時の呼び声 作:八雲 辰毘古
──生まれ変わったら、また会おう。
そう言ってあいつは死んだ。
世界崩壊が告げられる前日のことだった。
ときどき思う。
もしかしたらあいつはこのことを知っていたのかもしれない。
世界が今日、崩壊してしまうということを。
でももし知っていたら、たぶん生きて俺たちの無残な姿を嘲笑っていたような気もする。
だがもう遅い。
あいつはさきに死んだ。
取り残されたのは、俺だった。
* * *
生まれたときから病気だった。
あいつはそう言って、笑っていた。
いま思うとゾッとするような笑い方だった。まるで絶望なんてとうの昔に通りすぎて、もはや笑うのが一番だと悟りきったような笑い方をしていたのだ。
「ねえ、ヒロくん」
まるで諭すかのように、あいつは言っていた。
「生きることは呪いだよ」
突き刺さるのは、言葉のナイフ。
ぐさりと心理を抉り取り、赤々とした真理を突きつける。鮮血に染まった、誰もが目を背けたくなるような真実を。
「僕が僕である、と信じて生まれてきたこと、それ自体が立派なビョーキなんだ。両親は病弱の身に僕を生んだ。そのことをとてもとても悲しがっているようだけれど、僕からすれば、人類はみな生まれたときからビョーキに罹っている」
わかるかい? 死に至る病さ。
興奮するでもなく、ただただ淡々と、辞書でも読み上げるように語りかけるあいつの言葉が蘇った。
世界が滅びると告げられて、六時間。
俺はあいつのいない病室にいた。
昼下がりの太陽が、気だるげに部屋の全貌を明かしている。
日差しが照らすのは、あいつが死ぬ直前に血で描いた落書きだった。それは病室の四方位すべての壁を埋め尽くしていて、俺には読めそうもない文字ばかりが書いてあった。誰かがそれは曼荼羅だと教えてくれたのであるが、俺はその不可解なおぞましさを怖いと思った。まるで生きとし生けるものすべてを祟り殺す儀式を行おうとでもしていたみたいで。俺も祟られてしまうのではないかと、感じてならなかったから。
俺はこの落書きを消している。
決して投げやりになったわけじゃない。
ただ、これを消しておかないと、絶対後悔すると思ったのだ。世界崩壊を知るまえに生きることをやめた、あいつへの唯一の供養のような、そんな気がするから。
しかし、雑巾が壁をこするとき、まるで嘲笑うかのように血は薄紅色になって、指先にこびりつくのだった。
罪は消えない、と囁かれた気がした。
* * *
初めてあいつと会ったのは、俺が肺炎で入院したときのことだ。あのときは本当に症状がひどくて、ひょっとしたら死ぬかもしれないとまで言われていた。
それでも治療がうまくいったのか、俺は死なずに済んだ。だがそのとき、いままでずっと黙っていた同室の同い年のやつが、
「死にぞこなったね」
と言ったのだ。
その言葉には、まったく皮肉の調子がこもっていなかった。むしろ心底残念そうに、羨ましそうに言ったのだ。
俺はその言葉のニュアンスが気になった。
「どういう意味?」
「言葉どおりさ。おまえは死に拒まれた。だから、まだひとり寂しく生きなきゃならない」
「……?」
「死ねば楽になるってことだよ」
「俺は死にたくない」
「どうして?」
俺は目を疑った。
助かってよかった、なんて思わないのか。
でも、俺はあいつの病気を知らなかった。
生まれつき心臓が弱くて、すぐ死ぬと言われてるのを最先端技術で活かされ続けていることを。
あいつ自身がそれを疎ましく思いはじめていたことを。
だから言った。
「生きたいからさ。まだまだやりたいことがあるから」
もしかすると、これはあいつの願いが、俺の口を通じて出てきたのかもしれない。
だからこそあいつが死んだのかもしれない。
* * *
また揺れた。
地球が悲鳴をあげている。
そう思いたかった。
だがもしかすると、歓喜に震えているような、そんな気もする。そう思えるのは、きっとあいつの最期のことを想像してしまうからだろう。
いま地球はひどいことになっている。
端的にいえば、もう人類は滅亡まぎわだということだ。なにやら地球のコアが爆発するのだとわかったそうな。しかし唐突に突きつけられた人類の余命宣告は、まるでノストラダムスか、古代マヤ文明の予言のように現実味がなかった。
突然やってきて。
突然押し付けられた現実。
世界はいつだって突然だ。
そんな世界を生きることが、突然の繰り返しなら。
そんな世界を死ぬことも、また突然のひとつにすぎないのだろうか。
実感の湧かない俺たちに、あたかも現実を思い起こさせるように地震が続く。
今度のそれは、今朝よりもずっと強く、長い。危機が迫っているのだと、頭のどこかが告げている。
だが納得ができない。
理解できないのか。
それともわかりたくないのか。
俺は俺自身、自分がなにをすればいいのかだけがわからなかった。
あいつならどう感じただろう。
もうここにはいない、あいつならば。
俺は窓の外を見た。
そこにあいつがいるような気がして。
だがやっぱりそこにはいなかった。
あるのはただ、どんよりと夜を降ろしつつある、黄昏の光だけだった。
* * *
「人生は砂時計だ」
あいつはいつか、こんなことを俺に語っていた。
「人間は生まれたときから死ぬことを運命づけられている。始まりがある以上は終わりがなくてはならないんだ。だから、その流れは終わりに向かって少しずつ、一直線に落ちてゆく……砂時計さ」
「でも終わりは決まってるわけじゃないぞ」
「そうだな。全ての人間の砂時計が同じモノじゃないだろう。だが、遅かれ早かれいつか死ぬことは間違いない。途中で砂時計が壊れるかそうでないかの差はあるかもしれないが、大した問題じゃない。要は僕が僕として生まれた以上、僕は滅びなければならない、ていう事実なんだ」
事実だけさ。
事実だけに価値がある。
それ以外の、例えば憶測だとか、希望だとか、そういうものに意味なんてない。
あいつは楽しそうに言っていた。
心の底から、楽しそうだった。
思えばあいつは自分が病気である、という事実を受け容れることで人生を開始した。病気はやがて自分を殺すだろう。だがそれまでは生きていられる。余計に絶望しているヒマなんてない、とすでに悟っていたのだ。生きている以上は、限りある人生を、生きていられる時間を、無駄にはするまいとしていた。
では、終わりを目の前にした俺たちは、どんなことをしただろう?
とうに日は暮れて、お先は真っ暗だ。
もし生涯最後の一日を突然与えられて、何をするか? なんて言われても、現に俺はこうして突っ立って、ただただ終わるその瞬間を待っているばかりなのだ。
こうなってしまっては、後悔も絶望も湧いてこない。あまりにも突然すぎるから、あるとしても混乱した世界のなかで、澱んでいることしかできないのだ。そこにはなんの生きがいも、ましてや死にがいもないだろう。むしろドッキリでした! と言われるのを心のどこかで期待してすらいる。度重なる地震が、その夢想を阻んだとしても、だ。
事実。
やはり事実しかないのだろうか。
少なくともあいつは嗤うだろう。何もかもを蔑み、呆れたような目であたりを見渡しながら。
だが、もう俺は充分すぎるほど時間を無駄にしてしまった。
あと十二時間。
機械時計の短針は一回転し、砂時計は上下の中身が等しくなる一瞬間を迎える。
落書きは、結局消えなかった。
まるでそこにいたという事実が、どうやっても拭い去れないように。
夜の闇に包まれた病室は、まるで古墳の玄室のようだった。忌まわしい壁画に囲まれた、静かな空間。そして棺のように中央に安置されたベッド……この部屋自体が、あたかも死を、終わりを体現していたのだ。
しかしそこに遺体だけがいなかった。
終わりに落ち着く本体が。
まるで自らの死を認めず、家出してしまったかのように。
空虚だった。
この時間、この空間。そしてこの世界に残されたありとあらゆるものが。
俺たちに意味なんてない。
終わってしまえば、壊れてしまえば。
何も残るものなんてないのだ、と。
そう真実を突きつけられたような気がして。
俺が俺であるということ。
誰かがここに生きていたということ。
そして、自分の人生が自分だけのモノだと考えること。
それらはすべて、あいつの言葉で言うならビョーキだった。死に至る病だった。始まりがあるなら終わりが来なければならない。
はずなのに。
俺たちはその何もかもが永遠に続いていると錯覚する。そうだと思い込む。終わりがあるなんて、当たり前のことを忘れてしまう。
愚かしい、人間の性なのか。
それとも。
「だがもし、永遠というモノがあるなら」
声が聞こえた。
あいつの声だった。
ハッと窓を見やると、風がカーテンを突き離し、部屋に月光を運び込んでいた。
光。
そこへ向かえと直感が叫んでいた。
あいつが飛び出した、窓の外へ。
* * *
「もしも、もしもの話だけど……」
おととい。
つまりあいつが死ぬ前日。
世界が終わりを知らなかったときのこと。
あいつは笑いながら「もしも」を口にした。事実が大事だ、ほかにはなんの価値もない、といった、その口で。
「もしも人生が終わって、その先に何があるのか知ることができたとしたら、そこには何があるんだろうね?」
その顔には、やはり絶望もなにもなかった。空っぽなまでに感情を捨て切った、壮絶な笑顔だった。
あとで知ったのだが、もうあいつの余命は半年を切っていたらしい。それでも俺たちに残された時間よりはあった。しかし、そんなことを知らないあいつは、一体何を感じたのだろうか。
絶望なのか。
いや、たぶん違う。
俺は窓の外に降りて、ひと気のない林を眺めていた。
月が残酷なまでに綺麗だった。カーテンを煽っている風が林をも吹いている。それが木々の梢に絡んで、林全体をまるで巨大な生き物であるかのように揺り動かしていた。
俺はその生き物の胎内に、まるで産まれた場所に還るかのように、歩き出した。
ひゅう、ひゅうと哭いているかのような梢の音はあまりにも虚しく俺の耳を通り過ぎる。悲しさなどの感情は、もはやなかった。歩き出すたびに足跡が残り、そこに俺の一部が取り残される。一歩、一歩と進むたびに俺の中から何かが消えてゆき、やがて時間を遡り、過去の映像を歩いているような、そんな気がした。
あいつは病室に血を残したくせに、病室では死ななかった。
常人では理解しがたいほどの、最後の力を振り絞って、あいつは窓の外へ飛び出した。そして林の中へ突き進み、行けるところまで行って、行き倒れていた。ちょうど、俺が通ってきた道を歩き、あいつはどこに行こうとしていたのだろう。
彼は最後の最後で自分に課したルールを破った。
自分が自分であると信じるのはビョーキである、ということ。
永遠など存在せず、生きていればいずれ死ななければならないということ。
そして、そこにはどんな感情や想像も意味がなく、事実だけしか残せないということ。
それほど長くない人生のなかで、達観することで得たこれらの知見を、あいつはその死の間際で拒絶した。自分で分かっていたはずの事実に耐え切れず、あいつは発狂したように爪で自分の指を、腕を切り刻んだ。
これは実際に現場を見たわけではなく、あとから現場に居合わせたヒトからの、伝聞にすぎない。だけど想像はつく。最後に会ったとき、あいつは初めて強気の仮面を捨てて、淋しそうに言ったのだった。
「また会おう」
そのときの俺には、意味がわからなかった。だから問い返した。そしてあいつは繰り返した。余計に意味のわからないひと言を添えて。
「生まれ変わったら、また会おう」
俺は何と答えたのか。
その言葉にはもう意味はない。
ただあいつは死ぬ気になっていた。
その表情を。
その気持ちを。
そしてその理由を。
俺はどうしても、知りたいと思った。
知るために俺は歩く。
時間を巻き戻すような、林の道を。
ただ、ひたすら、ゆっくりと。
その先に、あいつの死んだ場所を目指して。
やがて林の中、ぽっかりと空いた場所に出くわした。そこでは木々の闇はいっさいがっさいが消えていて、冷たい月光だけが辺り一面を照らしていた。
と、そのとき……
雲が、月を覆った。
風が止まった。
すべてが闇に還り、静寂に包まれた。
それはほんの一瞬、刹那にすぎなかった。
しかし、俺には永遠であるように感じられた。
あたかも時間が飴のようにねっとりと身にまとわりついて、全身に絡み付いてしまったかのようだった。すべての感覚が無に帰し、自分という概念ですら、融けてしまう心地がしたのだ。
そして、俺は感じた。
崩壊を迎えつつある地球の震動を。
俺は嗅いだ。
立ち込めていた死の匂いを。
俺は舐めた。
終わりのときに訪れる虚無の味を。
俺は聴いた。
地球の、悲鳴にも似た叫び声を。
それで俺の目のまえには……
満天の、星空があった。
野次馬みたいにやかましい光だった。
だが一方で、それらは地球の声に共鳴しているかのように、またたいていた。月が黙り込んだ瞬間にしか見えない、遥か彼方の、悠久と時間を感じるような星々の世界が、そこにはあったのだった。
きっと、これを視ているのは、世界で俺ひとりしかいないだろう。
そんな慢心とも言えぬ、不思議な確信が身の内側からひしと湧いてくるのを感じた。そして俺は、時が止まったようなこの一瞬間が終わるそのときに、あいつの声を聞いたのだ。間違いなく、あのとき、この場所でつぶやいたと思われる言葉を。
──さようなら。
さようなら、地球。
さようなら、人類。
そしてさようなら、自分。
ようやくビョーキは完治しそうだ。
あと数時間で、宇宙は久々の静寂を手に入れる。俺はその静寂の中に還るのだろう。あいつはきっと、その静寂の中に入ったのだろう。そこはきっと永遠だ。過ぎ去った事実も、これからの「もしも」もない、どこまでも平坦で、どこまでも不変な世界。
だが。
届かない、と思った。
手を伸ばしても。
脚を伸ばしても。
大地を蹴ったとしても。
あの星々のような悠久の時間には届きはしないのだろう、と俺はどこかで直感していた。それは、あいつに「死に損ない」と言われたあのときから、決まってしまっていたのだ。
あいつは旅立った。そんな俺を嘲るように。自分を捨てて、人類を捨てて、そして、この世のいっさいがっさいを捨てて、向こうの世界に旅立ってしまった。
俺にはどうしても捨てきれないモノがあった。それは自分。俺がここにいるという、どうしようもなく否定しきれないこの実感だ。しかしそれが重荷となって、あの永劫に融け込むことを拒んでいる。
あいつは。
あいつなら。
きっと俺のことをバカだと嗤うだろう。
けれども俺は立ち上がる。
頰に涙を溜めながら。
捨てきれぬ執着を腹に抱えながら。
雲が過ぎって、月が見えた。
時は容赦なく流れ出した。
* * *
世界の涯まで、歩いて行こう。
どこまでも、どこまでも。
この世がやがて砂時計のように、滅びの末端に到達するのであるならば。
俺はその末端に立ち、滅びる最後の最後まで、大地に立ち続けよう。
あいつは悠久の時の彼方に消えてった。
自ら描いた、曼荼羅の宇宙の中に。
けれども俺は歩き続ける。
どこまでも大地に足跡を残し続ける。
いずれ消えてしまうと知りながら。
それでもなおと涯の涯まで足跡を残せるように。
背中で月が沈み、目の前で太陽が昇る。
世界が滅びるそのときまで、俺は歩き続けるであろう。これからも延々と昇りゆく太陽に、逆らうためにも。




