<広川博> 仏作って魂入れず
中学校を卒業してまだ2ヶ月も経たないあたり。それこそ勉強もせずに野球ばかりやっていると、やはり社会で使う知識というものが欠落しているのも必然である。
「今日の全体練習はこれくらいでしょうか。では、お疲れ様でした」
「「「お疲れ様でした」」」
1年4組は開幕以降連戦連敗を続けており、相変わらず勝てる気配を見せはしない。ただ以前の連敗から来る暗い雰囲気は徐々に消えていき、今では変わって初勝利に向けて頑張る明るい雰囲気が現れつつあった。
それは監督・広川の号令に続く皆の返事でも分かった。
「うわぁ。だりぃ」
「何言うとんな。えっと練習したわけじゃないじゃろぉ」
「馬鹿か、神城は。神主は投手陣の相手をして疲れてんだよ」
「分かってるなら、輝義。せめて労われよ」
ただキャッチャー1人体制は正捕手・宮島に負担をかけているわけで、彼はだいたい練習終わりには「だりぃ」を口にし、帰って秋原のマッサージが定番となっている。
「おぅ、ご苦労さま」
「それだけか?」
それだけらしい。
「そういえばちょっと疑問があるんじゃけどのぉ。これは秋原の方が詳しいかもしれんのぉ」
「な~に?」
練習終わりの体調管理と言う事で野球場に来ていた秋原へ、神城はここぞとばかりに問いかける。
「『ご苦労さま』と『お疲れさま』って何が違うん? だいたい同じ意味じゃろぉ」
「あぁ~えっと、たしかマナーの講義で習った気がするんだけど、どうだったっけ?」
秋原は習ったばかりだそうだが、ド忘れしているようである。
と、そこへ秋原以上にマナーに知っていそうな人が話へと入ってくる。
「では一応、人生の先輩として」
20年以上彼らよりも長い時を生きている広川である。習ったわけではないが、こうした知識は自然と身に着いているものである。
「ご苦労さまとは自分と同等、もしくはそれ以下の立場の人をねぎらうもの。お疲れ様とは自分と同等、もしくはそれ以上の立場の人をねぎらうものです。例えば社長が社員に言う分に『ご苦労さま』はOKですが、社員が社長に言うのはNGということです」
「なるほど。じゃったら、広川先生が僕に『ご苦労さま』って言うのはええけど、僕が広川先生にそう言うのはいけんってことじゃなぁ」
神城が自らの立場に置き換えて発言するが、広川は少々困った様子。
「私が目上なら間違ってないのでしょうけど……私はあまり上下関係を作って壁を作りたくないタイプなので、よほどな暴言でもない限り気にはしないですよ。それにこの手の事は言葉の形式云々よりも、心遣いの方が大事かと。私は仏作って魂入れずよりも、下手なぬいぐるみでも魂が入った物の方が遥かにいいですよ」
「魂の入ったぬいぐるみ?」
「もののたとえです」
要するに心遣いと言う『魂』が大事なのであって、言葉と言う『仏』は必須ではない。言葉だけ着飾って中身のない『魂なき崇高な見た目の仏』よりも、言葉は雑でも心のこもった『魂の入ったぬいぐるみ』の方が遥かにありがたい。と言う話である。
「魂の入ったぬいぐるみかぁ。そんなのあるんですか?」
「秋原さん。もののたとえと言いましたよ。しかしその問いに答えておくと、あるのではないでしょうか。きっと」
あれは今となっては昔の事である。高校で投手としてエースナンバーを背負っていた広川だが、その成績は決してプロスカウトの目に止まることはなかった。そして打撃に関しては4番を打っていたこともあるものの、それは周りがそれほど野球の上手くなかったためという消去法。投打についてプロレベルではないと判断され、彼自身もプロになろうとは思わなかった。
親を通じて『守備の才能』をスカウトから告げられるその時まで。
広川博 18歳 投手
ドラフト1位でプロ入りを果たす。
プロに入ってすぐ外野手へと転向。開幕前は期待のルーキーと紅白戦・練習試合、そしてオープン戦と連日出場したが、打率1割台と目に見える成績は残せなかった。
だが、首脳陣や投手陣はその彼の存在を実践において強く実感した。
だからこそあんなことが起きたのだろう。
『8番、センター、広川博』
ルーキーにして開幕1軍、開幕戦レギュラーでの出場である。
彼の守備の評価は首脳陣から、そしてそれ助けられた投手陣から高く評価され、1年目にしてレギュラー定着。112試合先発、11試合途中出場を果たし、2年目には全試合先発出場を成し遂げた。
プロ1軍のレギュラー。普通に考えればファンから賞賛されるだろうが、彼へのファンの評価は小さかった。
打率1割台中盤、本塁打は打ててシーズン2本、特にチャンスに強いわけでも、盗塁数が稼げるわけでもない。
そして守備が得意とは言うが、補殺もそれほど多くなく、快足を飛ばした好捕のようなものもなく、飛びついてのファインプレーもない。
彼は『打球の読み』と言う守備の上手さを持っていたが、それは野球未経験者も珍しくないファンの間では評価されなかった。ただ補殺やファインプレーと言った『目に見えやすい結果』でしか評価せず、「なぜ打てない奴を使い続けるのか」「辞めてしまえ」と言った罵声も飛び続けた。
そんな彼にとって評価してくれるのは『広川のUZRが+16』なんてことに気付いた、自称・野球通のネット住民だけであった。ただそうした人も「ネックの打撃も考慮すると二軍レベル」とまで言い放ち、結果、誰も味方はいなかったのである。
ところが3年目シーズン開始前のことである。
「広川くん。手紙だ」
「寮長さん。誰からですか?」
「ファンレター、みたいだぞ」
練習から帰ると、寮長から手紙を手渡された広川博、当時20歳。
その封筒は球団が安全確認として中身をチェックしたため封が切られてはいたが、それ以外は何の変哲もないものだった。そしてその送り主は……
「この名前は女子?」
意外な人物であった。
部屋に戻り、机に座って手紙を広げる。
『広川選手。こんにちは。
私は、広川選手のファンで水戸陽香と言います』
そんな定型文のようなものから始まる内容。さらに読み進めてみると、中学校1年生であること。去年の彼の守備を見てファンになったということ。以前まで野球をしていたということ。最近では病気のため入退院を繰り返しており、野球ができないということ。などなど、多くの事が書かれていた。
「僕の事を見てくれている人もいるんだね」
家族や友人を除くと、ファンらしいファンに出会ったこともなかった。むしろ家族や友人も、親しいがゆえに痛い所をためらいなく突いてきて、彼としてもあまり付き合いがたい存在ではあった。
もしかしたらこの手紙の送り主もいずれそんな鋭くも痛い指摘をしてくるかもとは広川も思った。が、同時に話すだけ話してみても面白いかも。と言う思いに至った。
それを機に彼と彼女の文通が始まる。
野球の技術談義や、プロで知り合った選手たちのこと。時には彼女からの野球質問に答えたり、好きな映画や好きな食べ物、趣味、特技など野球から脱線した話もしたり。とにかくいろんなことを文通でやりとりして知り合った。そして親交を深めていったが、仮に彼と彼女が言いたいことを言い合える仲になろうとも、広川の気に障るようなことは決して書いてこなかった。
彼にとって彼女は、初めてできた本当のファンだった。
文章を通じた交友を始めてからしばらくたったある日のことである。
スケジュールの都合でやや長めの空白期間ができてしまった。そこで球団は慈善活動という目的で医療福祉団体へと1軍主力選手の派遣を決定。そこに広川が入っているのも例外ではなかった。
そこで広川は自ら行きたい病院を指定。球団がその病院を候補のひとつにしていたこと。そしてまだ派遣する選手も決まっていなかったことで、35歳のベテランスラッガー、29歳のエースピッチャーと共にその病院へと行くことが決定した。その病院は言うまでもない。
「サインして~」
「握手して~」
イベント当日。病院へと来て見れば、上は中学生くらいから下は幼稚園児くらいまで。多くの子供であふれかえっていた。
「子供さんばかりですね」
「えぇ。いずれも長期療養を必要とする子供たちです」
やはりそうした子供のサインや握手の希望は、ホームランバッターとエースに集まる。地味な守備巧者の広川はそれほどでもなく、看護師さんと軽く会話を交わせるほどの余裕がある。
「治らないんですか?」
「私の口からはちょっと……」
戦後に50歳代と言われた日本の平均寿命は、1990年現在で80歳近くまで大きく伸びる。1960年ごろには免疫抑制剤の開発が行われ、臓器移植の技術が向上。1980年には世界保健機関により、伊達政宗がかかったと言われる感染症『天然痘』の撲滅が宣言。医学は驚異のスピードで発展を続けている。
しかしそれでも難病と呼ばれる病気は多々あり、また難病でなくとも100%救うことができるとは限らないこともある。医学は完璧ではないのである。そして今、彼らの前で笑顔を浮かべている子供たちの病気も治るとは限らない。また今度会うことができる。と言い切れない子供がいるのもまた事実。
「医療従事者としては早く治して、無理なら症状を軽くして退院させてあげたいのですが」
命の火が消える瞬間を幾度となく見てきた年配の看護師は声を抑え気味につぶやく。
「そうですか……時に、この病院に水戸さん。と言う方はおられますか?」
「患者様ですか?」
「はい。中学校1年くらいなんですが」
「あいにくここは400床クラスの病院でして、私どもの管轄外かもしれず記憶にないですね。必要ならば調べますが?」
「お願いします」
この約10年後。個人情報の保護に関する法律――通称・個人情報保護法によりこうした患者情報の管理には厳戒態勢が敷かれるのだが、まだ今はかなり甘い所もあるようである。
一緒に院内学級にて勉強をしたり、歌を歌ったりちょっとしたゲームをしたり。3時間程度のイベントも終わったあと、広川は先に帰る先輩2人に断って彼女の病室へ。場所は先の看護師が調べてくれたため知っている。
『水戸 陽香』
ネームプレートを確認してからドアをノック。
「どうぞ」
前々から聞いていた中学校1年生の女子らしい高い可愛らしい声である。ただ心なしか少し弱弱しいところが気になるところ。
「失礼します」
広川はやや緊張の面持ち。実は『文』を通してしか彼女を知らず、彼女と会うことはおろか、彼女を『見る』のも初めてなのである。
「あっ」
家族でも友人でも、医者でも看護師でもない。入ってきた20歳くらいの大柄の男を見て、ベッドの少女は声をあげる。
「ひ、広川選手」
「やっぱり君が……」
「はい。水戸陽香です」
ベッドに座っている彼女は、青っぽい病院の寝間着に点滴チューブと言う絵に描いたような入院患者スタイル。中学生1年生らしい成長途上な小柄さ……とはお世辞にも言えない少し病的なやせ方をしており、日焼けをしていないというレベルをやや越した色白さ。ただ医学方面に知識のない広川はあまり違和感を抱かない。
「こんにちは。今日は球団の企画でこの病院に来るイベントをしていてね。って、知ってるかな?」
「はい。ベッドを離れられなかったんですけど……来てくれて嬉しいです」
無理のない心の底からの笑みを浮かべるが、声はやや無理をしているところがある。よほど体調がすぐれないのであろう。
「ほら。無理しないで寝て」
そう言って体を起こそうとする彼女を寝かせる。
「ごめんなさい。こんな格好で」
「いいから、いいから。そんなことより――」
2人はこれが初対面である。だがこれから始まった会話は、到底初対面の2人の会話と思えるものではなかった。それもそのはず。これまで『手紙』という紙媒体を通じて心を通わせていたのである。それが『口語』という音媒体に代わっただけのこと。ほとんど何も2人がしていることは変わらず、手紙の時と同じく趣味や野球の話に終始する。
「それじゃあ、そろそろ帰らないと」
「広川選手。また……また、来てくれますか?」
スケジュール的にも体力的にも大変なプロ野球選手。たった一ファンのために、地元とはいえここまで来てくれるわけがない。そんな悲観的な考え方の中に一縷の希望を持って問いかける。すると彼は彼女にとって意外な反応をした。
「また会いに来るよ。きっと」
「あ、ありがとうございます」
裏の無い満面の笑み。彼女との初対面はとても和やかに終わった。
「おぅ、広川。最近調子よさそうだな」
「監督。馬鹿にしてるんですか?」
「な~に、ほんとうのことだ」
あまり選手と壁を作りたくないと言う考えの監督に対し、ひとまず敬語を使いながらも友人に返すようなセリフを吐く。
あの病院でのイベントから1週間。打率は1分上がってはいるが誤差の範疇。ホームランを打っているわけでもなければ、打点を特に上げているわけでもなく、盗塁もそれほどなければ、お立ち台に上がっているわけでもない。
こうしてみれば監督のそのセリフは、打撃の下手な広川を馬鹿にしているようにも思えるのだが。
「成績の事じゃない。野球の事ではあるけどな」
監督は周りに誰もいないのを確認しながらも声を抑える。
「女、か?」
「な、なんですか。急に」
「図星かぁ。いやぁ。ここ最近、広川のプレースタイルが変わったように思えてな。練習にも試合中のプレーにも積極性や思いっきりが垣間見える。今はそうしたやる気のプラス分と、空回りのマイナス分が相殺されて成績には反映されていないがな。はっはっは」
豪快に笑いだす監督に広川は脱力して細目を向ける。
「ま、まぁ、女性には違いないですけど、監督の考えているのとは違いますよ」
隠す気はなくも、違う点は違うと否定しておく。
「そういうことにしておこう」
「違いますけど、あまり周りには言わないでくださいね」
「『あまり』ということは言ってもいいと?」
「絶対に言わないでください」
「承知した。それは監督と選手の信頼関係の問題だからな」
監督は引き続き笑みを浮かべながら了承。そんな上下関係の薄いフランクな監督に、広川はつい心を開いて質問する。
「監督。僕らの、野球選手のプレーだけでファンにどれほどの夢や勇気を与えるものなのでしょうか?」
話の流れから言ってそれほど脈のない質問。しかし監督は彼の意図を汲みとってそこにはツッコまず、真面目な表情で逆に問う。
「広川は自分が野球少年だった頃、いったいどれだけの夢や勇気を選手からもらった?」
「それは……」
「それが答えだ。きっと野球のプレーなんてものは、選手からしてみればとにかく野球をしているだけに過ぎない。しかしどんなプレーでも、そこに選手の魂がこもった物ならば、きっとファンに伝わる。夢や希望を与える。それが――」
広川の胸へと拳を突きたてる。
「お前のこれまで与えられてきたもの。今度はお前が与える番だ。お前のファンへ、な」
「はいっ」
「いい返事だ。若いっていいな」
もう50中盤に差し掛かる老練な監督はやや遠い目。と、視線を戻す。
「おっと。今日、広川は8番センターな。夢と希望を与えるプレー。期待しているぞ」
「もちろんです。きっといいプレーをしてみせます」
本日の試合。
広川博
空振り三振 セカンド併殺 投犠打 センターフライ
今日はやる気が空回りしたようである。
「自力優勝、消えちゃいましたね……」
「ごめん。力不足で」
「いえいえ、気にしないでください。相手もプロですから」
8月上旬。まもなく夏の甲子園大会が始まる時期。言い換えれば広川にとっては3度目の死のロード。これからは8月下旬まで東京・神奈川・愛知・広島、および一部その他地方を転々とすることになり、地元兵庫には軽い荷物整理くらいでしか帰る予定がない。そのためひとまずの会い納めと言ったあたりで、遠征前に会いに来たのである。
「それにここから連勝、連勝。もしかしたら逆転優勝できるかもしれませんし、無理でも広川選手には来年があります」
「そうだね。ありがとう」
こうして前向きに声を掛けてくれるファンがいるのは嬉しい限りだ。
と、広川はふと自分が座っている場所からベッドを挟んで反対側。布の切れ端がたくさん入った段ボールを見つける。
「あれは……お裁縫かな?」
「あ、ばれちゃいましたか? 入院中は暇なんで、ナースセンターでお裁縫させてもらっているんです」
「へぇ。得意なんだ」
「苦手です。家庭科の成績は小学校で度々『もう少しがんばりましょう』を付けられてました」
「なのに、なんでまた?」
「秘密です」
可愛らしい笑顔を浮かべながら、右手人差し指を立てて口の前へ。
「広川選手は学校の成績とか、どうだったんですか?」
「聞きたい?」
「はい」
「体育は毎回5段階のオール5だったね。けど他のはアヒルの行進だよ。時折電柱が立ってたかな?」
要するに『1』と『2』のオンパレードである。
「へぇ。勉強はさっぱりなんですか?」
「勉強はさっぱり。数学なんて特に大っ嫌いだったなぁ。数字の並びですらもうダメ。国語もあまりよくないかな。作者の気持ちなんて聞かれても分かるわけない」
いかんせん小・中・高とまともに勉強をせずに野球をしていたため、体育以外の成績はサッパリであった。
「そうですね。確かに作者の気持ちなんて言われても困りますよね」
広川にとっては地元の病院であるが、遠征に次ぐ遠征。地元にいる時は練習に次ぐ練習で、オフならオフで練習・試合に備えて体を休める必要がある。ゆえに滅多に来られないためか、その来られない間にたまった話のネタが次々と口から出てくる。
そうして長々と話していたが、病室に西日が差しこみ始める。そこでついに時間経過に気付いた広川は腕時計を確認。
「あぁ、もうこんな時間だね。明日からの遠征の準備もあるし、そろそろ帰るよ」
「ひ、広川選手」
「ん?」
彼女は掛け布団の裾を掴みながら俯き、なにやら言いにくそうにする。
帰ろうと一度は立ち上がった広川だったが、すぐにパイプいすへと掛けなおす。
「どうしたのかな?」
「……じ、実は」
その言いにくそうな感じは尋常ではない。と言っても身体的な痛みにより声が出せない。という類ではなく、言いにくいことを言おうとしている、心理的な踏ん切りがつかないといったところか。しばらくはそうして黙っていた彼女であるが、意を決したかのように顔を上げる。
「近いうちに大きな手術がある予定なんです」
「本当に? いつごろ?」
「それは体調次第みたいで……」
やや返事に困りながらもひとつひとつ言葉をひねり出す。
「あっ、先に言っておくけど『ホームランを打って』はちょっと」
「大丈夫です。広川選手に負担をかけることは言わないです」
シーズンで多くて2本しか打てない選手がこれからホームランを打つ確率など、例え期限が1ヶ月あっても非常に低いだろう。
「だから、ごめんなさい。もしかしたらお手紙を書けないかもしれないし、当分会えないかもしれません」
「残念だなぁ。君と会えるのを楽しみにしていんだけど」
広川にとっては数少ない自分の心の支えである。そんな彼女と1ヶ月間会うのが難しいだけでも寂しいのに、期限不定でさらに会えないと言われてはもっと寂しさも増す。
「よし。決めた」
広川は勢いよく立ち上がる。
「僕にホームランは打てない。けど、きっと今年、何かのタイトル――いや、ゴールデングラブを絶対に取ってくるよ」
予告ホームランはできない。その代わりと言ってはなんだが、予告ゴールデングラブ。それが守備の得意な広川ができる約束である。
「きっとゴールデングラブを取って会いに来るよ。だから手術、頑張って」
「はいっ」
よほど当分会えないことが悲しいのか、それともそんなタイトルの約束を高卒プロ3年目の選手がしてくれたのが嬉しいのか。彼女は目から涙を流しながらに元気な返事。
「じゃあ、私は、ゴールデングラブを広川選手が取ったら、代わりにプレゼントを送ります」
「僕も期待して待ってるから、陽香ちゃんも期待して待っててね」
か細い女子の小指。太く強い成年男性の小指。その2つを絡ませて指切り。
「それじゃあ、また」
そしてその指を解いてその場を去ろうとした広川だったが、直後に彼女が飛びつくように抱きつく。
「陽香ちゃん?」
「広川選手、きっと、タイトルを取ってください。いつでも、ずっと、どこででも応援しています」
「うん。ありがとう。だからそっちも頑張って」
泣きながらにそう伝える彼女を軽く抱きしめつつ、彼からも彼女にエールを送る。
「じゃあね。そろそろ」
「はい……さようなら」
「うん。また今度」
彼女は彼を離したくなさそうに一度、力が出ないのか軽く振りほどけそうだが、彼女なりに強く抱きしめる。しかしすぐに離れる。
ようやく別れ際のあいさつが終わった広川は、荷物を手にして病室を後にした。
そして1人残された彼女は泣き止むことなくつぶやいた。
「さようなら……広川選手」
死のロード突入。
高校野球が地元球場を占拠することで、遠征に次ぐ遠征。ビジターに次ぐビジターで、身体的にも精神的にも疲労が募り、チームが大きく調子を落としてしまう時期。だがその中で広川は気迫を見せる。
『あっと、広川の会心打はっ――入った、入った、入ったぁぁぁぁ。広川、今季第1号、逆転ツーランホームラァァァァン』
自分にはホームランは打てない。と宣言した翌週。相手チームのエースにノーヒットノーランを許し劣勢な中、レフトポールに当てる逆転ホームランを放ち勝利に貢献。
そしてさらに、
「デッドボール。た、退場っ」
お互いに選手を使いこみ総力戦となった延長11回表。ショートを守る選手が頭部デッドボールを受けて負傷交代。最後の野手である高卒ルーキーの外野手が代走へ。ひとまず投手が野手として出ることは避けられたのだが、チームはもう一方の問題を抱えていた。現在、試合に出ている野手のうち、内野手経験があるのは3人。つまり内野手が足りないのである。
そうして11回裏。
『(まさかプロ3年目にして初めての内野守備とはね)』
セカンドの選手をショートに回して広川がセカンドへ。
ファーストが膝を痛めている超大ベテラン。サードは衰えが目立つこちらもベテランと、広川以外にセカンドをできる人間がいないのもそうだが、もはやこうなるとセカンドが穴だと言われても仕方がない。
なんとか先頭はファーストゴロに打ち取ってワンアウト。続くバッターにフォアボールを許して3人目。
『(し、しまった――)』
大卒2年目の若手左腕は甘く入った投球を痛打される。打球は自分の左足下を抜かれる速い打球。ただでさえ内野の不慣れな選手が守る二遊間だけに、9割諦めで振り返る。と、
『(させないっ)』
あと一歩届かなそうな位置から広川がダイビング。必死でグローブを伸ばすが打球を弾いてしまう。ところが、
「ふっ、ナイスエラー」
弾いた先はちょうど2塁ベース。ショートの選手が素手で拾いながら2塁ベースを踏み、1塁へと転送。
「アウトっ、チェンジ」
狙ったわけではないが、結果的にはセカンドへの併殺打。しかしあの打球に追いつき、その『結果』を導いたのは紛れもなく広川の勲功である。
ただそれもハラハラしていたファンからしてみれば、間一髪のファインプレー。これまで守備で歓声を浴びる事の無かった広川も、ベンチへの帰り際にファンから大歓声を浴びた。
この試合、12回表は無得点。裏も広川が危なげない守備を見せてまた無失点。勝ちきれず引き分けに終わったが、その彼の貢献はかなり大きなものであった。
『(陽香ちゃん。僕も頑張っているよ。だから、君も手術を頑張って)』
11月。プロ野球タイトルの授賞式や契約更改も終わってひと段落。今シーズン、彼としては初めてのタイトルとなるゴールデングラブ賞を受賞。打撃はさっぱりだったが、彼の見えない好守を評価してくれるものがいたのである。
となると途端に手のひらを返し始めるマスコミやファン達。中には「なぜ広川が受賞なのか」と頑なに考えを改めない頑固者もいるが、そうした者はかなり少数ではある。
そうして広川は多くのファンを手に入れたのだが、それでも彼はそうした存在にそれほど関心を向けはしなかった。それ以上に関心を向けるべき本当のファンがいたからである。
彼女曰く「大きな手術がある」とあったため、きっと病院にいるのだろうと推測した広川。オフになるとタクシーで病院にやってくるなり、受付にて入院しているかどうかを問いかける。
「えっと……入院患者さんにそのような方はおられませんが?」
現在、入院している人のリストから探してもらったが、求めてきた彼女の名前はなかった。
「あれ? 退院したのかな?」
だとすればいい事である。
広川は待ってもらっていたタクシーに乗り込み、手紙に書いてあった彼女の元へ。
『(喜んでくれるといいな)』
袋を持つ手に力が入る。
初めてのタイトル。そしてその初めてのタイトルを取らせてくれたファンへの報告。彼は空を飛んでいきたいほどに逸る気持ちを抑え込み、笑顔で彼女の家を目指す。
「えっと、指定されたお宅はこちらですね。帰りもお乗りになりますか?」
「長くなるかもしれませんが……」
「構いませんよ。球団の方にはいつもお世話になっていますから」
球団と親密にさせてもらっているタクシー会社だけある。長くなると話はしておいたが待ってくれるようである。
「では、帰りもお願いします」
「お任せください」
代金は帰りに払うとして、ここはひとまずタクシーを降りて玄関の前へ。気持ちを落ち着けてインターホンを押す。
「はい。どちら様でしょうか?」
しばらく時間を置いてドアが開く。でてきたのは母親だったが、彼の顔を見てハッとした様子である。
「広川博です。陽香ちゃんに会いに来ました」
「……そうですか。おあがりになってください。部屋にご案内します」
平日とだけあって静かな家の中。母親に促されるなり1階の奥へ。
「こちらになります」
母親が示したのは襖。
『(和室かぁ。意外だなぁ)』
ただ洋室よりも和室の方が好きというのも分からないでもない。彼女を驚かせるべく、紙袋の中から金色のグローブと、取っておいたプロ1号のホームランボールを手にする。
「……広川さん。心の準備はいいですか?」
「えぇ。いいですよ」
「では……ごめんなさい」
母親は小さな声で謝罪を入れつつ襖を開いた。
その瞬間、彼はすべてを悟り、手にしていたグローブとボールを床に落とした。
電気の付いていない和室。そこに彼女の姿は無かった。
ただ存在感があったのは、お供え物のしてある仏壇のみ。
「そ、そんな……」
一歩、二歩と進み、仏壇に置かれた彼女の写真がよく見える距離になってから、彼は膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさい……9月1日の深夜、あの子の容態が急変しまして、翌日深夜に息を引き取ったんです」
「ど、どうして。手術を、手術を受けたんじゃないんですか。良くなる事こそあれ、悪くなるなんて……」
広川の震える声での問いかけに母親は立ち上がり、仏壇横の棚から封筒を取り出す。そして彼の前へと静かに差し出した。
「あの子から、広川さんへのお手紙です……最後の、最後のファンレターです」
「最後の……ファンレター……」
その封筒はいつものファンレターに使われていたものと同じ。違うのは球団による安全確認および検閲が入っていないため、未開封であることくらいか。
受け取った彼は震える手で開封。中にあった手紙を開いた。
『この手紙を広川選手が読むころには、きっと私はこの世にいないと思います』
そんなアニメやドラマでありそうなベタな書き出しで文が始まった。
『最初に謝らないといけないことがあります。大きな手術があって手紙が書けないというのはうそなんです。もう自分の命が長くないことは自分で分かります。だから死んで手紙が書けなくなると、広川選手が心配するかと思って適当なうそをついたんです。ごめんなさい』
結果的に命日となった9月1日はシーズン中。それもペナントレースの展開次第では優勝争いまっただ中となる時期である。その時期のプロ野球選手に心理的な負担をかけたくなかった。中学校1年生の女子がまさしく必死で行った心遣いであり、だからこそ親たちも広川へと伝えなかった。
『広川選手との手紙や直接会ってのお話。野球やしゅ味とかいろいろ。それに広川選手のプレーに勇気づけられました。だから私の人生はけっして長いものじゃなかったけど、とっても楽しくて充実したものでした』
彼女の文字を今まで見て来たからこそ分かる。この手紙の文字は元気がない。もう体も心も衰弱していた時に書いたのだろう。
『もしそんな私に心残りがあるとすれば、もう広川選手の応えんができなくなることくらいかな? と思います。だから私の代わりに広川選手を応えんしてくれるぬいぐるみを作ることにしました。きっと天国に行っても、そのぬいぐるみを通して私は広川選手の応えんしています』
「ぬいぐるみ?」
そのふと口から出た声に母親は頷き再び引き出しへ。底の深い段から大きな紙袋を取り出すと、そこからぬいぐるみを出して彼の前に差し出した。
それは自分の所属球団のマスコットのぬいぐるみ。球団が販売している正規のものと比べると、お世辞にも上手いとは言えず、ところどころ違和感のある下手なぬいぐるみである。そしてそれに着せられたお手製のユニフォームには、広川の背番号が書かれ、その横にペンで文字が書かれていた。
『8/31 水戸陽香 広川選手へ』
その少しにじんで読みにくい文字を見て彼はハッとする。
彼女の命日は9月1日。
このぬいぐるみは8月31日に完成。
『(これは、あの子の魂がこもった……)』
ものの例えやことわざの類ではない。
生死の境界をさまよい、いつ三途の川を越えても不思議の無い少女。彼女は死する直前まで広川のためにぬいぐるみを作り続けたのである。
『広川選手ならきっとゴールデングラブ賞を取っていると信じて言います。広川選手、初タイトル、おめでとうございます。そして、来年からも頑張ってください。私は天国から全力で応えんしています』
応援できなくなると言っておきながら、天国から応援するとのこと。そんな矛盾なんてどうでもいいことである。ただ彼女は本当に彼を思い続けていたのだと伝わってくる。そしてその短くも長い手紙はまとめへと向かう。
『きっと話したいことを全部書くと、手首が壊れちゃいます。だから最後に本当に話したいことを書きたいと思います』
その後の文章を読んだ広川は、きっと生まれて一番の涙を流したことだろう。
『広川選手。私に生きる元気をくれてありがとうございました。 水戸陽香』
プロ3年目。わずか1年の間に起きた出来事は彼にプロで成長するための元気を与えた。
4年目。春季キャンプにおける打撃向上が功を奏し、シーズン終了時点で2割3分1厘、本塁打11本、打点25と、課題の打撃が大幅改善。さらにその後も着実なレベルアップを重ねて、プロ8年目にして通算100本塁打を達成する。
彼が苦境に立たされたのはプロ12年目。試合中、右中間に飛んだ打球を追っていたところ、ライトの選手と交錯。左足を骨折してプロ初めての長期離脱・2軍落ち。
ただそれでも彼はめげることをしなかった。
入院中にもできる部位のトレーニングをし、リハビリにも真剣に取り組んだ。少し調整に手間取り復帰まで1年を要してしまったが、逆に言えば1年で復帰ができた。
波乱万丈の野球人生を歩んだ広川は、ベテランとなる30歳以降も実力を振るう。
『9回の表。マウンド上にはここまで好投を続けているゴールデンルーキー、小牧長久。しかし勝利目前でツーアウト満塁、一打逆転の大ピンチ。小牧はこのピンチを切り抜けることができるのかっ』
プロ野球ペナントレース。この試合で勝てば開幕カード3連勝となる。その試合は先発の高卒ルーキー小牧長久が9回まで1失点の好投を見せていたが、9回になって勝利を意識したか突如崩れツーアウト満塁のピンチ。実況の声にも声が籠る。
『さぁ、ここが小牧、プロとしての真価を試される――あっと、高く浮いた球を痛打されたぁぁぁぁ。打球は右中間一直線。これは逆て――いや、センター・広川。フェンスにぶつかりながらも打球に追いついた。ボールは……捕っている。捕っている。広川博、ルーキーを助けるファインプレーぇぇぇぇぇぇ』
ルーキーだろうがベテランだろうが、とにかくピッチャーを守備で援護。球団にとってなくてはならない存在へとなる。
そしてプロ22年目。40歳の11月。
広川博は次なる戦いの場所を、この年高知にできたばかりの土佐野球専門学校と定め、『選手』としての野球人生に一区切りを付けて、『指導者』としての道を歩み始めた。
指導者としての道は決して簡単なものではなく、さらに土佐野球専門学校の『経営』という分野にも加わることとなる。それはプロでも味わったことのない非常に難しい問題であった。必死で簿記や会計、経営学の勉強はしているが、あいにく付け焼刃の知識でなんとかなるものでもない。
『(ここの分野について特化させるには、こっちの方を、う~ん)』
試合前の隙間時間にその経営について悩んでいた広川。慣れないノートパソコンの画面とにらめっこしていると、突然、監督室のドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
「失礼します。広川さん。そろそろ時間です」
呼びに来たのは今、彼が率いている2年4組のキャプテン・宮島健一である。広川は時計をチェックすると、掛けていたPC用メガネを外してパソコンを閉じた。
「確かにそうですね。では準備をしましょう」
やっていた事務作業の道具を片付け始める広川に、宮島は「最近、事務作業が多いですね」と質問を投げかける。それに答える広川だが、キャプテンだけあってそうした事にも目をくばってくれているのだろうと関心せざるを得ない。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「はい」
準備を終えた広川を見て、宮島は回れ右して部屋を出て行く。その背中を向けた彼の後ろで広川は、机に置いてあった『魂のこもったぬいぐるみ』の頭に手を乗せる。
「行ってきます」
「え? 広川さん、行ってきますって誰かいるんですか?」
「……なんて地獄耳ですか。かなり小声だったと思うのですが」
「めちゃくちゃ耳はいいんです」
つくづくこの宮島という少年は耳のいい人である。こうともなると聞きたくないものも聞こえてしまって、かえって大変なのではなかろうか。
しかし広川としてはどうしたものか。素直にその「行ってきます」の意味を話してもいいのだが、試合前に話すほどの時間はない。しかし適当にはぐらかすと、宮島の変な疑問を生じてしまう。
「ただのゲン担ぎです」
結局、そうウソをついて試合へと向かう。
『(では、行ってきます。陽香ちゃん。広川博、今日も頑張っていきますよ)』
本日の試合。
2組 3 ― 4× 4組
9回逆転サヨナラ勝ち
ここ最近不振だったとあるリリーバーにも成長が見られ、非常に充実した試合であった。
敬語について
一番必要なのは『言葉』ではなく『思い』だと考えます
正しい言葉遣いは思いを伝えるうえで必要かもしれませんが、
正しい言葉遣いだけ取り繕って思いが入っていないのでは本末転倒
例え間違えた言葉遣いでも、
思いが伝わるならばそれでいいのではないでしょうか
特に言葉とは生き物
時代の流れで意味や言葉自体が変わることもありますからね
壁ドンとかなんであんな解釈されたかな?
===========
短編集次回予告
・投稿日未定
・小牧長久ストーリー




