星の病 作:ティツアーノ
嫌な予感に駆られて飛び起きた。時計を見ると、時刻はちょうど昼をまわろうとしていた。
「しまった……」
自分のうかつさに頭を抱えたくなる。今日は平日だ。平日ということは、もちろん仕事がある。
おそらく電話には大量のメッセージが溜まっていることだろう。職場にどう連絡したものか。
馬鹿正直に寝坊したことを告げるか、仮病ということにするか。どちらにせよどやされることは目に見えていた。上司の迷惑そうな声を想像するだけで胸がむかむかする。
「職場が爆発すれば休めるんだけどな」
我ながら物騒なことをため息まじりにつぶやいて、辛い現実から逃げるようにテレビの電源をつけたとき。
『テレビの前の皆さま、落ち着いてお聞きください――』
ふいに、ニュースキャスターが狂ったように叫んでいた。血走った目で、顔をひどく青ざめながら、
『明朝……地球はコアの崩壊とともに滅亡します』
そんなことを言ったのだ。
おかしいのはキャスターだけじゃない。画面外からも色々と慌ただしい悲鳴や騒音といったものが聞こえてくる。
それこそ放送事故と呼べるような類の慌ただしさだ。
しばし放心したような面持ちで、テレビ画面とにらめっこしてから、
「は?」
ぽかんとなった。
僕はまだ夢を見ているのだろうか。
たしかに職場に爆発して欲しいとは言ったが、なにも世界が爆発しろとまでは言っていない。
一応、チャンネルを切り替えてみるが、どれも同じような内容ばかりだった。それどころか放送すらしていない局が大半だった。
「……世界が滅ぶ、ねぇ」
切羽詰まった声でそれを語るニュースキャスターを見て、僕が思ったことは家族のことだった。
たとえば離婚した両親のこと。不治の病と闘い続けている叔父のこと。数年前に死んでしまった祖父のこと。その祖父から、財産や土地の何もかもを奪いつくした挙句、破滅した祖母のこと。
それなりに山あり谷ありな人生を送ってきたが、そんな僕の弟は公務員になって、安定した暮らしを送っている。
まるで人生の悪運から逃れようといわんばかりに、机にかじりついていたことを思い出す。
だが数年前に喧嘩別れして以来、関わっていなかった。喧嘩の原因は覚えていない。
きっと些細なことだったんだと思う。もしかしたら僕が何か弟の癇に障ることを言ったのかもしれないし、もしくは弟が僕を怒らせる何かを言ったからかもしれない。理由を思い出せないということは、所詮その程度のことでしかないのだろう。
結局はほんの弾みだったのだ。
当の僕はというと、フリーターでその場しのぎの毎日を送っている。朝から晩まで働き詰めの毎日。家には寝るために帰っているようなものだった。
趣味らしい趣味はない。休日は録画したアニメや映画を見たり、漫画を読んだりして、時間を潰している。趣味を楽しむというよりも空いた時間をどう潰すか、そんなことばかり考えていた。やがて訪れる出勤日に怯えながら、ねぐらからのそのそと這い出すのだった。
そう聞くと、なんともつまらない人生だと思うだろう。自分でもとても実りのある人生だったとは思えないし、お世辞にも素晴らしい人生を送ってきたとは思えない。
世間一般からしてみれば、負け組街道をひた走っているようにしか見えないだろう。
だが、この生き様に後悔はない。そもそも他の誰かに負けたとも勝ったとも思わない。
勝ち負けで何かを量ること自体、間違っている。
だがそれを踏まえた上で、勝ち負けを決するものがあるとすれば、自分がその一生に満足しているかどうか。その一点に尽きるだろう。
一度限りの人生、楽しんだもの勝ちである。
俺は欠伸を堪えながら、相も変わらず慌ただしく喋るキャスターをぼんやりと見る。
「明日で全部、終わるのかぁ……」
なんとなしにつぶやいてみたが、なんとも実感の湧かない言葉だった。
地球の全人口は約七一億と言われているらしい。
この数が一斉に死んだら、死者が溢れ返ってあの世は大変なことになるだろうな。そう考えると、ちょっとだけあの世の役人に同情を覚える。そもそも天国や地獄があるかどうか怪しいものだが。
とにかく、その七一億人の内、何人の人間が笑って明日を迎えられるだろうか。非常に興味深いところである。
「……おや?」
なにやら外が騒がしい。
窓を開けて外を覗いてみると、脳天をつんざくような怒声が僕の鼓膜を貫いた。身を焦がすような熱風が吹きつけてくる。堪らず、顔を両手でおおった。
窓から後じさり、おそるおそる外を見やる。
阿鼻叫喚の嵐。暴動が起こったり、火の手の上がる家、窓を閉め切っている民家が見えた。
世界の終わりのような光景に、唖然となる。
世にいう終末の光景、というやつがいよいよ現実味を帯びてくる。
こうやって騒いでいるところを見る限り、あのテレビの馬鹿げた内容も、もしかしたら本当のことなのやもしれぬ。
歴史を振り返ってみれば、終末はたびたび予見されている。
末法思想、ヨハネの黙示録、ノストラダムスの予言……などなど枚挙に暇がない。積み重ねた歴史の数だけ、人間は滅びを謳っている。人間さまの大好きな終わりがついにやってきたのだ。
「くくっ……」
そんな彼らが、僕には滑稽に映った。
あんまりにも哀れすぎて、笑い声すらこみ上げてくる。
何をそんなに慌てているのか。
泣いても喚いても残された時間はあと一日だ。
限りない時間を、もっと有意義なことに使えばいいのに。
その場しのぎの収入しか得られない僕とは違って、たくさんのものが手に入っているはずなのに。底辺の僕よりも暮らしが充実していて、幸せそうに笑っていたくせに。
泣いて喚いて、人間の尊厳や理性さえもかなぐり捨てて、獣のように踊り狂うことなのか?
お前らにはそれ以外にすることがないのか?
それがお前らの充実した人生なのか?
そう思うと、哀れで仕方なかった。いっそのこと、この場で殺してやりたくなる。多分、その方が彼らのためだ。だがそれだけはしてやらない。
彼らが苦しみ、もがいているさまを見るだけで、たまらなく胸がすかっとする。
我ながら悪趣味だと思う。
だが、僕は今、たまらなく充実している。この瞬間のために生きているのだと実感する。
そんなほっとするような思いが、身体中に浸透していくのを感じる。
当然のことだが、僕は後悔なんてしていない。
失うモノなど端から無かったからだ。そもそも人生に何の希望も期待も寄せていない。
考えてみろ。どれだけ出世しようが、豪邸があろうが、莫大な財産を築こうが、それが何だというのだ?
実際に死が訪れたとき、人は何もかもを手放さなければならない。向こう側に持っていけるものは何一つない。死んでしまえばそれは無意味だ。積み上げてきたものは全て無に還る。ならば、そんなものに期待するだけ無駄だ。
今、こうして窓の外で繰り広げられているように、彼らは自分の積み上げたものが壊れていく瞬間に怯え、戸惑っている。
僕はそんな彼らが可笑しくてたまらなかった。
いつか人は死ぬ。
交通事故に遭ったり、通り魔に刺されたり、流れ弾に当たったり。畳の上で寿命を全うする人だっている。人の数だけ死に様がある。だがどちらにも言えることといえば、それは誰にも避けられない、抗いようのない運命。
それが明日に早まっただけのこと。それだけの単純な事実。
この星は病んでいた。
僕らの目に見えないところで、病魔にじわじわと冒され続けていた。
だから死ぬ。
死はいつだって平等で、誰にでも公平だ。
「星の病、か」
我ながらいいフレーズが思いついたものだ。今日は実に冴えていると思う。
晴れ晴れとした思いで心地よさに浸っていると、ふいに、いつか聞いた声が甦ってきた。
(満足していたんですよ。人生に)
たしか、小学生のころの、友人の両親の言葉だった。なぜそんなことを今になって思い出したのか。
おそらくそれが死にまつわる記憶だったからだと思う。
小学生の頃、僕のクラスメイトが不治の病を患ったことがあった。
多分、そいつとは友達といえる間柄だった。なにぶん二十年も前のことなのでよくは思い出せないが、ほどよい付き合いがあったように思える。
あのとき、僕は友人に見舞いに行こうと思っていた。
だけど会えないでいた。いざ病室を前にすると、そこから一歩先を踏み出せないでいた。足腰が震えて、動けなかった。
友人に会ったとき、何を話せばいいのか、何て声をかければいいのか。まるで分からないでいた。そのときのことを想像するだけでも恐ろしくなってくるのだ。
だけど何かを話さなければきっと後悔するぞ。そう思っても、足が動かなかった。
何時間そうしていたかも分からない。
そんな僕を不審に感じたのだろう。看護士さんに背中から声をかけられた。
瞬間、僕は弾かれたように走り出した。
次に気づいたときには、病院の外で息を切らしていた。
僕は無様にも逃げ出していたのだ。
僕は結局、逃げ出したことを告白出来なかった。
それから間もなく、友人が亡くなったという連絡を受けた。
母とともに、身も凍るような思いで葬儀に出席した。
友人に焼香を捧げながら、その傍に立つ両親の顔をおそるおそるうかがうと、恭しくお辞儀をし返された。
葬儀が一段落してから、僕は友人の両親に声をかけた。逃げ出したことを謝ろうと思ったのだ。
「今日は息子のためにありがとう」
何度も何度も、こっちが申し訳なくなるくらい、頭を下げられた。
それから両親は友人のことを教え聞かせてくれた。
僕は気になって、友人の両親にそのことを聞いてみると、
「満足していたからですよ」
おかしなことを言われた。
「満足、ですか? 死ぬことに対して?」
「いいえ、人生に満足していたんですよ」
いまいち要領を得ない答えだった。満足した人生を送っていたのなら尚更、しがみついてでも生に執着するだろう。
そっちのほうがよっぽど辛くて、悔しいはずだ。
「そりゃあ、生きていたらもっとやりたかったこと、叶えたかった夢があったんだと思います。でもあのときの息子は毎日が楽しそうでした。残された人生を懸命に、一日一日を大切に過ごしていました。……今でも、息子の安らかな死に顔は今でも忘れられません」
そう語る両親の表情は穏やかで、じつに晴れ晴れとしたものだった。僕の両親ですら見せたことのない笑みだった。
充実した人生が何たるかを心得た、笑み。
それを見て、ふと考える。
僕みたいなごくつぶしが生まれてさえこなければ、僕の両親もこんなふうに晴れ晴れとした笑顔を浮かべたのだろうか。一瞬そんなことを考えかけて、やめた。たらればの話など意味がない。虚しくなるだけだ。
彼は自分の人生に満足していたのかもしれないし、あるいは耐え難い死の重圧に圧され、狂ってしまったのかもしれない。
本当のところは分からなかった。
理由を聞く前に、当の本人はこの世を去ってしまったのだから。
結局、僕は友人の両親に謝れなかった。
それから数日後のことだった。
僕の祖父が亡くなった。まるで死者に引きずられるようだと誰かが囁いていたのを覚えている。
友人を除けば、身内の死というものに、初めて直面した瞬間だった。
その知らせを聞かされたとき、自分は泣くだろうか。そんなことを真っ先に考えた。そんなことを考えたのも、死というものに現実味を抱けなかったからだろう。
喪服に身を包み、家族と一緒に、焼香を捧げた。
だが、動かなくなった祖父を前にして、頭の中が真っ白になった。自分が予想していた以上に、途方も無い衝撃を受けていたのだ。
祖父は八十を超えていた。だからいつ死んでもおかしくはなかったのかもしれない。それでも元気だった姿を思い出すと、信じられない気持ちになった。
夏休み、祖父と一緒に裏山でバッタやカブトムシを捕まえたとき、すごいぞ、と頭を撫でてくれたときのこと。ハチにさされて泣いていたとき、優しく慰めてくれたときのこと。誕生日プレゼントに勉強道具一式をくれたときのこと。そんなものよりもゲームが欲しいと駄々をこねて祖父を困らせたときのこと。
今思うと、嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちになる。
案外、人が死ぬのはあっけないことかもしれない。そんなことを思った。
それでも涙が出なかった。
ものすごく悲しいことなのに、泣きたくなるくらいの衝撃を受けているはずなのに。
多くの人が方々で悲しみの声を上げているからだろうか。
だが、この後もっと衝撃を受ける事態が起こる。
母が泣いていた。心がまるっきり子供に立ち返ったかのように。
これにはぎょっとなった。
だけど心の中の冷静な部分は、母の行動に納得していた。
母もまた、人の子だったのだ。
そんな当たり前のことに、今さらになって気づかされたのだった。
泣きじゃくる母から目をそらし、祖父を見る。
祖父は自分の人生に満足していたのだろうか。
安らかに眠る祖父を見て、そんなことを聞いてみたくなった。
それから数年後、叔父から連絡があった。
お酒を飲めるようになったお祝いとして、お酒をおごってくれるという申し出だった。
僕はためらった。
叔父は病に冒されていた。奇しくも、かつての友人と同じ病名だった。数年前、友人のもとから逃げ出した罰ではないか。そんなことを考えかけた。
結局、僕はその申し出を受けた。
数年ぶりに会った叔父は若々しかった。もう三十代半ばだというのに、二十代後半にしか見えなかった。
僕は何も知らないふりをよそおった。
叔父のほうも自分を蝕む病魔のことには触れたりはしなかった。それどころか病に冒されていることが嘘のような明るさで、僕に笑いかけてくれた。
叔父は自分の手で会社を立ち上げていた。あえて社名は出さないが、誰もが一度は耳にしたことがある超有名企業だ。
叔父の話題は多岐に渡った。自分が立ち上げた会社のことだったり、これから展開していく事業のことについて。または自分の家族のことだったり。そんなことを語った。
僕は叔父が生き急いでいるように思えた。命の灯火が燃え尽きる、そのときまで。
そんな叔父の生き生きとした表情を見るたびに、僕は胸が苦しくなるような思いを味わされた。
その笑顔の裏に、死神の微笑みを見た気がした。叔父の身体のことを考えるだけでやるせない気持ちになっていく。
「家族のために何かを残したい。俺が死んだあとも、困らないですむように」
そう言った。それこそが自分の人生の意義だというふうな口調だった。
今の自分に、充実した人生を送れているか、叔父にそう聞いてみたくなった。
それから叔父とは会っていない。
現在、生きているかどうか。それすらも分からずじまいだった。
「……今になって、何でこんなことを思い出したんだろうな」
自嘲気味にそうつぶやいた。今の自分にはもう関係がないはずなのに。世間一般的な観点で見れば、僕は人生の敗者だろう。
だが、努力・夢・地位――そんなものがなんになる。明日には全てが水泡と化すのだ。
あがいただけ馬鹿を見るって奴だ。そう考えると、この結末は爽快だ。
人生に敗北していたからこそ、この終わりは僕にとって勝利という他にない。世界の終わりを迎えて、僕は真の勝利者となるのだ。
ああ、なんて清清しいのだろう。
今日はさすがに仕事は無いだろう。すでに出勤時間を大きく過ぎているが、職場から何の連絡が無いことからもそれは明らかだった。
今日は久々にゆっくりできそうだ。
そう思って、僕は窓から目を離し、ふっと背を向けた。
ふいに視界が滲み、はっとなった。
おそるおそる自分の目元に手を伸ばし、それに触れる刹那、
その手を止めた。
僕は笑った。笑おうとした。
勝者は笑わなければならない。昔からそう決まっている。
勝どきを上げるかのように高らかな笑い声を上げなければならない。
しかしそれが次第に嗚咽に変わっていくではないか。
こんなはずではなかった。もっと僕はうまく言っていたはずだ。
素晴らしい人生を送れたはずだ。もっと努力していれば。
あのときああすればよかった。もっとこうしていれば僕はもっと変われていたかもしれない。募っていくのは後悔の思いばかり。
努力したところで、全てが無駄になるっていうのに、何でこんなに悔しい思いが溢れていくのだろう。
温かいものが頬を伝うのは何故だろう。
「……畜生! 畜生!」
たまらず叫んでいた。
壁を殴りつけ、拳が割れんばかりの勢いで何度も何度も打ち付けた。血が流れても、構わず殴りつけた。そうでないと気が狂って頭がどうにかなりそうだった。
やがてそれすらも疲れ果てて、嗚咽を漏らしながら、冷たいフローリングにへたりこんでいた。
ああ、なんてみっともないのだろう。
なんて情けないのだろう。
僕には何も残っていない。何もない。笑ってくれる相手もいないあたり、ピエロの方がましだ。
こんなとき、どうすればいい。
少なくとも、友人や叔父は死ぬと分かっていても諦めたりはしなかった。むしろ死に抗うように残り少ない時を精一杯生きていたではないか。
「僕には何が出来る? 残された時間で何が出来る?」
頭を懸命に振り絞る。
脳裏を過ぎるのは胸が焼けるような後悔の念ばかり。
ふと、喧嘩別れした弟が脳裏をよぎった。
なんで喧嘩なんかしたんだろう。どうしてすぐに謝らなかったんだろう。余計な意地などかなぐり捨てて、ただ謝ればよかったのだ。
どっちが悪いかなんで関係ない。
弟の元へと急ぐ。謝りに行くのだ。
許してもらえるという保証も確証もない。
もしかしたらあのときのことを未だに根に持っているかもしれない。
たとえ許されなかったとしてもただ一言、たったの一言だけ言えばいい。
――悪かったと。
衝動に駆られ、外に飛び出した。
ドアを開けた瞬間、人々の阿鼻叫喚が耳を打った。
熱風が容赦なく、僕の頬を打つ。誰かの放った火が、燃え移っていたようだ。
思わず気圧され、後ずさる。一歩踏み出すことが、こんなにも難しいとは思わなかった。
それでも僕は行かねばならない。
たとえ荒野以外に足を踏みだせなかったとしても。
地獄の真っ只中へと、足を踏み出した。