうぜ」


レジにカップアイスを持って行くと、コンビニオーナー夫人がレジに立っていた。


「珍しいね。こんな時間に来るなんて」


オーナー夫人とは高校一年生の時からの知り合いで、


お腹を空かしていた僕達に良く賞味期限ギリギリの弁当をくれた。


「捨てるぐらいならタダであげた方が良いの」


そう言って。


「まだレポートが終わらなくて帰れなくて」


「このカップラーメンも持って行きな。奢りだよ」


オーナー夫人は袋に一緒に詰めてくれた。


コンビニを出ると霧雨が降っていて月は雲に隠れていた。


夜道を走って僕達は学校に戻ると着いた頃には、


コンビニのビニールの中に溜まった雨水でカップアイスが少しだけ溶けてしまっていて、


木のヘラは手術用メスの様にアイスに刺さり、味気ない物となっていた。


「お湯沸かしてくる」


教授が出て行った後の教室で僕はまたレポートに取り掛かり残り一枚を残す所なった。


そうこうしている間にカップラーメンを二つ持って教室に戻ってきた教授。


「良いよ。ほら、あと一分だぞ」


差し出されたカップラーメンはそれは新発売で全然売れない為に直ぐに消えたラーメンだった。


「不味いな」


ラーメンを啜る教授。僕も無言で頷き食べる。


食べながら残り一枚のレポートを書き終えた。


「終わった」


「俺も」


「煙草吸うか?」


教授は頷く僕に煙草を投げて渡し、煙草を吸いながらベランダで自分の書いたレポートと


僕の書いたレポートを見比べる。


「俺のより良く出来てるじゃん」


「交換してあげても良いよ」


「どうして?」


「煙草のお礼」


「もっと自分の価値を大切にした方が良いぞ」


「こんなレポートなんて煙草数本の価値しか無いよ」


「もっと高い空気を吸えよ」


「高いところの空気なんて薄くて不味いよ」


「だっせーから一度しか言わねぇーからな。才能有るぞ。ひたすら書き続けろ。


頭だって良いんだ。勉強しろ。少なくともお前は学校で一番文才がある。


これはのぼせても良い事だ。自分の価値を安くするな。


お前ならレベルの高いところへ行けるよ」


お世辞を言われても僕は浮かれない。


中学生の時の自分を思い出してしまって。



中学校一年生の九月。


空には一筋の雲、飛行機雲が走っていた。


遠くから聞えるトラックのクラクション。


空にはまだ太陽が高く、熱気が騒がしくて蝉時雨がどうにも悲しかった。


家に帰るとテレビには桜が狂い咲きをしていて、


子供達が噴水の広場で水浴びをしている映像が流れていた。


冷蔵庫から氷を取り出しすと僕は口に放り込み一口齧った。


シャリと音を立てて割れ、口の中でゆっくりと溶けて行く。


その後、二階の自室に行くと机の上に鞄を放り出して椅子に座る。


夏休みが開けたばかりで、休みボケをしていた僕は溜まっていた課題を片付けようとしていた。


まだこの頃の僕は真面目に勉強していた。


劣等生の友人達も多かったが、彼らと仲良くしながら優等生との付き合いも忘れず、


テスト前にはこっそりと勉強をする様な奴で、服装もYシャツのボタンは全部締めていたし、


シャツをズボンの中に入れて、学ランの詰襟をしっかりと締めていた。


髪が短くて眼鏡をしていた僕は上履きをスリッパにする事は無く、


見た目も中身も真面目な生徒だった。


二次関数に頭を悩ませる事も無く、古文の文法も丸暗記をしていて、


班長もやる程に出来た子供だった。


けれどあの日、鞄の中を広げるがプリントが見つからなかった。


椅子に凭れ掛りながら伸びをした後、学校に忘れたと思って僕は椅子から立ち上がった。


僕の家は中学校の直ぐ側にあり、往復で五分も掛からない。


その日は二者面談があって先生と生徒が今後の事を話し合う為に授業がカットされていて、


なるべく早めに終わらせたかった僕は最初の方にスケジュールをいれて貰って


早々に終わらせていた。


二者面談最終日だったあの日は六時まで教室が使われており、


入れるかどうか解からなかった。


が、僕は時計を見て午後五時なのを確認して、


終わるまで学校で待っていれば良いかと思いながら学校へ向かった。


正門から出てくる生徒達は二者面談を終えたばかりで僕は適当に挨拶をして、


下駄箱で上履きに履き替えて二階の教室へ向かった。


廊下には数名の生徒が待機していてヒソヒソと話をしていた。


僕の教室の前にも一人の生徒がいて、女子の吉田さんだった。


「まだ終わってない?」


「江崎が長引いてる。あいつ不良だから」


僕の質問に答えると吉田さんは廊下の窓に向き直った。


廊下の窓からはプールが見えて水泳部が泳いでいた。


「涼しそうだね」


吉田さんはおでこにうっすらと汗をかいていた。


「そう言えばあんた達、この前プールで泳いでいて怒られてたよね」


「それは僕じゃなくて、僕と一緒にいた卓球部の奴ら」


「なーんだ、そっか」


卓球部はプールの隣の技術室と言うスペースを放課後になると練習場として使い、


そこはDランクという卓球部の中で一番下手な連中が使うスペース。


一言で言えば劣等生の巣窟。


僕は放課後、良く遊びに行っては彼らと話をしていた。


あの頃の彼らは練習もせずに鬼ごっこをしたり、


「外周行って来ます」と言って外に出てコンビニで買い食いをしてサボっていたり、


プールに無断で入って怒られたりしていた。


思い出に浸るほど、昔の事ではなかったのに思い出すと褪せているように思えた。


これが青春? 鼻で笑った。あの頃、青春はもっと先にあると思ってたから。


「それよりなんで来たの? 私で最後だよ」


「忘れ物。プリント取りに来たんだよ」


「数学のプリント?」


「違う、社会の。ゴキブリがうるさいからさ」


「なんで堀越先生の事、みんなゴキブリって呼ぶの?」


中学生の頃に堀越先生と言う社会科の教師がいた。


顔の唇の近くにホクロがあって口臭がハッカとつソースと煙草の臭いがするから


生徒に嫌われていた。


最初のあだ名が「堀越」を略して「ホリホリ」だったが、


「ホイホイ」と「ホリホリ」がに似てる事から


「ゴキブリ」と言うストレートなあだ名で影口を叩かれていた。


そう説明すると吉田さんは「単純だね」と笑った。


あの笑いがあの時には分からなかった。


幼いな、そんな含みを持たせた馬鹿にされた笑いだったと分かったのは随分後の事だ。


「夏休みどうだった?」


「いつも通りだよ。始まる前の方がドキドキしてる癖に何にも無い。宿題やって終わり」


「私、宿題やら無かった。それどころか勉強もしなかった。塾も辞めちゃった」


「なんで?」


「夏休み楽しかったよ、私は」


会話が噛み合っていない。話に乗るべきかどうか考えている間に吉田さんが続けた。


「私ね、夏休み彼氏が出来て、したの」


「したって?」


「エッチ」 


水泳部がプールに飛び込んだ。水しぶきが上がる。


蝉時雨は止む事無く降り続けていて、僕はポケットからハンカチを出して汗を拭いた。


ハンカチをポケットに戻す時に下を向く。


吉田さんのスカートが短くなっていたのに気付いた。


夏が過ぎるってのはこう言う事なのかな、なんて事を思った。


いつも成長が早いのは女子。中学生になって男子は背の高さが追いついた頃には、


女子は別のステージを踏んでいる。


「それで何にもしなかったの?」


「うん、そう。浮かれて、それで終わり。膨らんで萎んでね。学期始めのテスト散々だったよ。


馬鹿だよね、私。全部、水の泡にしちゃってさ」


吉田さんは下を向いて上履きのつま先で壁をトントンと蹴っていた。


「夏休みが開けて、フラれたの。夏に盛り上がって、終わった途端に別れるなんて。


本当に私って馬鹿みたい」


言葉が終わった時、教室のドアが開いて江崎が出てきた。


江崎はポケットに両手を突っ込んで、下を向きながら廊下を歩いて行ってしまった。


「じゃあ、ちょっと怒られてくるね」


吉田さんはそう言ってドアに手を掛けて入って行った。


吉田さんの目から涙が溢れそうだったのを覚えてる。


同じ夏を過ごしたのにこんなに彼女と僕の差はハッキリしてるのはどうしてなんだろう。


目に涙を溜める程の後悔なんてした事ない僕はそんな日が来るのだろうか。


そんな事を思いながら、僕は面談が終わった後の吉田さんに


会うのが気まづくて家路に着いた。


プリントは結局やらずに次の日、ゴキブリに怒られた。


その日から僕は詰襟を締めるのを辞めた。


Yシャツも全部ボタンを締めるのも辞めたし、シャツをズボンの中に入れるのも辞めた。


 


だから高いところへ行ったって彼女と同じステージには立てない。


勉強したって人は成長しない。


願った事は誰よりも優れる事ではなかった。


大人になりたかった。 


吉田さんに掛ける言葉を探さずに逃げだしたあの日。


僕は子供だった。


上にも下にもあの時から興味が無くなった。


だから教授の言葉に僕はまた逆戻りをしているようで嫌悪した。


その感情こそが子供だったのに。


「僕は熱い風呂よりも、ぬるま湯が好きなんだ」


「何で?」


「だって、のぼせずに長く浸かっていられるだろ?」


「でも、一度ぐらいは熱い風呂に浸かってのぼせてみろ」


「考えておくよ。それにしてもさっきのすっげーだっせぇー」


「だから一度しか言わねぇーんだよ」


雨は止んでいて満月がまた雲の切れ間から姿を現し、


へっぴり腰で餅を突いているウサギが現れた。


「見えない? へっぴり腰のウサギ」


教授は首を横に振った。


「多分、見れない奴はいつまでも見れないだろうな。それだけでお前は十分特殊だよ。


さて、そろそろ帰ろうぜ」


帰り際に僕は水が少し入ったコンビニのビニール袋を教授に渡した。


「何これ?」


「やらなかった昔? 洗面器に水を張って、月を写してタッチするの。


今日は特別にビニール袋に月を入れておいたよ」


教授は笑った。


「家に持って帰ってじっくり見るよ」


僕も笑った。


過去の苦しみが後になって楽しく思い出せるように人の心には仕掛けがしてある。


だから、僕はあれから少しだけ大人になったと思う。

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