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スペシャルアンソロジー「明日、世界が滅亡します」  作者: 世界崩壊アンソロジー企画
11/22

オーバーラップ 作:Ria

 世界が終わる、という話を聞いていた。



 いつものように朝の八時に目を覚ました私は、昨日の夕飯の残り物を温めて、お茶を淹れる。


 今日もよく晴れた、いつも通りの一日。

 変わらない日常、変わらない私。


 酷く怠い腕を伸ばしてリモコンを掴み、テレビをつける。いつも通り、面白くもないニュースを観る為に。



「……臨時ニュース?」

 いつもの、平和な空気で行われるパネルを使った事件を解説するコーナーも、地方の祭りを取材したVTRもやっていない。慌てたようなニュースキャスターが、同じような内容の速報を壊れたラジオみたいに繰り返している。画面の下に、彼女が手にしている紙が見えていた。華奢で白い指が少し震えているのを、なんだか奇妙なものを見るような気分で見つめていた。

『みなさん、落ち着いて行動してください。新しい情報が入り次第お伝えします』

 災害? 事件? どこかで地震でも起こった?

 でも、画面のどこにも震源地や震度を示す地図が映っていない。

『午前十時から会見が開かれると――』

 会見。

『各地で既に混乱が、』

 混乱。

『政府は対策本部を設置し』

 対策。

『情報の収集に全力を』

 情報。

『ここで専門家の○○先生と電話が』

 専門家。


 一体何の話だろう、とスープを口に運ぶ。少し冷めてしまったそれが、じわりと舌に染み込むような感覚。


『世界が崩壊する、との話が飛び交っていますが、私の観測ではそのような兆候は一切見られないんですよ。まず冷静に行動することが大切ですね』



 世界が崩壊する。



 その言葉を聞いた私はすぐにリモコンをテレビに向け……チャンネルを変えた。

「つまんない」

 どこも臨時ニュース、臨時ニュースばかりで、やれ各地で起きている暴動の様子や、独自の解説、世界中での報道状況を延々と、慌しく流している。

 チャンネルを、変えて、変えて。

 そして一周して最初のニュース番組に戻ってきた時、私はイラついてテレビの電源を切った。

「はぁ……」

 これならいつものようにくだらない企画をしている方がまだマシだ。どこも同じ事件の同じ情報を流すだけなら、テレビ局なんてひとつでいい。

 スープを飲み干すとぐるりと首を回し、停滞した部屋の空気を入れ替えるために窓を開ける。

 ガシャン、と何かが割れる音に続いて怒号が飛び込んでくる。なんだか外が騒がしい。

「世界が終わる、ねえ」


 今日もいい天気だった。空は青く薄く広がっていて、何事もない一日が始まろうとしている。誰かにとって特別な日でも、私にとっては変わらない。明日世界が終わろうと、終わらなかろうと。


 死んだように生きている。










◆◆◆◆◆


『小さい頃、私は虫を殺すのが好きだった。

 あり、小さな羽虫や蛾、芋虫も、身の回りにいる小さな生き物を手当たり次第に殺していたし、それがひとつの趣味みたいになっていた。

 数え切れないくらいの虐殺を行った。友達がスポーツをして遊ぶときは大体は誘われていたけれど、時々見つからないように隠れて、誰もいない暗がりに逃げ込んだ。

 そこにいた虫を、殺す。

 何度も何度も、殺す。』


◆◆◆◆◆










 私は本棚からいつものように古びた分厚い手帳を取り出して、愛用のペンで文字をつづる。


『今日は、一日中妙なニュースばかり流れていました。』


 今日の日付とたった一文だけ記すと、ペンをまた置く。私は一日をかけて少しずつ、少しずつ日記を完成させる。それが日課だ。

 何かがある度に少しだけ書き込む。ほんの一時間先にどうなるかを予想しながら。そうして間違ったら直すし、まるで物語を作って答え合わせをするように。

 でもここ一年は本当に同じことの繰り返しで、働いてもいないし買い物も大抵ネット通販で済ませてしまうから、鮮やかな日記なんて書けるはずない。


 だが今日は幸いにも、少しは変わった内容の日記を記すことができそうだ。このページが最後になろうとも関係ない。再びゆっくりとペンを手にする。


『どの番組も、誰も彼も、世界が終わるというニュースで持ち切りです。』


 また一文書き足して、しかしまだ書くのをやめない。


『一生に一度のお祭りみたい。』

 私は少し微笑む。こうして楽しんでしまっている以上、祭りに踊らされているのは私も同じだ。


 今日も平和で、いつも通りの日。


『私はやっと死ぬのでしょうか』


 世界中は慌てているだろうけれど、もう私は死んでいるようなものだから、大した不安も焦りも哀しみもない。淡々と眺めて、時に温く混ざって揉まれるくらいなら、それを拒みはしない。










◆◆◆◆◆


『当時住んでいたところは山と海に挟まれた閉塞的な地域で、息が詰まるような関係に噎せ返りそうなくせに、幼さ故にそんな強い苦しみにさえ気付けていなかった。

 周囲を取り巻く友達が求めている自分でなければならなかった。

 自由は多分、なかった。

 娯楽もない寂れたところに住む子供は、いつも自然を相手に遊んでいた。

 自然は強く、強い子供でなくては。

 私は常に強く、野蛮でなくては。

 そうでなければ。』


◆◆◆◆◆










 風が一層強く吹き込んだのを感じて顔を上げると、レースカーテンがふわりと膨らんでいて、その中に、人間の姿が見えたような気がした。

 見間違い?

 いいや、違う。風はやがて外へと帰っていき、膨らんだカーテンは萎む。白い半透明の布にまとわりつかれるようにして、確かにそこには人間が立っていた。少しうつむき加減で、その顔は全く見えない。

 確かにこんな時に、いつものように窓を開けたままにしていたのはいささかどころでなく不用心だったかもしれない。世界の終わりに混乱した人が侵入してきたのだろうか?


 人間、追い詰められると何をするか分からない。


 どうする?

 迷った末に、しばらくその人を観察することにしたが、困ったことに暴れるでもなく助けを乞うでもなく、自らアクションを起こす気もないらしい。

 さらに迷って、私はやっと、当たり障りのない言葉をかけることにした。

「あの」

 反応はない。

「何か御用ですか」

 言葉を発して数秒後、やっとその人が手を動かしてまとわりついていたカーテンを振り払った。


 男性だった。


 身長は私と大して変わらないくらいだろうか。真っ黒くて長めの髪に、土気色をした肌。背は少し丸まっていて、酷く肩を落として絶望に暮れているようにも見える。

 どういうつもりだろう? 最悪、終わりを見る前に殺されてしまうかも知れない。案外そういう人も多そうだと呆れる。いや、呆れている場合ではないのだけれど。


 刃物とか、武器を持っているようには見えない。それどころか鞄も何も持っていない。

 一方ここは私の家で、地の利というか、武器になりそうなものにはいくつか心当たりがある。万が一の場合は反撃くらい出来るかもしれない。どうせ死ぬのなら同じなのかもしれないが、折角世界が明日終わると言っているのに殺されるのは、耐え難い。


 彼はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて私に身体を向けた。

 はっきりと存在を認め、彼と私は同じ空間に初めて生きる。


 しかし彼は私を殺そうとはしなかったし、どうやら危害を加える気も無いようだった。ただ一言、とても大切な言葉を口にするようにこう言い放った。




「こんにちは。恩返しに来ました」




 警察を呼びたいのはやまやまだったけれど、どうせ電話が繋がるはずもなかった。










◆◆◆◆◆


『野蛮な世界で生きていくには、自らも野蛮でなくては。

 強くなければならなかった。

 そうであることを暗に求められていた。

 誰も傷つけたくないのに傷つけた。差別し、暴力を振るった。非力なくせに、一丁前に。

 不器用で滑稽だと知っている。

 本当は誰も、野蛮であれなんて口にしていなかったのに。』


◆◆◆◆◆










「恩、返し?」

 ややあって何とか答える。

「ごめんなさい、貴方のこと知らないです」

 あのおかしなニュースを観て、絶望しておかしくなってしまったのだろうか。自分のことは差し置いて目の前の青年を案じてみせたが、しかし彼は、一見酷く冷静そうだった。

「そうだと思います。覚えていなくても構いません」

 声は酷く暗い。とても恩を返そうなどという風には思えない。

「ぼくは恩返しに来ました。貴女に命を救われたこの深い恩を、返しに来ました」

「命……?」

 そんな馬鹿な。

「確かに救われたのです」

「私、そんな大層なこと出来ませんから」

「確かに救われたのです」

「でもむしろ誰かを傷つけたりするばかりで、」

「確かに救われたのです」

「……」

 じっと彼を見つめる。彼も私を見つめている。何を考えているのかが全く読めないその奇妙さに、得体の知れない不快感を覚えた。表情が無いせいかもしれないが、私を見ていながら本当は何を見て、何を見たいのかが不明瞭。声の抑揚もない。


「確かに、救われたのです」


 結局私は、そう、と頷くことしか出来なかった。残念ながらやはり彼に見覚えはないし、誰かの命を救ったことなどあるはずもない。不法侵入してきた青年の勘違いか思い込みだろうということは明白だった。

 ただ、誰かを否定するのは好きじゃない。

「それで……どうするつもりなんですか」

「どう、する」

「恩返しって、何をするんですか」

「ああ」

 ぼうっとこちらを見つめながら、彼はまたしても淡々とそれを口にする。


「思い出して頂きたい」

「な、何を?」

「貴女に、地獄のこと」










◆◆◆◆◆


『他人に虐げられるような立場にはならなかった。

 しかし、上手くやっていたとは言えないような気もした。

 結局私は様々なもので当時も武装していたけれど、それだけ、他者というものは存在するだけで私を圧倒する。

 私にはどうしようもない存在。

 予測の出来ない、手の付けられない存在。

 どんな強い人でも弱い人でも、等しく恐ろしかった。それは強い恐怖によるストレスで、私はますます混乱していく。

 思い通りにしようなんて思わないけれど、コミュニケーションが取れているとも思っていなかった。

 幼いながらに、何より他者が怖かった。』


◆◆◆◆◆










「当時の貴女は地獄に生きていました」


 地獄。


 私の人生はいつも地獄のようなものだと言い返しかけるのをぐっとこらえて、彼の次の言葉を待つ。


「だからぼくは、貴女を連れていきます」

「誘拐ってこと?」

「そうすることがぼくの恩返しなのです」

「地獄なんて……嫌だけど」

「大丈夫です」

 一体何が大丈夫なのだろうか。

「貴女が望むことしか、ぼくには出来ない」

 もちろん私は地獄なんて望んじゃいないのだが、はあ、と曖昧な返事を返した。


 どうせ今日で世界が終わるのだ。いっそ終わらなくたって、もう私はいつ何が起きて死んだって構わない。人生に意味はなかった。同じことの繰り返しに辟易して、やがて社会に溶け込むことをやめた。そうしたら、一層繰り返しの毎日に飲まれて、私は何かに組み込まれていく。

 ちくたく、と労働させる会社も、カリキュラムのとおりに動かす学校もないのに、まるでそうしなきゃ生きていけないとでも言うかのように、毎日同じことを繰り返す。


 日記を書き始めた今を意識ある死体と評するなら、それ以前は意識のない生者だった。


 狂った男についていくのもまた一興だと思った。犯されようが殺されようが、構わないと。


 そこまで考えたところで、さっき彼が現れた時に武器を探して対抗しようとしたのは、残っていた僅かな人間らしい理性の欠片だったのかもしれないと、取り返せない失ったものに腹の底が凍るような感覚を覚える。日常を回す歯車であるうちは人間らしさを失った気でいたくせに、歯車であることを忘れると更に大切なものを捨てたような顔をするなど。


 私はどれだけ多くのものを持っていたつもりなんだ?


「なにも要りません。ぼくがすべて案内しますから」

「……そう、なにも要らないのね」

「はい。貴女がいれば」

 これは私の地獄を見つける旅。

 私さえいれば、地獄は成立する。










◆◆◆◆◆


『まだ幼い子供がよくやるように、私は世界が消えることを夢想した。

 どんな理由でこの世が終わるかなんて、そんなことはどうでもよかった。どうでもよかった。

 夜、私はひとりで本を読んだ。

 昼、友達と外でへとへとになるまで走り回った。

 難しいことは考えられなかった。目に見えない束縛に雁字搦がんじがらめになりながらも、それすら自覚できないほど何も考えずに生きていた。

 でも時々ふと、世界が終わればいいと思った。

 私は私に、居なくなって欲しかった。』


◆◆◆◆◆










「ねえ、世界が終わるんだって」

 彼は私の手を取りながら、そう、とどうでも良さそうに頷いた。

「知らなかったの?」

「知っていました。嬉しいですか?」

「どうだろ」

 ふと彼の目が細められる。

「そう」

 何も言わないのに咎められているような気がするのは何故だろう。

 空は晴れている。いつかこんな薄くて哀しい青色を見た気がするのだ。同じ空は二度とないと昔聞いたけれど、それでもこんな空は存在した筈だ。私はこうやって見上げて、その時もきっとこんな気持ちになったのだろう。

「行きましょう」

 私の右手をしっかりと握って、彼はまだ開けっ放しの窓へと近づく。カーテンが迎え入れるように、拒否するようにはためくのを、青年は空いた手で乱暴に振り払った。

 強い光。

 目を焼くような白い光が洪水のように溢れて、私と彼を包み込む。踏みだしたはずの足が、一体どこに着地するのかを知らない。


 知らない?


「貴女は知ってる」

 そう、私は知っている。

 私の地獄を知っている。


 光はもう無かった、あたりは薄暗い、森の中だった。時折風に揺れて木漏れ日が差す、ここは小さな森の中。踏みしめているのは硬い土と、何枚かの落ち葉だ。木々の密度はそんなに高くなくて、辺りを見回せば、日常的に誰かが歩いている証であるちいさな道が何本も森の中を走っている。


 少し離れたところに平たくて大きな石と、丸くて握りやすそうな石が置いてあった。あれは、胡桃くるみの実を割るためのもの。


「ここは……もしかして」


 木々の向こうに強い光が差していて、その中に灰色の建物が見えた。私はここをよく知っている。


 ここは山と海に挟まれた閉塞的な町の、小学校の敷地内だった。


「うそ、どうして……」

「懐かしいですか」

 彼はゆっくりとしゃがんで、手のひらを土の地面に押し当てる。

「どういうこと? なんでここに」

「ここが貴女の地獄だからです」

「……なぜそんなこと知ってるの? あなた、誰?」

「いずれ分かります」

 そう言って青年は立ち上がった。もしかして彼は小学校の時の同級生とか?

 ……残念ながらまったく心当たりがない。

 なんでとかどうして、とか疑問は絶えず渦巻いているが、それは、どうやら聞いても答えてくれないらしい。

 私は葉と土を踏みしめながら歩き出す。光の方へ。


「……こんなにちいさい建物だったのか」


 呆れるほど広い校庭、広くていつもひんやりとしていた校舎も、今は大したことがなかった。

 懐かしいのに、ここはもう知らない場所だ。これ以上森の中にいたくなくて、私は足早に校舎に近付く。後ろにぴったりと青年の気配を感じているが気にしない。

「大きくなるって、あんまりいいことじゃないね」

「そうですか?」

「小学生の時、校舎はすごく大きくて冷たくて、校庭は呆れるほど広かったもの。どこか非現実的だった」

 でもこうして見ると、とあたりを見回す。秘密基地を作った森の中、いくつかの遊具と金木犀きんもくせい。砂煙にかすむ広い校庭も、全て全て、在り来りでぼろくて、ちゃちな風景に変わっていた。

 魔法が解けたように。

「あんなに辛くて、輝いていたのに……改めて見てみればこんなものか」

「魔法を解くのは大事なことです」

 行きましょうと彼が促した。少し迷って、校舎の中でも遊具のあるスペースでもなく、私は校庭に向かう。

 本当は、外に出るより室内で遊んでいる方が好きだった。みんなが外にばかり出かけるから、私も付いて行ったのだ。サッカー、ドッジボール、かくれんぼと鬼ごっこも、どれも楽しくて苦しかった。当時からあまり力があるわけではなかったから。


 地面はかさかさに乾いていて、無数のちいさな足跡が校庭を埋め尽くしている。足を引き摺った跡もある。後ろに顔色の悪い男を引き連れて、懐かしい空間を横切っていく。

 校庭の隣にはプールがあって、その間を背の高い木が埋めて壁の代わりになっていた。葉の密度が高く枝もびっしりと伸びているが、地面と、一番下の枝の間、木の根元には子供が潜り込めるくらいのスペースがあった。大人は入ろうとも考えない空間。


 幾つも蟻の巣がある。


 大人になった私はそれを見下ろしている。時折隠れるようにして潜り込んだ、暗くて狭い空間。

 近くに落ちていた細い木の枝で穴を掘り、石で命を叩き潰す。何度も、何度も。


 幼い時に発露するかつての残虐性を思い出す。


「酷いと思う?」

「いいえ」

「命を大事にしなさいって小学校で教えられたのに、授業が終わればこうして殺してた。酷いと思う?」

「いいえ」

 いいえ、と繰り返した彼は、振り返れば淡々と私を見ている。


「誰も思い通りにはならないことを、私はどこかで知っていた。自分の性格さえどうにもならないことも。幼い私には過酷な現実だったの。認めたくなかったし抗いたかった」

「だからたくさん、命を奪いましたか」


「殺したかったわけじゃない。思い通りにしたかった。何ひとつ思い通りにならなくて、誰かが欲しいと思った私を演じて、その知らない私がしでかした事すべてを恐れてた。怖かった。私は私の意思で動いて、それによって生まれた反応や事象をきちんと確かめたかった」


 石を振り下ろせば命が絶える。

 他でもない私が石を振り下ろせば、ひとつふたつ、命が絶える。

 絶える。

 絶える。


「行きましょう」

 もう私は命を無闇に奪わなくなった。私に殺されていた者達の地獄は一応の終わりを見たのだ。

 彼の冷たい手を握って、その目が覚めるような体温を頼りに、またしても圧倒的な光に飲まれていく。










◆◆◆◆◆


『もしも世界が終わったなら、みんな死んで、私も死ぬ。

 自分が死ぬことは喜ばしいことだった。当時の私という存在は、私にとって自らの意思に反して動く嫌なものという認識だったから。自分の思いや考えを伝えることすら出来ない友人達によって求められて作られた、幼くて暴力的な存在。

 当時の私はそれがつらくて、つらくて。

 でも自分を殺してしまおうとはまだ考えも出来なくて、その代わりに世界が滅びることを望んだ。

 消えてしまえ、消えてしまえ。


 私も、友人も、家族も先生も虫も、何もかも』


◆◆◆◆◆










 目を開くと、突き刺すような日光と酷い蒸し暑さが襲ってきた。

「夏……?」

 蝉の声がわんわんと響いている。私が立っているのはかなりきつい傾斜の坂の途中で、アスファルトで舗装された道路は山の方へと真っ直ぐ続いている。

 見覚えがある。ここは通学路だ。私は坂を延々と登って、家に帰っているのだ。

「ねえ、どうして急に夏に……」

 春用の服装なのに、突然夏になられたらたまったものではないと彼に抗議しようとして声を荒らげ、しかし私を連れてきたはずの男性はどこにもいなかった。

 私は一人ぼっちだった。


 あの日も私は一人だった。私は私の私ではないから、今よりずっと孤独を恐れていて、でも気にしないふりをしていた。あの夏の日、私は友達と別れて一人で帰っていた。だるような暑さ。日差し、蝉の声。


 目の前でのたうち回る、ミミズ。


 あの日と同じように、私の足元にミミズがいる。そこまで大きなものではなかったけれど、どうしてこんなところにいるのか、熱せられた地獄のようなアスファルトの上で激しく身をよじり、その冷ややかな身体を焼かれて苦しむ一匹のミミズが、道端の草むらに帰ることも出来ずにいた。

 当時の私は虫を殺すことが好きだった。ミミズがいたら、木の枝で真っ二つに切り裂いただろう。


 私はしゃがんで、そのミミズの為に木の枝を拾う。


 殺すだろう。


 殺しただろう。


 大人になった私ではない、当時の幼い私の選択をなぞるように手を伸ばし、その柔らかな腹をつつく。不思議とミミズはのたうち回るのをやめて、されるがままになった。


 細い細い木の枝で、その弛緩した身体を引っ掛けて、草むらへとやや乱暴に放った。

 追うように木の枝も投げ捨てる。私は殺さなかった。


 地獄から、救った。


 緩く草に引っかかったミミズは、僅かに身体をよじっただけでまだ地面に帰らない。私はそれをただ見つめている。


「命を救った、恩返し」

「そう。このあとぼくは死にました」

 じわりと染み出すように、脳裏に彼の声が響いた。蝉の声が遠のく。

「焼かれた身体ではどうしようもなかった。ぼくは死んだ」

「じゃあ私が助けたのは、意味がなかったんじゃない」

「そうでもないです」

 ミミズはやっと動き出し、草の間を複雑にすり抜けてぽとり、と地面に落ちる。彼は冷たい土に潜り込もうとする。


「救われたと思ったでしょう」

「あなたが?」

「いいえ、貴女がです。ぼくを助けることで救われたでしょう」

 だから恩を返すのです。


 命を救われた、あの日の恩を。



「これからぼくは土に潜り、しばらくして死ぬ。貴女が助けたにも関わらず、その意に反して命を落とす。ぼくですら、貴女の意のままにはなれない」

 暑さが少しずつ引いていく。酷い汗も冷えていく。

「それでも救われたと思ったんでしょう。貴女は救われたと。他者より、誰より貴女自身が、貴女の思いに従ったことで」

 ミミズを救ったつもりになった一年後、私はこの地獄のような街を自らの意思で出た。


「貴女は貴女になって、誰に愛されることなく生きて、そして」


 ミミズは自らの墓に潜る。私の目の前から姿を消し、救われたように見せかけて。


「貴女の思うままに」










◆◆◆◆◆


『小学生の時、幼馴染みに告白された。当時私には他に好きな人がいたけれど、なんの躊躇いもなくその幼馴染みの彼と付き合うことにした。

 一年ほど片思いをしていたクラスメイトのことをあっさりと諦めて、最初から幼馴染みのことが好きでしたというように喜んだ。

 どうでもよかった。

 みんなに作られた私は、誰かの為の私で居たい。


 それから十数年後、母親が当時のことを振り返って笑った。苦しそうだったね、と笑った。

 苦しそうだったね。

 苦しそうだったね。』


◆◆◆◆◆










 踏み出した足の先。

 踏みだしたはずの足が、一体どこに着地するのかを知らない?


 いいや、私は知っている。

 それは地獄。誰かの地獄であり、私の地獄。

 息が詰まるような光に包まれて、私は当時のもう霞んでしまった日々をぼんやりと思い出す。

 手を引いてくれる人は最初からいない。

 私には私しかいない。導いてくれる人も、誰も。


 それでも明日世界が終わるなら、もう苦しまなくていいのなら、幸せとは言えずとも不幸では無いような気がした。孤独ではあっても怖くない。

 もう、何も。


「貴女が望むことしか、出来ない」


 もう死んでしまった彼の、私の声が脳裏に響いて、とうとう一歩を踏み出した。狭く、古く、暗い部屋から飛び出して、光に飲まれて、一瞬だけ明日には滅びる広い世界をどこまでも見下ろしながら、ただ重力にのみ呼ばれ。


 誰にも知られることなく。


 飛び降りて、死ぬ。

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