静寂の音 作:秋花
世界が滅びるという話を聞いた。道明の世界はすでに崩壊していたので何一つ戸惑いはなかった。
しかし、ここは一つ何かしなければならない気がしたので、道明は外に出ることにした。空は晴天だった。部屋の中は、雨の後のように湿気っていた。
「どこへ行くの?」
恋人が道明に問いかける。道明は静寂を忘れに行くのだと言った。恋人はそれ以上何も口にしなかった。彼女の口は空気を噛んでいるようだった。いや違う。水を飲んでいるのだ。恋人はそういうものだ。
一歩ドアの向こうへと進むと、日差しが道明の額を焼いた。次に道明の口の中をからからにした。水を飲んでいないことを思い出した。幸い、今日は世界が終わる日だ。満足に水を飲むのもいいだろう。
飲み水を探していると、公園にたむろしている人々が見えた。その表情はどこか鳩に似ている。道明は水の在処を訊くことにした。生き物であれば水の場所を知っているのは当然のことだ。訝しむように眉を上げた若者が答えた。
「水なんてどこにでもあるだろ……あそこのトイレとか、気にしなけりゃ飲めるよ」
道明は納得して頷いた。若者の顔は陽炎のように揺らめいていた。早速青い人形を掲げている入口を潜って蛇口を捻ると、中から黒い髪に混じって赤い水が飛び出してきた。確かに、気にしては飲めない水だった。道明は諦めて踵を返した。
「おいあんた」
先程の若者が声をかけてきた。
「あんたは今日どうするんだ」
道明は首を傾げた。
「……今日は地球最後の日だぞ。もしかして知らないのか」
道明は首を振った。知ったから外に出たのである。
「じゃあすることあるだろ。しようとしてたこととか、色々」
道明は頷いた。だから歩いているのである。
「教えてくれないか。俺、自分でも最後だって言われてどうすりゃいいのかわかんねえんだ。せめてさ、参考にさせてくれよ」
道明は考える。それは必要なことだろうか。
頼むよ、と若者は懇願する。道明に救いを求めている。干からびかけた水のような救いだ。それは踏めば微かに波打ち泥に汚れるほどに小さいものだ。
道明は静寂を忘れに行くのだと言った。若者は困惑した表情だ。
「ここは騒がしいだろ……?」
道明は頷いた。そのとおり、そこは孤独に飢えた人々がごった返している。
「それはもう静かじゃないだろ」
だが静寂だと道明は言った。若者は困惑した。
道明の静寂は外にある。それは音であり音でない。道明の目に写るものでもない。
静寂を生むのは虫だ。それは頭の奥に住んでいる。頭の奥の、汚れが入れば拭いきれない隙間の中を住み処にしている。そしてチリチリと道明のシナプスを足先で刺激し、道明の脳裏に不可解なものを見せる。頭の中を暴れまわり、道明の言葉を奪っていく。挙げ句には頭蓋の裏を叩き、出口はどこかと探っているのだ。道明はその度に外の静寂を感じる。静寂が息を止めて道明の前で立っている。
だが、虫がその動きを止めるときがある。その瞬間、道明の中の静寂が呼吸を思い出す。そうすることで外の静寂は忘れられる。
彼が恋人と過ごした時間はあまりに騒がしくて、満ち足りていたと道明は言うだろう。今、道明が持っていないものだ。
小さな揺れを地面から感じた。終わりが近づいているのだ。
思い出したように、道明の足は動き出した。その足は幽鬼のようで、若者は彼が本当にそこにいるのか疑問を持ってしまったほどであった。
「あんた、どこへ行くんだ!」
急いで若者は声を挙げた。主張しなければ、道明の足先からその姿は光の中に飲まれてしまうのではないかと思った。
道明は少し考えて、一点を指差した。指差した先には道明はいない。いない場所に行くのだ。
若者は道明の三歩後ろを歩いていた。彼の言い分はこうだ。
「どうせ、俺だってあそこの奴らと一緒で行く場所なんてねえよ。だけど何もせずに蹲ってるよかはマシだろよ」
道明は何も言わなかった。言う必要がないからだ。彼の道は彼のものである。
道明は歩道を歩いていた。都市の中だった。周囲には車の走る姿が見えた。誰も彼もが必死に走り回っていた。ネズミのようだった。だが、本物のネズミ色は青天へ向かってその尾を伸ばしている。
道明は大きなネズミが寝転がる場所へ足を向ける。若者は戸惑った様子で道明の後ろ足を追った。
人が倒れていた。シートベルトをしていなかったのか、車同士の衝突の際に外に投げ出されたようだった。道明は躊躇いの欠片もなく、飛び出してしまった誰かの元へと向かった。鉄と血が混じった臭いがしていた。
「お、おいっ」
若者は道明の後を追うことができなかった。ひきつった声だけが空を掻く。
道明の足が倒れ込んでいる誰かの頭の横で畳まれた。誰かは呻いている。まだ呼吸をしているのだ。だが、道明は見るばかりでそれ以上の行動はしない。
――ただ、ただじっと。
道明は蟻に集られる蝉を見るがごとく、倒れている誰かを見ている。
ひゅーひゅーと音がした。足元の人が発している音だ。呼吸が苦しいのだろう。頭の中で、その音だけが虫の音を食ってくれる。静かだ。静寂だった。ほんの束の間の、穏やかな時間が道明に訪れる。道明の目元が和らいだ。
「ありがとう」
道明は倒れている誰かに感謝を告げた。幸福を分けてくれたからだ。静寂を与えてくれたからだ。道明は自分の苦しみを取り除いてくれた者には感謝の言葉を渡すことにしている。それは、道明が人から静寂を教えてもらうときの約束事だった。
「な、なあ、その人大丈夫なのか……? 生きてるのか?」
「もうすぐ死んじゃうと思う」
だから、道明は精いっぱいの感謝を胸に見守っている。人は静かなのが好きなのだ。騒がしくしてはならない。この時間はとても尊いものだ。
「なら、病院に連絡しねえと……っ」
若者が自身の懐を漁る。その手は震えている。
「どうしてそんなことをするんだ。静かにしてやろうよ」
「は、あんた、なに言ってんだよ……死んじまうんだろ、その人……なんで、そんなこと、くそ、通じねえ……っ」
「そりゃそうだ。明日にはみんな静かになる。だから、今いなくなる人もいる。今日も、明日も変わらない」
「変わらない……? おい正気かよ。正気じゃねえよな。明日にはみんな死ぬって話だもんな。気も狂うか」
「あれ、見てごらんよ」
道明は十字路の先にあるビルの下を指さした。何かが落ちている。それは黒い様相をしている。
目を細める若者だったが、次の瞬間には青ざめた顔色を浮かび上がらせた。黒い姿をしていたそれは、人の形をしていた。
「みんな怖いんだ。だから逃げちゃうんだ」
「……逃げる? 自殺が逃げることか? 明日が怖えから、明日を待つのが怖えから、みんな、死ぬってのか。んなの、おかしいだろ」
おかしくはない。道明も同じだ。静寂の得られない世界があまりに恐ろしくて、前を一歩も歩けない世界があまりにも恐ろしくて、道明はふらりと足元の見えない場所へ歩みだしかけた。彼らと道明の違いは、救済があったか、なかったかの違いだ。
道明は呼吸の小さくなった恩人の首に手を当てる。とくとくと振動を感じる。地面の弱い鼓動が、恩人の命の音と連動する。静寂はまだある。静かに、静かに、道明は感謝をし続ける。
「君も同じだ。ただ待ってた。待つことと、今すぐ消えること、何が違うんだ」
「違う。俺は、どうするべきかを考えていた。考えることをやめて死ぬのと、考え続けて死んだのは違う」
「いっしょだよ。同じように静かになる。すべてが消えるのなら、考えてきたすべても亡くなってしまう。今静かになることを選んだ彼らを否定すべきじゃない」
とくり、と最後に鼓動を終えて、虫が動けることを思い出した。きりきりと頭蓋が削れる音がする。道明は赤く濡れた手を離して立ち上がる。次の静寂を探しに行くのだ。そうしなければ、道明の世界は静寂に呑まれてその呼吸を終えてしまう。道明は、まだ死にたくなどなかった。
―― 苦しかったら、叫んだ方がいいよ。誰かに。痛いって叫んだ方がいい。さもなきゃ自分が自分に食べられちゃうから ――
昔、恋人が言った言葉だ。道明はその言葉を大切にしている。道明が道明であることを認めてくれた最初の人だ。彼女は道明を愛してくれていた。道明の愛は届いただろうか。きっと届いただろう。道明が幸福だったのだから。
「なあ」
若者は依然と背後にいた。当初と打って変わって彼の瞳は鋭く、道明の背中を突き刺すかのようだ。
「あんた、死体でも好きなの」
彼の問いかけに道明は首を振った。
「じゃあ人が苦しんでるのが好きなのか……どっちにしても、趣味悪いな。褒められたもんじゃねえよ。あんたよく今まで警察の世話になんなかったな」
若者の目は敵意を抱いている。道明はその必要がなかったからだと考えた。これは道明の呼吸だ。救済してもらうまでに、呼吸ができることすら知らなかった道明には許される行為だからだ。しかしそれを口にすることはない。道明の音は道明でしかわからない。
また、地面が揺れた。朝よりも大きなものだった。若者が少しだけふらついた。
道明の足に迷いはなかった。若者は敵の情報を少しでも獲ようと足掻く密偵が如くそれを追う。
足の裏を砂利が擦る。道明が向かった場所は川だった。水の囀りが心地よく、若者は先刻の人の死を忘れかけた。
周囲にはなにもない。それどころか人気すらない。道明が探しているものがあるようには思えなかったが、視界の端で蹲る黒い影が見えた。その表情は暗く、くたびれたスーツからは数十年労働に勤めてきた事実が窺えた。
やはり今日もいた。道明は安心して川の光明を瞳に映す男に近寄った。が、その足は前に進むことはなかった。若者だ。若者が道明の前に立ちふさがっている。
「どうするつもりだよ」
その声には怒りがあった。
道明はどうもしないと答える。なにもしない。それは確かな事実だ。
「嘘だな。あんたは死人を増やすんだ」
それは違う。道明の言葉に、若者は首を振った。
「違う? 違わねえよ。今にも自殺しちまいそうなおっさんを見て、ガキみてえに目をキラキラさせるような奴が言う台詞じゃねえよ。――手を出すな。何も言うな。このまま帰るんだよ」
道明は息を吐く。キリキリと、削られた頭蓋の隙間から虫の足の先端が覗いたような気がした。
静かになってほしい。ただそれだけの願いすら叶えてくれないのか。道明の告解に愛を注いでくれたのは、恋人ただ一人だ。道明が道明であること、道明が呼吸をすること、それを許してくれた、ただ一人。彼女は何と尊かったことだろう。
道明は頭をぐりぐりと押して虫の足を潰す。沈黙がほしい。虫が足を潰された腹いせに頭を駆けていく。
殺すのは自分ではないと道明は告げた。
若者の眉が眉間に寄る。
「何言ってんだ。今、お前がしようとしたことは殺そうとしたことと一緒だってんだよ!」
道明は首を振る。
静かになることは、死ぬことではない。静かであってほしいと願うのは殺すことではない。
生きるために呼吸が必要で、それは謂わば〝理解〟という形で成り得る。それが得られなかったものが死ぬのだ。殺すというのは、何も与えてくれない者が行うのだ。
若者は対話しているはずの道明が己を見ていないことに気が付いた。その視線は、つい先ほど男がいた場所に向けられたものではない。
若者が振り返る。男は川の中に座り込んでいた。手には刃物があり、喉仏が埋まっただらけた首に狙いをつけている。
「おいっ、あんた……!」
若者が走り出した。しかし、その腕を掴む者がいた。若者は道明を睨みつけた。
「放せよ。自分で何をしてるのかわかってるのか」
道明は放さなかった。見ていられなかった。
「お前、本当に見捨てるつもりかよ。それでいいのか、それで、お前は、それでもお前は殺していないって言えんのかよッ!」
川の中の男の手は震えている。遠くから見てもその息は荒く、一点を見つめるばかりの顔は強張っていた。
「放せ。俺は、死にたくもねえのに死のうとしている人間を見ねえ振りできるほど器用な人間じゃねえんだ」
道明は放さない。
虫が暴れる。ずるずると脳髄を啜っている。日の光が道明を焼く。目の前がくらくらした。それは地面から発せられるものなのか、それとも道明の中にいる虫によるものなのか、道明にはわからない。
だが、事実だけは知っている。助けてくれる者などいない。見せかけの救いを見せつけるばかりで、彼らのような人は道明のような弱者が足を滑らすのを一刻、刻一刻と舌なめずりしているのだ。
男は首に突きつける姿を崩さず、悲痛に顔を歪めている。次第に、その手は川面に近づいていっていった。
静けさは遠ざかる。虫が地団駄を踏んでいる。嘲るよう翅を震わせて、ただでさえぐちゃぐちゃな道明の頭の中をかき混ぜる。
――殺される。
虫が子どもを産んでいる。道明の頭蓋の中身を巣食おうと中身を圧迫してくる。
気づけば道明は放すまいとしていた手を放していた。頬を伝う汗を拭うこともできずに頭を抱えることしかできなかった。
自分はどこにいるのだろう。どこへ――どこへ行けばこの頭の虫を引きはがせるのだろう。
顔を上げる。水面の上で、若者が男を叱咤していた。
虫の羽音に紛れて彼らの声が聞こえる。ブブブ、ブブブ、今にも道明の頭髪の間から頭を出し、宙へと羽ばたいてしまいそうだと思った。
―― 生きたい。死にたくない。死にたくない。 ――
男の声だ。
そうだとも、そうに決まってる。道明もそうだ。みな静寂を探してる。安らかな場所を欲している。だが、生きられる場所が見つからないから死の森を彷徨うのだ。それしか生きる術を知らないのだ。
―― 生きりゃいい。生きることのなにが悪い。それの何が悪いんだ ――
強者の戯言だ。どこへも行けない者たちの思いを知らないのだ。崩れる地面すらないことを知らないのだ。道明たちの苦痛を知らないのだ。こんなにも、誰よりも生きたがっているのは道明たちだというのに。
―― 怖いんだ。今生きていることが。死ぬことがこんなにも近い。生きているだけで震えが止まらない。 ――
―― 明日みんないなくなるからなんだってんだ! それでも今生きることをやめる理由にはなんねえだろうが! ――
―― それでも、死ぬんだ。全部がなくなるんだ。 ――
―― だけど、今生きてるのは事実だろ。死ぬよりも前に生きてるんだろ。見えるもんばっかに気を捕られて、足下にあるもんに目もくれないで、何が怖いだよ。俺は、今生きることをやめることの方がずっと怖いよ。 ――
道明は頭皮を爪で掻いた。剥がれた皮が爪の隙間に入り込む。虫は外に出ようとするのをやめていた。頭の中を圧迫し、道明を内側から食い荒らそうとしている。
目の前が次第に赤くなっていく。川の流水に血色が混じり、道明の足元に伸びてくる。岩陰は黒髪だ。道明を血で染まった川の中に引きずり込もうとしているのだ。
髪だけではない。川の向こうにある木々の影が揺らめいて、道明に触れようと手を広げている。影の向こうを見ると、太陽が沈もうとしていた。空が死ぬのだ。道明は静寂を得られないのに、一人先に眠りにつこうとしているのだ。
――死にたくない。
道明は呻いた。喉を掴んだ。必死の抵抗だった。生きることをやめたくなかった。ただ、彼らが、道明に生存の選択を取り上げようとしていた。
―― 俺は、まだそんなに長く生きちゃいねえ。死ぬのはこええし、明日で終わるのかと考えるとビビるのもわかる。だけどな、それでも、今を生きないよりはよっぽどマシだ。 ――
道明は呼吸が喉を痛めつけているのを知っていた。神経を伝って、虫たちが口から溢れ出そうとしていた。
だが、問わざるを得ない。それは道明の叫びだった。
「俺は、俺は今を生きたい」
――なぜ、誰もが静かなままにしてくれないのかと。
『好きだよ、道明くん』
そう、彼女が口にした。道明は頷いて返した。それが喜ばれることだと知っていたから。
だが彼女もそれが事実でないことは知っていた。
『私ね、道明くんが嫌だなあと思えるようになったらいいと思うの。そしたら、楽しいことや嬉しいこともちゃんと浸れるようになるんじゃないかなって』
道明はその必要があるのか疑問に思えた。今までの道明には必要のないものだった。
彼女の言葉はわからない。道明には彼女が理解できない。彼女が何で喜ぶのかがわからなくなった。
『だから、私、道明くんがびっくりすることをしようって決めたんだ。それがね――』
それこそ、彼女は道明を理解しすぎてしまったのだろう。
『道明くんの迷惑になったら、いいなあ』
どこか彼岸花を彷彿とさせる、歪で、綺麗な笑みだった。
最後に見た、彼女の笑みでもあった。
彼女が笑った次の日の朝、風呂場で血を流す彼女を見つけた。黒髪から垂れた滴が、浴室に小さな血溜まりを作っていた。白いタイルを伝って、小指ほどの細い川が流れている。それは赤い色をしていた。
世界が崩壊すると言われる、数日前の出来事だった。
「――ただいま」
返事はなかった。代わりに、ゴーゴーと冷房が唸る音が返ってきた。恋人の返事だ。
道明は暗い通路を歩く。電灯は点けない。もう点かないのだ。度重なる地震に、電気は止まってしまった。はて、だとすると先ほど聞こえた冷房の音はなんだったのだろうと道明は足を止め、そんな音はそもそもなかったことに気付くのだ。
「今日はどこへ行ったの?」
恋人が道明に尋ねる。街へ行ったよ、と道明は言葉を返した。暗闇の中では彼女は見えない。
道明は帳を開いて窓際に座った。断続的に世界が揺れている。もはや立ち上がるのさえ危うくなるほどの大きな揺れだ。住まいに戻ってからそれも顕著になった。しかし幸い、道明の住む地域は海辺が遠く、水による被害はない。
窓の外を見ると、太陽の幕が閉じていた。鳶色の光が沈んで、空には最後まで地上を見守る黄金の光があった。触れることもなく、ただ見ている。それは生まれから今に至るまで、隣人を見続けた月の愛の形だった。
「静かな場所は見つかった?」
道明は首を振った。
「どこにもなかった」
「どうして? あんなに探してたのに」
「みんなが、僕が探すのを邪魔するんだ。酷い話さ。こんなにも苦しんでいるのに、最後の最後まで楽にしてくれないんだ」
「苦しいんだね」
道明は涙をこぼした。胸を膨らませると、吐き出すのを阻止するように喉奥が詰まった。
「僕は、生きたいだけなんだ」
「知ってる。君はとても痛がりだもの」
「こんなに苦しいなんて知らなかった」
「私が教えたんだね」
そうだ。彼女が教えた。道明に痛みを教えた。静寂を教えることは苦痛を知ることと同義だった。
「なんで、こんなに痛くなきゃいけないんだ」
「生きてるからだよ。生きてるから、痛がってるの」
道明の涙は、顎から垂れて床に落ちた。拭う者はいなかった。彼女はどこにも見えなかった。
「私が死んだの、どう思った?」
暗闇の奥から、彼女が水音を立てて道明に囁いた。
道明は目元の涙を拭って答える。
「――わからない。ただ、静かになった」
「それは嬉しいことだった?」
「……静かなのは嬉しいことだった。だけど、僕は」
何を答えたいのだろう。何を口にすべきなのだろう。道明の言葉は宙に胡散するばかりで、頭の中を巡ってはくれない。
静寂は喜ぶべきことだ。道明に考える時間をくれる。道明に安らいだ呼吸を与えてくれる。だが、彼女の死は別のような気がした。
「それとも、嫌なことだった?」
それが一番的を得ていた気がして、道明は固まった。
「嫌な、こと……」
「そう、嫌なこと。私が死んだの、悲しかった?」
彼女は笑っている。きっと、笑っているのだろう。いつもの笑みを浮かべて、道明を見つめているのだろう。道明は笑った。道明はあの笑みが好きだった。だから、彼女の傍にいたのだ。
「ああ……うん。とても、嫌だった。独りになることだったから」
道明は誰ともいられない。誰も道明を理解しない。道明も同様だ。道明は誰とも共感できない。それは痛みを訴える道明にはとても大きな傷だった。
だが、彼女がいた。彼女は道明を理解してくれていた。道明は独りではなかった。しかし独りになってしまった。道明の世界はそれで崩壊してしまったのだ。
建物の柱から、世界が崩壊しようとする音が聞こえる。道明の世界が崩壊したときも、傍から見ればこんな音がしたのだろうか。
「でも、もう独りじゃないよ」
彼女が応対する。道明は頷いた。
静寂の音が、道明を待っている。それは、この星に住まうすべての命が共に聞き取れる幸福の音だ。誰とも共有できない道明の音が、最後になってようやくすべての人と共有できるのだ。
外に行こう、道明は立ち上がった。道明は崩壊の音が聴きたかった。
冷たい風が道明の頬を撫でる。隣に彼女はいない。
明かりもない。人もいない。月の明かりだけが地上を照らしている。
コンクリートが割れている。度重なる地球の鼓動に耐え切れなくなったのだろう。直に心臓の血管が破裂し、血の海に飲まれる。
道明は静寂を待った。
恋人の手を掴んでいた。恋人の手は宙の中にあった。恋人には温もりはなかった。もう一度、あの時のように彼女と沈黙の言葉を交わせる瞬間を待った。
月が雲に隠れて、束の間愛を囁くのをやめた。辺りは暗く、道明の目には何も見えない。これが星の色だ。この星は他の星の愛のおかげで色づくことができるのだ。
かりかりと、数の減った虫が道明の耳元を掻いている。近くの建物が軋みを挙げていた。これが最後の喧噪だと思うと、どこか感慨深い。
もう、一人の世界ではない。あの孤独の静寂の海に放り込まれることはもうない。置いていかれることはもうない。道明はその瞬間、生まれてはじめてすべての人と共有できる。赤ん坊が母の喜びに嬉々と笑みを浮かべるように。道明はようやく共感してもらえる。しかし、その中に彼女はいなかった。それが、それだけが酷く、道明にはさびしい。
月が雲間から顔を出しかけると、一際大きな地震が世界を揺らした。世界が終わる合図だった。
道明は瞼を閉じた。静寂の音を逃さぬよう、耳に神経を集中させた。
――僕は、どこにいられただろうか。
それは彼女といた場所ではなかった。道明の歩いてきた場所に、道明がいた場所はなかった。できたとしても、それはすぐに失ってしまう仮初の場所だ。
答えはない。道は見えない。道明の生は、この頭を軋ませる音と共にあった。
だがそれももう終わりだ。道明の周囲を静寂が包む。星が静寂を求めている。星の中にあった熱が、内側から今破裂する。
さて、ここで己が消える刹那、道明はふと考えた。虫の翅が喜ぶように、道明の額の裏を擦った。
もしや、破壊の音は静寂ではなく、己の心の臓のように熱く煮えたぎる煮沸音なのではないだろうかと。




